オーロラの下で
第91話
*
「ぅああaaa~~……あ。染みる……」
ルカヱルは深く息を吐いた。その脇で、「だよねー……」と、リンが同じく息を吐き、周囲の湯気が揺らめいた。
場所は北洋凍土の宿に併設された貸し切り温泉。時間帯ごとに宿泊客が借りる方式であり、本来は30分単位の予約枠だが、フィアマの到来して程なくの時期ということもあり、現在の利用客はルカヱルたちのみだった。そのため、温泉どころか殆ど宿ごと貸し切りという状況になっていた。
ヲルタオも一緒に浸かり、彼女は手元に掬い上げたお湯をじっと見つめていた。
「いろんなマナが見えます。普通、水の中に溶けたマナは目に見えないのに」
「それだけ色々溶けてるってことだろうね」と、ルカヱルも湯の水面を見つめて頷いた。「じわじわ効く……この間、インクレスにやられた左腕の傷も完治しそう」
ルカヱルは、お湯の湯船から左の手を挙げ、掌を握っては開くと数回動かす。
「完治? ルカヱルさん、怪我してたの? そうは見えないけど」
リンはじっと彼女の体を見つめ、外傷を探す。
その結果、
(あっ、肌すっごい綺麗)
という、感想しか抱かなかった。
ルカヱルは左手を振って答えた。
「外傷は塞いだけど、芯がね。バキバキにやられたから、複雑骨折みたいな感じ」とルカヱルは答えた。
「魔女も複雑骨折するの?」
と、リンが興味津々に尋ねる。
「まあ物の例えだけど、するよ。芯が壊れて、普段通り動かない感じ。ほっといても数日で戻るけどね」
「インクレスの共鳴作用は、それほどマナに特効があるってことですか」ヲルタオは関心を示す。「――しかし、それなら外皮の治癒ではなく、先に芯の治癒にマナを回せばよかったのでは? 外側から先に治すと内側は治しにくいでしょう」
「良いの、時間を掛ければいつか治るし。それに、セタにはあまり傷を見せたくなったから、外はすぐ治したの」
「セタさんに見せたくない?」
リンが首を傾げた。
「セタ、見た物を全部覚えられるから――逆に忘れることもできない。まえに黒焦げになった腕を見せたとき、辛い思いをさせちゃったから」
「ああ、なるほど……。痛々しい傷の記憶がいつまでも残らないようにってことか。難しいね? なんでも覚えられるって、便利だと思ったのに。ねぇヲルタオ」
「うん。それなら学院の試験も楽勝だと思う」
「私もそう思ってた! 絵だけじゃなくて、勉強したら凄そうって。でも……セタさん、そういう苦労もあるんだね」
リンは、もし自分が人の傷を写真に残したらどうか、と想像した。そして、想像だけで眉を顰めてしまう。わざわざそんなことはしたくないし、仮に写真に残しても見たくない、と心底思った。写真の中の傷は、古傷として塞がることも無いままだ。
(セタさんの頭の中は、傷が写真みたいに残っちゃうってことなんだ……)
*
リンの勧め曰く、オーロラは夜に、街の灯りから離れた場所のほうが綺麗に見られるとのことだった。そのためのスポットが、実は街の外れに誂えられており、宿の主人に少し話を聞くだけで地図付きで紹介してくれた。ルカヱルはリンとともに温泉の方へ行ったので、セタ一人での行動だった。また、オーロラを観察するための前提として、夜に外出することになった――なんだかんだ、旅先で一人で外出するのは初だとセタは気付く。
そう思うと、わずかに自由な気分を抱くと同時に、かつてのジパングでの活動を思い出した。夜に一人で出歩くという行為自体は、「幽霊画家」のセタにとって抵抗感はないものだった。
セタは目が効くが、夜中の道を歩く上で尚更に支障が無いのは、一度見た地形を全て覚えているからだった。彼はまるで昔から住んでいる地元を歩くような歩幅で夜を進み、少し離れた丘へと向かった。振り返ると、街の光が夜に浮いて見える。それ以外の場所に、光はどこにもない。
「……ここらへんかな」
周囲を見渡すと、鮮やかな黄色の花弁の小さな花が夜風に揺れていた。月夜に照らされ、まるで光源のように目立つ。北洋凍土に背の高い植物は少なく、寒冷な気候に対応した高原植物が多いようだ。
「ん?」
すると、先客が一人、地面に片膝を立てて座り、黄色の花で冠を編んでいるのが見えた。
じっと観察すると、先客の異質さにセタは気付いた。
夜闇の中でも縁どられて見えそうなほど、白い髪に白い肌。
北洋凍土の寒冷な気候に似つかわしくないと思える普通の着こなしの衣装から、手首足首が覗く。
彼女もセタの足音に気付いたのか、ふと振り返った。セタはまたも驚く――真っ白な肌に浮かぶように、深紅の瞳孔に見られたから。
「ごきげんよう」と、先客は座ったまま、浅く会釈をした。
「……こ、こんばんは」
「オーロラ、見に来たんだろ? どうぞどうぞ。ここには儂以外、他にはいないから」
(え、儂? 北洋凍土の方言か……?)
セタはその一人称に驚いたが、「それはどうも、ありがとうございます」と礼を述べて彼女から人二人分ほど離れた場所に陣取った。
「運が良いのだな、
「お詳しいんですね?」セタは言う。正誤は判断が付かなかったが。「こちらに住んでる方ですか?」
「くふっ。そうともいえる」
と、彼女は華奢な肩を揺らした。
「主、イストラント――いや、北洋凍土は初めて?」
「え、ええ。仕事で」
「仕事の空いた時間に、
「は、はあ……ありがとうございます?」
穏やかな賛辞に対し、とりあえず礼を述べるセタ。そうは言いつつもセタの心中では、
(なんだろう、この不思議な人は)
という思いが払拭されなかった。
「これ」と、彼女は花冠をセタの前に掲げた。
「え? と……」
「やる。暇つぶしに作ってたが完成した。オーロラももうすぐ見えるしな」
「ええと、ありがとうございます」
セタは言われるがまま、見事な出来栄えの花冠を受け取った。黄色の花は、月夜の光に当たるだけで輝いているように見えた。
「オーロラ、よく見られるんですか?」
「よく見る。けど、すぐ忘れる」
「え」
「くふっ。ああ心配はいらない。儂は今に限らず、昔からそういう
「忘れっぽい、ってことですか?」
「簡単に言えばな」
ふと、セタは空を見た。空は十分に暗いが、話に聞く光のカーテンはどこにもない。
「それにしても、忘却、というのものは、必ずしも悪い事じゃない」
「そうですか? ちょっと困りそうですが……」
「例えば、儂がある物語に感動したとしよう。そんなとき、同じ物語を聞いて、同じほど感動を味わうのは難しい。けれども都合よく物語を忘れてから再度聞けば――同じだけ感動できると思う。そうしたら、生きるというのはずっと楽しいと思う」
白い歯を覗かせて、彼女は微笑む――微笑んだように見えたが、実際には
「なるほど」と、セタは不意に納得して頷いてしまった。「そう聞くと……不便なことはあるかもしれませんが、確かに、悪くないかもしれません」
「だろ。それに、楽しいことを忘れるだけじゃなく、辛いことも忘れられたら、どんなに良いだろう」
「……ええ、そうですね」
その意見は、よりセタは同意しやすかった。「辛い事ほど、忘れられないほど頭に残ります」
「そうさ。しかし反面、儂は辛いことは努めて忘れないよう、気を付けている」
「え? なぜです?」
「主の言った通り、そもそも嫌な事なんて忘れようと思っても簡単に忘れられないのだ。だがそれでも、時間が解決する
「積み上げた記憶と経験で、薬に……」
「自分の負った深い傷を恐がって目を逸らすか、じっと見つめてやがて傷痕に過ぎないと気付くか、そういう違いか――オーロラ、もう見え始めるぞ、ほれ」
そこで、セタは空を見上げた。
「あ……」
黄色や赤、青色――水彩のような淡く明るい色彩に染まった光が、風に揺れるカーテンのように空で揺れ始めた。毎秒毎秒と周期性の無い形状の変化を繰り返す光は発散しているようにも見えるし、薄い布として収束しているようにも見える。なによりも、
(美しい……)
という端的な語彙が、浮かんだ。
「ああ、オーロラはこういうものだったか。美しい」
そう呟いた彼女の目元から、涙が絶えぬ一筋となって流れ、顎から地面に次々と滴っていく。平坦な口調と不釣り合いな激情を露にしている様子に、セタは驚く。
同時に、その様子を見て誰かを思い出す――以前、ハーグリャの毒にセタが罹った時のルカヱルを。
「ああ失敬、感動すると涙が止まらない質なものでね」と、白い彼女は笑う。
「え、ええ……。なんだか少し、知り合いを思い出しました」
「ルカヱルだろ?」
「……え?」
「くふっ。あの子は今生きている魔女たちの中でも、マナの感度が高い。あるいは儂よりもな――しかし普段は余裕そうにふるまっているくせ、少し揺さぶられると溢れるマナに耐えられぬのだ」
(あの子? 儂よりも……!?)
ルカヱルを「あの子」と呼び、自身を指してあたかも魔女と同列に語る口調。
セタは息を呑み、彼女に尋ねる。
「あなたは、一体――」
「うん? ……なんだ。どうやら儂は名乗るを忘れていたらしい」
そう言って、彼女は涙を両の掌でぬぐう――その後の頬には、亀裂のような模様が浮かび上がっていた。
(……この肌の亀裂って――!)
セタは目を剥いた。
ダメージを負った魔女の体に残る傷痕に、よく似ていたから。
「儂はメフィー。白魔女といったほうが通じるか――主のことは知っているぞ、セタ。ジパングの図鑑担当にして、ルカヱルの御守り。だろ?」
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