第99話

(今!!)

 吹き飛ばされた竜の分身が硬直している一瞬の隙をつき、ルカヱルは再び箒を加速させて、ヲルタオの元へ向かう。

 メルキュリオの本体もまた、ルカヱルが放った金属の魔法の斥力を受けていた。しかも単なる斥力ではなく――ルカヱルは左手で斥力を放つ前、右手で本体を引き寄せていた。引力と斥力が同時にメルキュリオの本体に作用したことで、その結晶から成る形状は大きく歪み、今や倒れ込んでいた。

「ナイスです、ルカヱルさん」

 ヲルタオはメルキュリオの口蓋を蹴り上げ、開いた牙の隙間から脱出した。同時にルカヱルが彼女の手を握り、あっという間に、一行はその場を離れた。

「ヲルタオー!! 無事!?」

と、リンが箒にぶら下がるヲルタオへ声を掛ける。

 ヲルタオは彼女にピースサインを送り、「無事」と、一言だけ返す。平然とした振る舞いだった。

(でも、無事と言いつつも……)

 損傷した彼女を見て、セタはつい眉を顰める。ヲルタオの首から頬にかけては数本の亀裂が残り、おそらくはより酷く損傷したであろう首元から下の惨状を想像させたのである。魔女は大概、負傷した時に亀裂が残る。

「げほっ……。いや、無事というには、ちょっとダメージがあるかも……。ルカヱルさん、少し離れた一旦降ろしてもらっても?」

「うん、ちょっと待ってて」

 ルカヱルは頷き、徐々に地面へ近づく。箒にぶら下がっていたヲルタオが最初に着地し、次いでその脇に箒も着陸した。

「ヲルタオ!」と、リンが真っ先に彼女に駆け寄る。「ぼ、ボロボロじゃん……」

「無事だから安心して、明日には治る。これはあれ、ささくれみたいなもんだから」

「……でも、ささくれって、結構痛いよ」

 リンが涙声で言うと、ヲルタオが肩を竦め、彼女の頭を手のひらで叩いた。

「また温泉行っとこうかな……。リンも来る?」

「……うん」

 一方、セタは遠景を見つめていた。負傷したヲルタオをあまりまじまじ見たくない、という思いもあったが、それよりも竜の方が気になった。ルカヱルも同じ方向を見ていた。

「今のところ――メルキュリオが追ってくる気配はないね」

「そうですか。良かった……」

「といっても、あの竜は擬態が使えるからね。気は抜けないけど」

 セタは緊張して息を呑んだ。メルキュリオは見た目だけでなく、マナも周囲の状態に寄せられる。

 つまり人間も、魔女の目も欺けるのである。擬態どころか「透明」と言っても差し支えないのだ。だが、その竜は現にヲルタオに噛みついた。

(ある意味これまで遭った竜のなかで一番恐いな)

とセタは評した。

「ヲルタオ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、答えられそう?」

「質問による、かな。なんです?」

「その回答なら、とりあえず体の方は大丈夫そうだね」とルカヱルは安堵の息を衝く。「あの竜に噛まれて、感じたことはない?」

「………」

 ヲルタオはしばし目を伏せた。「しいて言うなら、不快でした」

「ま……、噛まれたらそれはそうかもね」

「いえ。単に心境的なものというより、マナに不快感があった、ということです。適当な語彙が出てこないですが、生理的に受け付けない感覚」

「ふむ、魔女の生理的にねえ……」

「例えるなら……黒板を引っ掻いたときみたいな?」とリンが言う。

 思いがけないコメントにヲルタオは一瞬目を丸くしたが、

「うんまあ、人間で例えるならそんなとこかな」と頷いて答えた。

「うわあ、それは確かにいやかも」

 リンが顔を顰める。一方、セタも人間だったにも拘わらず黒板になじみがなかったため、リンの言う不快感のことが、あまりピンと来ていなかった。

「それ、何が不快なんですか?」

「実は私も、何が嫌なのか分かんない」ルカヱルも続く。

「あ、あれ? 思ったよりみんな共感ないの? セタさん、聞いたこと無い? 黒板引っ掻く音」

「……黒板、仕事ではあまり使ってないもので、その音を聞いたこと自体があまりないですが……」

 もちろん、黒板は知っていて、黒板に文字を書くためのチョークも(画材として)知っていた。ただ、セタがその黒板を頻繁に使う立場になったことはなかった。

「すっごく嫌な音。鳥肌たつ感じ」リンは首を引っ込めるような動きで肩を竦める。

「音でそこまで……?」

「あの音は凄いよ。何が凄いって、聞く方も鳴らす方も不快に感じるからね。学院で黒板に文字を書こうとしたら爪を引っ掛けちゃったときあって――自分の爪で鳴らした音なのに、凄く不快でびっくりしちゃったの」

「ふふっ。そこまで言うなら興味本位で聞いてみたいけど、鳴らす方も嫌になる音っていう話なら、ちょっと気が引けるね」

 ルカヱルは冗談めかしく言って微笑んだ。

「でも、似てるかも」

「何がです?」

「私がミレゾナに噛まれたときの感覚に。体の中が掻き混ぜられたような、そんな感覚がして不快だったんだよね」

「……語彙が適当ですね。そんな感じです」と、ヲルタオは納得したように、何度も細かく頷いた。「ただこのダメージから考えると、例えではなく本当に、体の中が搔きまわされたのかもしれませんが」

「いや“体の中が掻き混ぜられる”、って……人間がその感覚を抱いたころには、多分死んでますよ」

「そうだよ! ヲルタオ、しばらく無茶しちゃだめだからね?」

 セタとリンが口々に言う。

「はいはい」

「はいは一回!」

「はい……うん、分かったよ」

 小うるさい親のような指摘を聞いたヲルタオは、気の抜けた笑みを浮かべた。リンもリンで、魔女を前にそのような態度を取れるな――と、セタは改めて純粋な感心に近いものを抱いていた。

「さて。いったん帰ろうか。竜の観察は出来てるし。インクレスとの共通点も見つかったし、ヲルタオも負傷してるし」

「そうしましょう。メルキュリオ、あの感じだと追ってきそうですし――」


 QRAAAAAAAAAAA!!!!!!


「案の定だね! ヲルタオ、扉の魔法で逃げられる?」

「……いえ、すみません。体がもう少し回復するまで、無理そうです」

「なら箒で飛ぶ、皆乗って! ヲルタオは掴まって!」

 そうしてルカヱルの箒は空に飛び上がった。

「う、うわっ!?」そして、ルカヱルが驚いたように声を上げた。彼女の目には、空に夥しい数のマナが見えたのである。まるで蚊柱が立ったかのように、小さな結晶の一つ一つが飛び交い、無数の蠅柱のようになって、空を覆っていた。

「ちょ……っと待って! これ全部メルキュリオの結晶!? 多すぎない!?」

「見つかるとここまでしつこい竜だったとは……」

 ルカヱルは魔法で斥力を放ち、周囲一帯の結晶を弾き飛ばし、一気に箒を加速する。弾かれてバラバラになった結晶は、ルカヱルが逃げた方向へ追いかけるように収束し、竜の首のように長く伸びた。

(こういう群体の動かし方は、確かにインクレスにそっくりだ……!)

 人間のセタから見ても、これだけの数の結晶を統率を以て制御しているメルキュリオの生物としての格が感じ取れた。

(本体もきっと擬態して俺たちを追いかけてきてる! 見つけないと――)

 セタは目を凝らし、地上を観察する。先ほどヲルタオに牙を立てたのがメルキュリオの本体だとすると、かなり大きいはずだった。

(どこだ……!?)

 本体の動きを察知できないまま、ルカヱルの箒はさらに北へ向かっていた。メルキュリオを発見した森林と山の地帯から、やがて荒涼として石の大地が露出した地帯に――その色の異なるバイオームの境目に、一瞬だけ歪んだ結晶が見えたのである。擬態したメルキュリオが、擬態を切り替える瞬間が見えたのだ。

「……いた!!」


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