第121話
洞窟を突き進む竜は、餌場を通り過ぎて、一目散にどこかへ移動していた。
「え、餌場で止まらない…?」
「すでに食餌のあとか」
(ここで逃せば海に逃げる可能性もある。封印の苗木を刺すなら、この洞窟の中しかない)
「アルマ、できるだけ離れて隠れておれ」
「先生は?」
「あやつを止める――“変身”」
ミィココの姿が瞬時に変わり、三つ編みと白衣、ブーツを纏った姿となる。その瞬間、莫大なマナの存在を察知したミレゾナが動きを止め、即座に振り返る。ミィココにとっては一種の挑発であり、釣りに近い――竜は、あっさりとその罠に嵌った。
QRAAAAAAAAA!!!!
竜はすぐさまに牙を立て、ミィココへと猛進する。牙がうっすらとマナの光を放ち、空気すらも感電したように振動する。
ミィココは下顎の下に滑り込み、その一噛みを回避する。
さらに続けて、ブーツで思い切り竜の顎を蹴り上げた。洞窟の天井にぶつかり、亀裂が入る。
(こやつ、喉すら硬いのか?!)
じぃん、とした感触が身体の芯に走り、顔を顰めるミィココ。全力を振りかざしたブーツのつま先にも傷がついている。
(いや、硬いんじゃない。振動でこちらも弾かれたのか。こやつの共鳴能力は鉱物で出来た牙の振動……その振動が伝わったのか)
ミレゾナの下顎から離れて、脇へと転がり出る。竜は首を振り、その鋭い鱗を逆立てて怒りのままに咆哮する。
(こやつの体は硬い鱗に覆われている。苗木を刺すうえで、狙えるとしたら……)
ミィココは、ミレゾナと竜を交互に見遣る。鉱物と竜のマナによって歪んだ視界の中でも、碧翠審院で身に着けた技術により、戦況を殆ど正確に把握できていた。
怒り狂う竜が、ガチガチと歯を慣らしながら、ミィココへと迫り――
QRAAAA!!!
再び響いた咆哮が、洞窟の中に轟く。
「はっ……儂だけでなく、頭上に注意したほうが良いぞ」
そこで洞窟の天井が崩れた。皮肉にも竜の咆哮が最後の後押しとなり、亀裂の入った部分が崩落したのである――と同時に、大量の砂がミレゾナを押しつぶすように流れ込んだ。その展開を予想していたミィココは、すでにその場から離れていた。
(この洞窟の一部はグラ砂漠の下に位置しておる。脆い岩盤の下から衝撃を与えれば、こうなるだろうな)
流れ込んだ流砂の下敷きになったミィココが、砂を蹴散らしながら這い出て来る。しかしその動きは、殆ど自由が効かず、わずかに首が動く程度だった。
「やれやれ。ようやく狙えるようになったのう」
すぐさま竜の首の傍に近寄る。どこも鱗に覆われて、樹の根を刺せる場所は乏しい。
完全に露出した、ある点を除いて。
マナに乏しい砂を被ったことでコントラストとなり、狙いはより正確になった――ミィココは苗木を、竜の目を目掛けて、深々と突き刺した。
――GqyAAQxrrQQRAAAxxxx……!!!!
竜はおかしな咆哮を上げ、やがてその声が消え入り、静寂が訪れる。崩落した洞窟の天井の穴からは今も静かに砂が落ち、地上から差し込んだ光が魔女と竜を照らす。
竜の目に根付いた苗木はマナを吸い上げ、すでにわずかに成長し、その光を浴びていた。
「……お、終わりました? けほ、けほ」
「ああ」
砂塵にせき込みながら、ゴーグルをしつつアルマがミィココの傍に歩み寄る。竜は眠っているように、静かに息をしていた。
ランタンの光で照らしながら、アルマはミレゾナを観察する。
「凄いですね。白魔女様の苗木。こんな、あっという間に眠りにつくなんて」
「じゃな。正直、儂が思ったよりも遥かに強い魔法じゃ。昔からそうじゃが、やはりあやつ末恐ろしいのう」
ミィココは竜の前に座り込むと、ため息をついた。どこか、後ろめたさを感じさせるような息遣いだった。
「……手荒な真似をしたな」
「先生……」
「ま、こやつは死んだわけではない。いずれまた、海に出ていくこともあろう。――さて、こうしてはおられん。アルマ、次は鉱物の汚染度を確認しに行くぞ」
「はい!」
*
夜が明けた朝のジパングでは、通りに人が集まり、ちょっとした騒ぎとなっていた。
「ちょ、ちょっと通して~」
その傍の宿で休んでいたリンは、その人々の声を聞きつけ、その場へと駆けつけていた。じんじんとする腿と足の裏の痛みを感じながら、皆の集中が注がれる場所へとたどり着く。
「……!!?」
そこにあったのは、絵だった。
城壁に描かれた精巧な風景画。ほとんど一定の太さの黒線で、克明に描かれている。
周囲からは、浮足立ったような声色の会話が聞こえた。
「この絵、やっぱ幽霊画家?」「うん、じゃない!?」「ひっさしぶりに見たな~、この感じ…!!」
リンは目を丸くして、とっさに、写真機を構えた。
(やっぱり幽霊画家なんだ!! でもここ、昨日通ったのに? 本当に一晩のうちに描かれるんだ…!?)
感動しながら、写真機を覗き込むリン。レンズのフォーカス越しでは、壁に描かれたグラフィティも、まるで額縁に飾られた絵画ように見えた。
そのとき、リンの記憶の中にある一幕がよみがえる。同時に、鳥肌が立った。
(この風景……。昨日、見たような……?)
ひとり言葉を失うリンに反して、周りの人々の会話が加速していく。
「でも前とちょっと違うよね。さっき見た時、黒っ、って思った」
「なんか珍しく、人影とかも描いてるよな?」
「前は景色だけだったよね」
「これ、洗うの大変そうだなぁ」「木炭か石炭? 炭みたいだよね」「あ、私も思った。――昔、チョークとかで描いてなかったっけ」「画材変えたんじゃね? ここの壁、白っぽいし」
リンは鳥肌の次に、いよいよ冷や汗をかき始めた。
由来は自覚できていないが、ともかく居た堪れない感情になって、絵と観衆から離れて道を歩く。
(ちょっと待って、ちょっと待ってぇ…!! この絵画の風景、昨日の夕方に見たのと同じ……!?)
その印象は概ね正しかったが、しかし一点だけ、リンが眺めた風景とは異なる物があったのである。
それは人物。
夕日に伸びた陰影に黒く塗られ、体格と髪型しか見えない少女のような人影が、手すりにもたれ掛かり黄昏た様子で。
それがリンの風景の記憶に残ってないのは当然――その人影が昨日のリン自身だったから、彼女の記憶に彼女自身の背中が見えるはずがない。
であれば、
あの時に彼女の傍にいた人物で、
画材となる木炭の持ち主であり、
精巧な絵を速筆で描ける者こそ、
幽霊画家である。
(それ…セタさん以外にいるわけ――)
「ぅぁぁぁぁぁ……っっっ?!! やばっ…じゃあ、まさか私、ほっ、本人の前でっ……! 本人の前でずっと語ってたの!?」
そうしてようやく、冷や汗の原因を自覚した。つまり羞恥心である。
(ウソ…! ウソだと言って〜〜!!)
*
「親父、ちょっと出かけて来る」
そんな一言を玄関に残したあと、セタは出かけていた。
(昨日描いた絵、さすがに一日くらいは洗われずに残ってるかな?)
セタは想像する。
役所が開業し、通報が届き、担当者が割り当てられ、清掃員が雇われ、派遣され、洗い落とされる――役所の仕事ぶりを想像すると、どれだけ早くても午後の茶の時間までは残っていそうだ、と見込んだ。
かたやセタは逃げおおせる――わけではなく、とある目的地を目指していた。エダの地から少し離れた辺境の地であり、セタにとっては因縁がある。
数時間かけても歩くと、その場所に至る。
「なんか昨日から歩いてばっかだな……疲れた」
腰を落ち着け、周りの風景を眺める――不自然なほどに何もなく、背の低い草と、亀裂の入った石つくりの土台ばかりがいくらか残っている。
(だいたい2年ぶりくらいか…。役所に就職してから、一度も来てなかったから)
そこは地震の被災地だった。
十年余り前の当時発生したのは、ごく不自然に局所的な振動であり、ひどい液状化なども発生したが、ほんの少し離れたエダではその震度が大きく減衰し、城壁が崩れるなど、わずかな被害に留まったという。
反して、此処にかつてあった人の棲み処は呆気なく崩れ去ってしまった。地面が水平方向に地滑りを起こしたような、突発的な震災だった。家屋が崩れて出た木片や瓦礫は資源として数年かけて回収され、一部は石材や木材として城壁の補修、新たな集合住宅の建築にも使われた。
片付けられた後はまだ再建されず、最近では実質的な立ち入り禁止区域として、何かの跡地だけが点々と残っている――ここには昔のセタの家もあった。ただし彼は、自分の家の位置をよく覚えていない。あの時の視界も記憶も涙に滲んでしまい、あとに見た此処の景色も地滑りで変わり果て、幼かったセタのどの記憶とも合致しなかった。
崩れた家の土台の内の一つは、彼の前の棲み処のものであり、母親の墓標とも言える。だからここを訪れることは、墓参りのようなものだった。
(見つかるわけないけどな…なんの目印もないんじゃ…)
腰を上げ、彼は何もない荒野を散歩し、記憶を頼りに自分の家だった場所を見つけようと歩き始めた。
(なんか此処、前よりも亀裂が増えてるような?)
セタの記憶よりも、状況は酷くなっているようだった。大地に入った亀裂は人間の足の幅を優に超えていて、普通に歩くことすら危ぶまれる。
アカギが言っていたことをセタは思い出す。最近、地震が増えた、と――彼の足元に激震が走ったのは、ちょうどその時だった。
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