「魔女」と魔女
第94話
ムー大陸への出発に向けて、セタたちは事前にラーンの地に戻った。トーエへ、図鑑の進捗を報告するためである――追加情報は2件だけだったが、その中に件のインクレスが含まれていたため、トーエは目を剥いた。
「これが――これが?? インクレスなのか……?」
「間違いないです」と、セタから確信を感じさせる語気を添えられて、トーエは神妙に頷いた。
「まさか、あのでかい海全体で知られる伝承が、こんな小さな竜とは。しかも、これまで見た竜の中でも異様なほど簡素な見た目で――本質は、この群体ってわけか」
「そうです。マナの総量でいえば、これまで観察してきたどの竜にも負けないと、ルカヱル様が」
「ロジックは単純だな。集合体としての総力が、まさしく海全体に轟き渡るほど大きいわけか。目撃情報が乏しいのもうなずけるな――単に、この個体が小さいから」
「それが原因だと思います。実際にこれを見たとしても、竜だと思う人はいなかったんでしょう」
「で……さっき聞いた話、マジなのか? 白魔女様の件」
と、トーエが声を潜めて尋ねると、セタは頷いた。
「俺たちがインクレスの鳴き声について気になっていたのを、白魔女様も気に留めたらしく……。ムーへ行って、メルキュリオの観察をするよう、勧められました」
「そりゃ、ほとんど命令だな。しかも至上のな――俺から止める権利はねえな。ははっ。さて、お前さんがアヴァロンを発つなら、俺もジパングにぼちぼち戻るとするか」
図鑑の書類の角をそろえ直しながら、トーエは言う。
「通心円陣から聞くところだと、ジパングには今、アーニア様が来てるらしい。あの北の魔女様だ。いま戻ったら、その対応をすることになるかもな」
「ジパングの竜を見るために来たんですよね?」
「ああ、まあ、一応はそうだが……」トーエは少し煮え切らない感じで言う。
「セタは知ってるか。アーニア様の年齢」
「え? ……いえ、実は正確には。魔女の中でも若い、って聞いたことはありますが――」
セタは、ふと他の魔女たちの年齢を思い出す。現存魔女の中で二番目に若いと言われるヲルタオも、ここ数百年間の出来事を当事者のように語っていた。
そこでセタは推定値を得た。
「――100歳、とかですかね?」
「17だ」
「は?」
「アーニア様の年齢。つまり文字通り、あの魔女様はまだ子供なんだ――ただでさえ若いセタよりも更に若いくらいな。何百、何千年と生きてる他の魔女からしたら、まだ赤子のように見えるだろうな、ははっ」
「ちょ、ちょっと待ってください? でもそれって……本当は、魔女様が竜の伝承に詳しいことが、図鑑プロジェクトを進める前提ですよね? ムー大陸の中はともかく、その外にいる竜の伝承を追うのは、17歳じゃさすがに難しいんじゃ……」
「だな。ところが、さらなる大前提は魔女の暇潰しだ。つまりアーニア様にとって、これは“勉強”の側面がある。アーニア様は、他の担当者が残した図鑑の情報を見て、同じ竜をどれだけ追えるか、見て何を思うか――そういうことを重きにするらしい。今頃、セタたちが最初に見つけた竜を追ってるかもな」
「それって……なんだか、修行みたいですね」
「言い方を変えればそんなとこだ。これは魔女修行だな」と、トーエは肩を竦めた。「何はともあれ、アーニア様が来てるんだったら役人は応じねえとな。今はまだ子供だが、これから何千年も生きて、何千人もの人間と共にある御方だ。てなわけで、セタがムー大陸に行くんだったら、俺も戻ることにする」
「分かりました。お気をつけて」
「ああ、インクレスに轢き殺されねえようにするさ」
「あまり笑えません」
ははっ、とトーエは笑った。「なら、お前も死ぬなよ。笑えないからな」
*
「出発は三日後にしましょうか。私の扉がムーの“ロアノ”と繋がってて、そこにムーの大役所があります。出発までに準備はしておいてください」
ヲルタオはそう告げると、再びコーヒー豆を挽き始めた。重く低い音が、心地よく連なっている。
挽機工房に戻って来たルカヱルは、カウンターから声を掛けた。
「悪いね、ヲルタオ。世話になるよ」
「今更です。それに、人が多い方が暇潰しには良いので」
「ありがと。そういえばずっと気になってたんだけど、ヲルタオ、なんで喫茶店なんてやってるの?」
「暇つぶしです」
「それはそうかもだけど、なんで喫茶店にしたの?」
「ああ、そういう質問ですか」
挽くのを一度止めて、ヲルタオは顔を上げた。「そんなに深い理由はないです。暇つぶしになりそうなことを探して最初は技科学院工房に入ってたんですが――そこで見つけた機械を使って、植物の抽出をしようと思った次第です」
「ああ、お茶とか
「ええ。その学院で見つけた機械は回転機器ですが、これとは全く別物です」と、コーヒーミルを指して言う。
「どんな機械?」
「削岩機です。要するに、この挽機を人間の身長ほどに大きくしたものですが――船のスクリューとしても機構が転用されてます」
「へえ、削岩機? そんなのあったの?」
「ごく簡単なものですが、ありました。ラーンの地に供給される石炭は、昔から削岩機で採れたものだと聞いてます」
ごりごり、と音を立てて、ヲルタオは豆を挽きながら話を続けた。「ちょうどコーヒー豆が流行り始めたころで、豆挽にも使おうと、削岩機を色々改良したのです。だから、挽機工房と名付けました」
「ああつまり、ここって最初は喫茶店じゃなくて」
「工房です。文字通り」
会話を脇で聞いていたセタは、道理で、と納得した。このカフェの二階には、リンの作業場があり、写真機はそこで発明されたものだった。喫茶店に似つかわしくないエピソードだと思っていたが、そういう背景があったようだ。
それより、セタは“植物の抽出”という話に引っかかった。
「――ヲルタオ様、少しお尋ねしたいことが。その、挽機について」
「なんです?」
「植物の色を抽出することはできますか? 粉末にしたり、液体にしたり」
「できます」と、ヲルタオは頷いた。「もとはコーヒーだけでなく、植物のマナを研究するために作ったので――不思議なことに、死んだ植物はマナを一気に放出して、失ってしまうようでした。ポーションに使えるのは、摘んだばかりの新鮮な植物だけのようです」
「ヲルタオ、ポーションって?」と、リンが脇のキッチンから尋ねた。
「マナを含む薬液だよ。作るのは結構難しい」
(そういえば、ルカヱル様も昔つくってたな)
と、セタは以前のことを思い出した。「お茶」と称して、ポーションを出されたことがあったのだ――その味を思い出しても、普段のお茶と大差なかったが。
「話を戻しますと――結局、挽機を使うとマナは霧散するので、普通の飲み物しか作れませんでしたが、色は取り出せます」
セタは息を呑んだ。
「その挽機、俺にも使えますか?」
「ええ、使うのは簡単です。二階に余りがたくさんあるので、良ければ差し上げますよ」
「え、なにもそこまで――」
「遠慮しなくて良いよ、セタさん! ヲルタオが作った試作品、たっっくさんあるから。付いてきて」
エプロンを解きながらリンがカウンターを出て、セタを手招く。二階に連れられて、客室として使われていた部屋ではなく、もう一つの扉が開かれる――中は真っ暗だった。廊下から漏れ入る光で、うっすらと物の量だけが見て取れる程度に照らされていた。
「ちょっと待ってね、ランプが――あった」
リンがランプに火を灯す。中が照らされると、工具や部品が大量に置かれた部屋の中身が、ようやく見えた。一見すると散らかっているように見えるが、作業場として機能するように配置されているらしく、足の踏み場が動線となって、作業台に続いていた。
「散らかっててごめんなさい! 挽機のプロトタイプは、こっちの棚にしまってあるよ」
と、リンが足元を見ずに慣れた様子で進んでいく。セタはそれについて、積み上がった物品を倒さないように慎重に進んだ。
カーテンを見ると、劇場で使われるような真っ黒な厚手の生地で、床に擦れるほどに長く、窓を完全に覆っていた。あの暗幕が閉じていたら、昼も夜もこの部屋の中は真っ暗だろう、とセタは予想した。
「えへへ……この部屋、暗いでしょ? 写真機の作業のとき、暗室にしないといけないの」
「ああ、それで……」
やがてリンは、棚の高い位置から重そうな金属製の器機を取り出す。
「これだよ」
と、彼女は両手で抱えるように挽機を掲げた。「セタさん、使い方分かる?」
「すみません、なんとなくしか……」
「いいよ! 教えてあげる。まず、ハンドルとキャップを外して、この中に挽きたいものを入れる――」
リンは脇に置かれた作業台のうえで使い方を実演し始めた。セタは脇に立ち、その様子を静かに聞く。
「――で、あとはハンドルを回すだけ。覚えられた?」
「はい。見てたので」
「あ、そっか。セタさん、見たら覚えられるんだよね」リンは嘆息を混ぜながら呟いた。「ねえ……セタさんって、忘れたくても忘れられないの?」
「え?」
「い、嫌な事とか、そういうの。そういうのも、忘れられないの?」
「確かに、そういうこともあります」
「そうなんだ……羨ましいって思ったけど、それって、やっぱり嫌?」
「嫌は嫌です。でもつい最近、考え方が変わりました」セタは、オーロラの下で白魔女と交わした会話を思い出す。
「メフィー様に言われたんです。嫌な事は誰しも忘れるのが難しいと。俺に限らず」
「――うん。えへへ、それはそうかも」と、リンは浅く頷く。
「だから経験を積んで、乗り越えるための薬を手に入れたら良い――って聞いて、見るだけじゃなくて、他のこともしようって思ったんです」
「それが、挽機?」
「はい。これで絵の具を作ってみたいんです。魔女の目でも見えるような」
「魔女でも見える絵の具――」リンははっと息を継いだ。「それで植物を
「実は、ルカヱル様と約束してたんです。いつか形だけじゃなくて、俺が見てる色も分かるように絵にして伝えるって。そのためにです」
「そっか――セタさん、約束も覚えてるんだ」
「ま、まあ、ルカヱル様との約束だから、ということもありますが……」
セタは咳払いをして、話を変えることにした。
「この挽機、ありがとうございました。何かお返しできれば良いですが――」
と提案すると、リンがぱっと表情を明るくして、手を叩いた。
「あっ! じゃあ今度、私とヲルタオがジパングに行ったとき、幽霊画家のこと教えて!」
「え゛っ、そ、それは……」
「約束! えへへ、この約束もちゃんと覚えててね!」
と、リンは小指を立てて言い残し、瞬く間にセタの脇を通り過ぎて部屋を出ていった。
「……」
取り残されたセタは、(ここに挽機を残して去ったら無かったことにならないか?)などと思ったが、最終的に挽機を持って部屋を出た。
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