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脳みそがシチューで出来ていたらな。
高校の入学式、だらだらと続く式典を前に私はぼんやりとそう考えていた。
シチューには何を入れたって良い。クリームだろうがビーフだろうが自由度の高いアレンジが出来る。具材もその日その日で変えてしまえばいい。人参、じゃがいも、玉ねぎ、そしてお肉。お肉は入れれば入れるぶんだけ幸せになれる。それが全部贅肉になると分かっていてもやめられない。お酒や煙草なんかよりずっと、お肉は依存性が高い。
私は脳内でじっくりコトコトと煮詰まる脳細胞を感じながら――あ、寝ようかな。と思った瞬間には目を閉じていた。でもすぐに、校長先生の挨拶が終わると同時に奏でられる義務感溢れる拍手で目が覚めた。
教室には知らない人しかいなかった。推薦入試で入った私立高だから、中学校までの人たちはここにいない。いない。
ぐるりと端から端まで席を見渡す。出席番号に沿って座らされる。私はというと、姓は
音峰の「お」は「あ」行の中では最弱だ。あ、い、う、え、という難敵が前方に立ちはだかる。相田とか石田とか上田とか榎田とか、何かとりあえず田が付く苗字の人が二人いた。いや、川だったかもしれない。あれ、山かも。何かしらの自然を表す漢字が付いていたのは確かだ。
それじゃあ出席番号が一番最後、テストの返却も卒業式の紅白まんじゅうも一番最後になってしまう悲しい悲しい人は誰だろう、と教室の右端を見た。
女の子だった。つやつやの黒髪は少し肩にかかるくらいの長さで、前髪がかかっているから目元は見えなかった。
彼女は俯いていた。その手は文庫本を持っていた。周りが新たなる交友関係の構築を進める中で、目立ちたがりでただうるさいだけのクソ野郎が騒がしい中で、彼女の席だけが湖畔の静寂にあるようだった。
そのとき何の本を読んでいたのかを知るのは、しばらく後になっての事。私はというと、右隣や後ろの席の人たちが話しかけてくるものだから、「静かな湖畔の森の影から」なんて気分にはなれなかった。
一番最後。「や」行か「ら」行だろう。「や」なら山本、山崎あたりかな。山が付けば大体最後の方だ。「ゆ」なら……湯川とか? 「よ」だと……米田、米倉かな。
「ら」行の苗字ってあるのかな。ら、ら、ら……ランボルギーニしか思いつかない。り……リック・アストリー。る……ルクセンブルグ。れ……連帯保証人。ろ……ロード・オブ・ザ・リング。えっ、もしかして「ら」行の苗字って実在しないのでは? これ世紀の大発見では?
あ、違うわ。留守さんっていう珍しい苗字があるんだった。え、じゃああの人留守さん? だとしたらめちゃくちゃレアなのでは?
私は途端に自己紹介の時間が楽しみになって、私の前の人や後ろの人の話なんて何一つ頭に入ってこず、一番最後の文学娘の苗字だけに関心を寄せていた。サッカーが好きとかジャニーズの誰それが好きとか、多分そういうことを喋っていたと思う。
ようやく彼女――留守さん(仮)の番になると、心底面倒くさそうな目つきでつかつかと教壇まで歩いていった。
「
流れるように一息で喋り、さっさと自分の席へと戻っていった。コミュニケーション能力が問われるこの学校生活において、ここまでぶっきらぼうな自己紹介は地雷以外の何物でもない。
しかし私は「雪待」という美しい苗字に感動したし、「夜鶴」というジャパニーズ・ワビサビな名前にも衝撃を受けた。え、そんな美しい名前アリ? 主人公かな? こんなに綺麗な名前があるだなんて。
そして名前に負けず、彼女は顔面偏差値が高かった。宝塚歌劇団の男役みたいな、鋭く艶やかな目つきが特徴的だった。
どこかで話しかけられないかな。席替えで隣にならないかな。もし話しかけるとしたら、最初にこう言うって決めた。
「ずっとそのままでいて!」
だってそのフルネーム、誰よりも何よりも素晴らしいから。
そうそう、私の自己紹介はというと。
「音峰陽薫です。趣味は……何だろう、寝ることです。よろしくー」
ああ、本当にしょうもない。なんだよ寝ることって。誰にも刺さらないじゃん。ここからどう話を広げるんだよ。どんな枕使ってるの? なんて聞くやついるわけないだろ。
私達はそうして出会った。いやまだ出会ったとは言い切れないかもしれないけれど、少なくとも私は彼女を認知した。
その日は晴れていた。雲ひとつ無い空だった。間違いなく。だって窓から差し込む陽が気持ちよくて、私はひたすらに眠かったから。
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