第82話

 海面を貫いた箒は止まることなく、塔から落ちた小石のような速さで、海の中を突き進んでいく。浮力は感じない。感じるのは浮遊感と、落下速度だけだった。

(水の中を……落ちてる……!?)

 視界を泡が覆う。

 眼前のルカヱル以外に、セタの視界に見えるものは無かった。ルカヱルは空気の魔法で箒の周囲を覆い、すべての水を跳ねのけて浮力を無効化していた。水に隙間をつくり、その隙間を縫って滑り落ちるような動きである。魔法が無ければ水の中では実現できない速さで、箒は深海をまっしぐらに目指した。

(どこまで落ちるんだ!?)

 そして雲の高さの上空から海底まで、僅か1分足らず。1万メートルを超える縦移動を以てしても圧力差の影響をセタが全く受けなかったのは、ルカヱルの魔法によって、常に守られているからだった。

 彼女が体得している“空気を操る魔法”――それは極めて単純な効果ながら、ルカヱルとセタの周囲をに保っていたのである。

 空気抵抗も水の浮力も受けない。物理的に理想的で、かつ理論的に実現不能な自由落下だった。

 やがてルカヱルは海底に降り立った。セタも彼女に手を握られたまま、箒を降りる。

「セタ。絶対に、手を離さないでね。私は絶対離さないけど」

「……もちろん。こんな所ではぐれたら、流石に助かりません」

 半笑いで答えるセタ。いま手を離せば直ちに窒息するに違いないと想像していた。

 深海1万メートル。セタの想像も光も及ばない深きに既に到達していた。偶然にも、ルカヱルが急降下を始めた地点がその海溝の真上だったのである。

 恐ろしいほど静かで暗い。

(この暗さ……いったい、どうしたら)

 途方に暮れているセタの脇で、ルカヱルがランタンを取り出した。水の中で火を灯すつもりか?とセタが呆気に取られたうちに、眩い炎が揺らめいた。

「ええ……? 水の中でも火を?」

「空気さえ操れれば難しくないよ。このランタンは空気の塊で満たされていて、水は入って来れないのです。ただ、こんな光で明るくしても視界は限られちゃうね……」

 光を高く掲げても、視界の範囲は半径数メートルが関の山だ。他に光源もないし、光を反射するものもない。

「やっぱり音を頼りにするしか―――」


 ……raaa………


「セタ、今の」

「聞こえました」

 小声でセタが頷く。二人はその会話を最後に、また息を潜めた。耳を澄ませば、どこからか高い音がずっと響いていた。

(近いのか?)

 深く潜るほど竜に近付くという伝承の答えが、この声の向こうにあると、どこか直感していた。ルカヱルも同じ考えらしく、暗闇の向こうを指さした。

「行こう。今の音は自然の音じゃない。竜だと思う」

 ルカヱルに手を引かれて、セタは彼女に続く。ときおり、彼らの傍を見たことも無い魚が通過していく。

「これが深海……。俺が知ってる海と、ぜんぜん違います」

 セタの記憶にある海は、太陽のもとにあって、波の音が聞こえて、風があって、匂いがあった。いまは全てが正反対にある。深くに潜るうちに世界が反転したかのようだった。

「こんなところから、本当に海面まで力が及ぶ竜が?」

「分からない。マナはうっすら感じるけど」

「うっすらですか。でもインクレスはきっと、莫大なマナを持ってるんですよね。やっぱりマナは薄れるんですか」

「うん。ああ、でもそっか、セタに言われて気付いた」

 ルカヱルは目を見開いて、辺りを見渡すように首を動かした。

「――マナは海流に流れてるんじゃない。同心円、波紋状に拡散してる。向こうからずっと広がって来てる」

 ゆっくりと歩みを進めていく。同心円の中心ともいうべき場所を目指して。セタの心拍が、徐々に上がって来た。ルカヱルは手を握り直す。進めば進むほど、セタは“振動”に気付き始めた。

「ルカヱル様、なんだか、振動を感じませんか」

「うん。凄いね。私が魔法で作った空気の層を貫通してくるなんて。多分、生身でここに立ってたら、骨身に響くと思う」

 見れば、ランタンのガラスが“びぃん”と揺れて、炎も踊るように乱れていた。「この振動……なんだか、覚えがあるかも」

「え? 振動に?」

「でも、なんでだろう?」

 ルカヱルは記憶を探り始める――が、間もなくある物が目に入り、はっとして頭が真っ白になった。セタも同時に声を上げ、足を止めた。

「な。なんですか、あれ」

 セタは思わずつぶやいた。光――うっすらと青い光が、深い呼吸のようなリズムで明滅している。地面の裂け目に沿ってカーテン状の光になって、漏れ出していた。


 ……qraaa……


 たとえ深海のことを詳しく知らなくても、一目で異常だと分かる。こんな巨大な光源が明滅しているなど。

(竜……なのか?)

 セタが首を傾げて、光を見つめる。異常事態を前に、恐怖よりも先に興味の方が勝りつつあった。しかし、いくら裂け目を覗き込んでも、竜の姿は見えない。光と、音が漏れ出しているだけだ。

 かたやルカヱルも、歯を少し浮かせていた。こんな状況に似つかわしくない、頬を綻ばせたような表情だった。

「そういうこと――ああ、そういうことか。ああ……」

「え、何がです? これがインクレスなんですか……?」

 セタはルカヱルに尋ねる。

「多分ね」

「多分? ですか」

「多分って答えたのは、想像をかなり超えてたから。本当にこれがインクレスなんだとしたら。ああ……こんな竜が、ずっと、この世界の下にいたんだ。、この世界」

 魔女の口から、“恐い”という言葉が出たことにセタは驚いた。彼女の手に持っているランタンが、さらに震えている。

 波紋のせいで揺れているわけではない、とセタが気付いたのは、彼が握っているルカヱルの手も、同じ周期で振るえていたからだった。

「この裂け目の、ずっとずっと奥……。そこに感じる、途方もないマナを。例えるなら、を見つめてるみたいな、そんな感覚」

「……!?」

 セタはぎこちない動きで裂け目へと目を向けた。


 ……Qraaa……


「この奥にそんな竜が……裂け目の向こうにですか? そんなに大きな裂け目ではないのに」

「うん。それに、私の想像は正しかった。深く潜るほど竜に近付く――この伝承を残したのは、絶対に魔女。間違いないです。その魔女は絶対、私たちが今見ているものと同じものを見た。その竜の姿を直接見たかは不明だけど、少なくとも、この光を見たんだ。それと、この声もね」

「声……」

 深海に至ってから、ずっと響いている甲高い音にセタは耳を澄ませた。裂け目に近付くと、より一層、はっきりと「声」として判別できる。息遣いを感じるのだ。

「ふう」と、ルカヱルも息をつくと、ランタンを袖の下に仕舞って、

「さて。じゃあ行って見ようか?」

と言った。

「……え?」

 セタは呆気にとられた。上気した彼女の表情は、もはや狂気すら孕んでいた。

「行くって、まさか――この、裂け目の中?」

「うん! そう!」

「いや、そんな元気に……でもルカヱル様、さっき“恐い”って言ってたのに」

「だからこそ! 見てみたい、この竜!」

 まっすぐと見つめられて、セタは少し上がっていた肩をゆっくりと落とした。

「はあ、やれやれ……。まあ、俺もここまで来て、竜の姿を見ずに戻るなんて嫌でしたが」

 セタがルカヱルの手を握り直した。「申し訳ないですが、俺の命を預けます。今に始まったことじゃありませんけどね。これまでも俺は、ルカヱル様と一連托生みたいな状態でしたし」

「まあね。でも私だって、自分の……と、友達は、ちゃんと守るし」

「……友達?」

「違う?」

「でも――いや、もう違うってことも無いですかね」

 二人は裂け目へと飛び降りた。


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