第127話
「――?!」
ルカヱルの急激な方向転換と減速に反応しきれず、その箒の柄がボディブローのように、ノアルウの身体に激突した。
彼女の胴体は柄に引っかかり、ノアルウが乗っていた箒は慣性ですっぽ抜け、ばしゃんと音を立て、海の中へと落ちて行った。
(今だ!!)
直後、ルカヱルは更に箒の柄の先を天に向け、ノアルウを乗せたまま空へ向かって加速したのである。
「…――・・・!!」
ノアルウは体を動かそうとするが、急激な加速によって体にのしかかる重力で拘束されていた。
ルカヱルの加速した箒はすぐに雲を超え、さらに遥か上へ、上へと向かっていく。
(この大地からできるだけ遠くに――インクレスの共鳴が届かなくなる、ずっとずっと上の空に!!)
「――・・・――…!」
牙を食いしばるノアルウが、ゆっくりと右手が伸ばし、ルカヱルの袖をつかんだ。その鉱物に覆われた鋭い爪がルカヱルの肌に食い込むと、さらにノアルウはあの音を響かせる。
「QRAAAAAAAAAAAA!!!!!」
「うっ…!?」
ルカヱルの身体の芯に不快なマナの共鳴が蔓延り、頭のてっぺんまで揺らいだ。
「ぃッ…あぁaaaa……!」
ルカヱルは咄嗟に腕を振り払う。
その拍子にノアルウの爪が食い込んだせいか、彼女の袖は破れて、風に乗って広大な海へと落ちて行った――魔法によって袖の下に仕込んでいた封印の苗木も、いつも肌身離さず持っていたドロップ缶も、諸共に。
(苗木が…!! ドロップ缶も――)
ルカヱルは表情を揺らがせた。
封印の苗木はノアルウを治療できるかもしれない現状で唯一の手段である。そのうえ、最早お守りとも言えるドロップ缶までもが、海に落ちてしまった。
その動揺は魔女にとっても大きいものだったが、それ故に、莫大なマナを生み出す原動力にもなった。
(ここまで来て、こんなところで、負けない!!)
「――aaaaaぁぁあああっ!」
窮地において、ルカヱルは更に箒を加速させた。
空気の魔法による箒の速度制御に加え、マナを持つ物を反発させる魔法を遥か真下の大地そのものに使い、莫大な反作用によって、止めどなく速さを増していく。
(速く速く速く! もっと速く!!)
ついに箒の速さは音を優に超え、自分の声すら忽ち遥か遠くへ置き去りにされていく。二人の身体に降りかかる強烈な
「くっ、ううう…!!」
ルカヱルの身体から黒い煙となったマナが流れ出し、負傷が増していく。
それにも関わらず、そのとき漏出して流れ落ちる自分のマナすらも魔法で反作用させ、噴射の要領で更なる推進力を得た箒の速度は、ついに限界を超えた速さに至り――
気がつけば周囲が暗闇に覆われ、水平線が丸みを帯びるほどの高所に届く。星が全方位に浮かび、夜空の上にあるその世界は、宇宙だった。
真空と暗闇の世界で、力尽きたように箒は加速を止める。ルカヱルは傷まみれになった身体で、なんとか声を出そうとした。
(ノアルウ…だめだ、ここは空気が無い。声が響かない…!)
空気の無い宇宙で声もまともに響かず、そこでルカヱルは空気の魔法を使うことで、すぐ傍にいる友に届かせようと声を上げた。
「ノアルウ、ノアルウ!!」
無限大に広がる真空空間のほんのごくわずかな範囲に彼女の必死な声が響くと、やがてノアルウの視線が、わずかに動いた。
「a――・・・…あ…」
ノアルウが身体に纏っていた鉱物は少しずつ瓦解し、宙の向こうへと散っていく。ノアルウの右目が丸く見開かれると、彼女は箒の柄を握り、身体を起こした。
「――ルカ? あれ、ここって……」
「……!! ノアルウ~~ぅぅぁぁああああん!!!」
「うわっ! ちょ、危なっ――というか此処どこなの?!」
「空の上、ものすごく空の上……頑張って飛んで来たら、こんなところだった」
「空? 雲も空気も全然ないんだけど……。君、こんなところまで箒の魔法で飛んできたの?」
「むちゃくちゃ大変だったんだよ! う…くぅ……」
こらえきれず、ルカヱルの瞳から大粒の涙が零れ落ち、宙に丸い雫となって浮かぶ。
ノアルウは掛ける言葉を探して一瞬口を開き、しかしすぐに閉ざすと、ルカヱルの頭を抱き寄せた。
「そうだよね。うん、そうだった……ごめん……っ!」
ノアルウの右目にも涙が浮かぶ。それほど感情に起伏が生まれ、マナに満ちているにも関わらず、インクレスの寄生が進むことはなく、鉱物は今も少しずつ剝がれていた。
「ルカ……会えて、良かった……!」
「あああー…っ! よかった、ノアルウ……ようやく会えた、ずっと会いたかった!」
「うん…うん……!」
しばらく二人の泣き声は、彼女たちだけが聞こえる範囲に小さく広がっていた。
*
ひとしきり落ち着いて一時の静寂のあと、ルカヱルが再び口を開いた。
「インクレスの伝承を残したのは貴方だよね」
「うん」
と、ノアルウはすぐに頷いた。
「寄生されてたから危険性を直接広める行動は禁止されてたの。実際のところ、ほとんどのケースでインクレスは危険じゃないけどね――だからこそ、海の伝承が残せた」
「でも危険じゃないのは、海の下にいる限り、でしょ」
「分かってるね、ルカ」
と、ノアルウは肩を竦めた。
ルカヱルは続ける。
「私、だからジパングに来たの。フルミーネがインクレスに寄生された竜ってことは分かってた。でもそれ以上に……初めてフルミーネを観察した時のこと思い返すと」
“QRAAAxxxx”
ルカヱルの記憶の中で響くその声は、他に寄生された竜を一通り観察した後に改めて思い返すと、ほんのわずかに異なるものだった。
当然、フルミーネ本体の声も聞こえていた。だがそれ以上に、低空飛行で地を這う竜と並走していた時に聞こえたわずかに異なる咆哮の音源は――
「あの声は、本当は地面から響いてた。フルミーネは他の竜と比べて、一番インクレスに近いところにいたんじゃないかって、そう思ったの」
「ふふっ、本当に、よく分かってる……君には会わないよう頑張ってたけど、やっぱり最初から皆と一緒に出来たら、ずっと良かっただろうね」
“一緒に出来たら”という仮定の置き方を聞いて、ルカヱルは俯く。
ノアルウにとってそれは意思決定の問題ではなく、可か不可かの問題だったのだ。インクレスに寄生されることは、それほどまでに行動へ制限を与えていたらしい。
「それに私の目はアトランティスが沈んだときからどんどん見えなくなった。ここ百年くらいは、いよいよ光しか見えなくってさ……他には、マナを感じるくらい」
「私のことは見えてるの?」
「うん。今は、久しぶりによく見える」
ノアルウは頷くと、手のひらをルカヱルの頬に向けて伸ばす。
ルカヱルが反射的に少し身を退けると、ノアルウはさらに手を伸ばし、頬に触れた。
「ね?」
「……うん。うん」
「インクレスの痕跡を探すことはできたの。マナを追うことはできたし、私自身、竜と共鳴してる。逆手にとれば、一番インクレスの危険性が及びそうな場所も、見つけやすかった。パシファトラスの周辺、ムー、レムリア……これまでに見つけた危険な裂け目は、封印してきた」
そうしてノアルウは、ジパングに来ていたのだった。
かつて東洋群島まで把握していたインクレスの裂け目の範囲はジパングにも及んでいた。沖の小さな島と比較すればずっと広い大地のどこかに裂け目がある――本来は夜に人目を避けながら、マナの共鳴を頼りに、まるでダウジングのように地道に探して見つけるものだった。
それは一か所を見つけるのに何年もかかる作業だったが、ここ数日で急激に状態が変わり、裂け目の近くの共鳴が強まったことで、ノアルウの目も反応した。
「共鳴が強まった――そっか。ちょうど一昨日、みんなで竜の封印を始めたから?」
「たぶんその影響かもね。おかげで探す手間はかなり省けた――と同時に焦った。インクレスが地上に出ようとしてるのを感じたから」
ノアルウは眼下の球体を見つめる。暗い星空の中に浮かぶその星は、どこか光っているように見えた。
「魔女がみんなで竜を封印してるっていうのは、聞いた話なの……セタっていう子、君の友達なのね?」
「えっ! うん、友達! ……そうえいばセタ、なんであそこにいたの?」
「色々あってあの子に聞いて、フルミーネのところに案内してもらったのよ」
ノアルウは微笑んだ。嬉しさと安堵を感じさせる穏やかな表情だった。
「私が封印しようとした裂け目は、さっき師匠が代わりに封じてくれた。とりあえずのインクレスの脅威は、退けられたと思う」
「でも、また来る可能性もある?」
「ええ。根本的には、インクレスの本体をどうにかするしかない……ま、みんなで考えたら、私よりもきっと良いアイデアが浮かぶよ。お茶でもしながらさ」
「じゃ、じゃあノアルウも――」
「私は無理」
ノアルウは首を振った。
その返事を予想出来ていたルカヱルは、つい俯いた。
「私にはまだ寄生が残ってる。インクレスの共鳴が届かない此処だったらともかく、地上に戻ったら皆に迷惑を掛けちゃう。……ルカ、君だけ戻って。私は、この宙の遠くに行く」
「えっ……」
「君に私が話したいことは聞かせた。インクレスのこと、封印のこと……。皆で協力して、なんとか」
「だ、だめっ!」
ルカヱルがノアルウの手を握り、彼女の動きを制した。
「貴方を治療する方法はあるの! 試す価値はある、だから……」
「封印でしょ? 本心は私もそれを試したい。でも、地上に戻るまでの間に共鳴状態が戻ったら、私は――インクレスは、それに抵抗する。私は空気の魔法を使ってしまうから、物理的に苗木を当てられるのは貴方以外にいない」
「……」
ルカヱルが俯く。
彼女は今、苗木を失っていた。海に落としたのだ。
新たな苗木を得るにはメフィーに頼むしかないが、それには一定の時間がかかる。その間、寄生されたノアルウの動きを制御できるとは限らない。一方でメフィーが直接封印しようにも、障壁となる空気の魔法を中和する必要がある。
空気の魔法と封印の魔法をどちらも使える者、それに加え、封印に使う苗木が揃っていることが必要だった。
共鳴が弱まっているわずかな隙をついて――つまり、地上にたどり着いた直後に――道具とその者たちの動きをそろえるのは、あまりにも荒唐無稽だった。
「……あ」
ルカヱルが顔を上げて、ノアルウを見つめる。
「なに?」
「ノアルウ。貴方――治療できるなら、封印を試したいって言ったよね」
「うん。でも、今の状態で地上に戻ったら、それは……」
「考えがあるの! でも今、それを実行できるのは――貴方しかいない」
そう言って、ルカヱルは握っていたノアルウの手のひらを、箒の柄へと置いた。
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