第120話

 パシファトラスの西の水平線に陽の光が浮かぶころ、ルカヱルは件の裂け目の上に到達していた。ミィココを送るためにメガラニカを経由して、まる一日ほど費やした移動の直後である。

「ふうー、よし、行くか」

 そして波打つ海面に目掛けて箒を加速し、深海へと一息に潜っていく。

 より深くを目指せば目指すほど、星の深奥のインクレスに近付ける。

(ノアルウも、きっとそこに来るはず)

 箒が進むほど、光の届かない暗い水の中に入っていく。ある深さを超えた所で、マナの光が視界をよぎった。

 インクレスが放つ光である。ルカヱルは箒の先を調整して、海底の裂け目に再びたどり着いた。

 しかし、その光は以前よりも弱く、海底の底を覆う鉱物の向こうを泳ぐインクレスの影も、明らかに少なかった。

(前に来たときより、数が減ってる? なんで……? もしかして、ノアルウが封印した?)

「……ノアルウー!」

 海底で声を上げて、名を呼ぶ。

 本来は届くはずのない声も、空気の魔法によってある程度遠くまで伝播させることが出来る。裂け目一帯に響く木霊に驚いたように、インクレスの流れが乱れる。

(いない……来てないの?)

 ルカヱルは裂け目の中を歩き、ノアルウの痕跡を探す。

(ああ、もう用事を終えて出て行ったってことも有り得るんだ。だとしたら、ジパングで見つけたのと同じような箒の封印がきっとあるはず……)

 その場合、またノアルウの場所を探す必要があるが、広い世界から何度も人探しを繰り返すのは骨が折れる。

 なによりノアルウの安否が気になる彼女は、ここで何の手がかりも見つけられなかったらと思うと気が気でなかった。

(ノアルウ――! お願い、ここにいて!)

 魔女の時間の間隔は恐ろしく緩慢で、ルカヱルはそれから海底の裂け目を何時間も歩きまわっていた。ところが、その間にノアルウが来ることも、魔法の箒が見つかることも無かった。

「ここに来てないの? そ、そんな……」

(――いや、そもそも本当に此処に来る……?)

 消沈しかかったルカヱルは、ふと、そんな疑問を抱いた。

 ノアルウの居場所を予測した根拠は、外ならぬ彼女本人が書いた海流予想図と海底の地形図である。それらはある意味、白魔女が描いた『世界地図』の空白を埋める地図である。

(海底の裂け目と海流をもとに探したら、本当に見つかる? ここで待ってたら、本当にいつか逢える……?)

 海底の裂け目は、インクレスが最も地表に影響を与えうる危険地帯だった。裏を返せば、裂け目越しにインクレスに与える影響も最も大きい。

 もしノアルウが封印するとすれば、そのような危険な裂け目だろうと、そう予想していた。だからルカヱルの頭の中では、他の裂け目の位置を思い返し、別の当てを探していた。

(ノアルウの封印の箒が見つかったのはジパングの沖だけ。ここの海底の裂け目には、前も今も封印の箒が無い。ノアルウが見つけてないだけ……?)

 そして、はっとしてルカヱルは上を見上げた――果てしなく遠い海面を。

「違う。少なくとも、ノアルウが此処に来てないはずない……!」

 あることに気付き、ルカヱルは息を乱した。

(とんでもない思い違い……! そもそもここはだから、ノアルウがここを知らないはずがない! なんだから――!)

 勘違いに気付き、裂け目の下を泳ぐ僅かなインクレスの影と、上とを交互に見る。

 なぜ封印されてないか、ルカヱルは考えていた。インクレスに近い裂け目がここにあると知りながら、どれだけ波紋が海面に広がろうと、ノアルウはこの場所を無視していたようだ。

 そこには意味があると確信していた。いつかの議論が頭をよぎる。インクレスは保有する莫大な規模のマナに反し、これまで破壊的な災害を殆ど起こしていない。流星として堕ちたときと、アトランティスを沈めた時以来は。

 だからルカヱルが恐れた‟ガイオス”という仮称の竜は、結果論的には、活性化したインクレスの状態を意味すると言えるのだと、そんな仮説をセタと話したのだ。

(活性化――前にインクレスが“ガイオス”として活性化したのは、アトランティスの真下にいたとき……)

 つまり大地の下であり、海の下ではない。

 ノアルウの行動原理は明確だった。インクレスが海下でどれだけ暴れたところで直接の脅威ではなく、真に脅威なのは、だとすれば、大地と海底の裂け目が交わり、地上に波紋が広がる場所こそ優先的に封印している場所だったのだと、ルカヱルは気付いた。

(ちょっと待って、だとしたら……、だとしたら――)

 アイランの祖父の祖父の代、ジパングの東洋群島の裂け目の封印に出向いたのは海ではなく、あの島の陸地を守るためだったとすれば。

 ジパングという群島の辺境に棲む飛行能力のない地を這う竜フルミーネにさえ、インクレスが寄生しているとすれば――

「ヤバい……! 此処じゃない!」

 そしてルカヱルは箒に跨り、全速力で加速して海の上を目指し、彼女が盛大な水飛沫とともに海面に出た時、箒の先は、ジパングに向いていた。



 *


 夜明け前。

(だめだ、眠れない)

 目を覚ましたセタは、上体を起こす。

 虫のさざめきが静かに外から聞こえ、人の声が聞こえなくなった未明の時間、やけに目がさえてしまった彼は、外に出ることにした。

 真っ暗な道を音もなく歩くと、昔の記憶がよみがえってくる。

 幽霊画家が見つけられた夜、相手トーエはセタを責めたり、非難したりするわけではなかった。

 彼は純粋に、不思議そうな表情で尋ねたのだ。

「お前さん、どうしてそんなことしてんだ?」

 大人であるトーエに保護され、一時的に補導のような状況になったセタは、すぐにはその問いに答えなかった。



「――ま、良い。夜は危ないから、もう出歩くんじゃないぞ。ほら、家まで送るからよ」

「……えっ」

「? なんだよ」

「いや、俺。壁に絵を……だから」

「だから、補導されたってか? はは。補導なんて、役人オレの仕事じゃないんだよ。絵のことは面倒だし、いったん不問にしてやる。ともかく夜に出歩くなよ」

「でも、絵を描くのは、禁止になったんじゃ」

「ちゃんと新しいルールを知ってんなら描くなよ――くはは。実のところ、俺は幽霊画家のファンでな。けどせっかくだし、理由は聞きてえな。もっかい聞くぜ。お前さん、どうしてそんなことしてんだ?」

「……暇潰し」

「“暇”ってな、夜は寝る時間だろ? ……ま、日中にやることがあったら夜は眠たくて仕方ないが、日がな一日暇で退屈だと、夜も眠れないもんだ。そういうときほど、やたら非日常感を求めたりな、心当たりはある――。はは、悪童だな。じゃあお前さん、働けよ」

「……は?」

「そんだけ暇なんだったら、疲れる仕事でも紹介してやる。お前さんのその、妙に正確な絵描きの才能を活かせるやつ。見た感じ、身のこなしも悪くないしな」

「か、勝手に決めないでくれよ」

「おう。そりゃそうだな――なら、お前さんが決めろ」



 あの時、頷かずに家に帰っていたら、自分はいまごろ何者になっていたのかとセタは考えることがある。

「絵描きか、それか……。他に何かあるかな」

 自分を必要とするものに会えれば他の何かになれたかもしれないが、今のところセタはその何かが思いつかなかった。

 “インスピレーション探し中なの”

 ところがリンの言葉を思い出し、そして彼は、もたれかかっていた壁の方に向きなおった。ポケットをまさぐると、木炭の欠片が見つかった。

 それから、わずか十数分ほど。

 セタが離れた後の壁には、街の高台からエダの地を眺めた風景を描いた一つの作品が残され、それが幽霊画家の最期の遺作となった。



 *



 ジパングの夜が明けるころ、ほとんど真南に位置するメガラニカも同じ時刻だった。

 ルカヱルに送られて博物館に到着した後、ミィココたちは数百年前に拾った例の碧石と翡翠を回収していた。ついでにミレゾナの生息域まで箒で移動した後、パシファトラスに向かうルカヱルとは解散した。

 それから魔法で準備を整えてアルマと共に潜水を始め、ふたたび例の海底洞窟へとたどり着いたところだった。

「ふむ。しかし、ここの石は全く異なる組成じゃからな。見比べたところで、碧石や翡翠とは元々似ても似つかん」ミィココは目を強く細めて、唸るように言った。

「やっぱり、同じ石じゃないと比較は難しいですかねえ」

 周囲をランタンで照らしながら、アルマも舌を巻く。「やっぱり、後でその石の採石場所に行った方が汚染の具合は分かりやすそうですね」

「うむ――。む?」地鳴りのような感覚が洞窟に広がったので、ミィココはアルマの肩に触れる。

「アルマ、身を」

「もう屈めてます!」と、アルマは小声で応じた。

 そうして洞窟の影で身を潜めた彼女たちの脇を、ミレゾナが通り過ぎていった。

「追うぞ!」

 すぐさまミィココが立ち上がり、アルマの手を引いた。


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