インクレス
第81話
*
晩のこと。
カフェ挽機工房の店内に蝶番の音が響いた。リンが顔を上げると、ヲルタオが帰還したところだった。
「戻ったよー。石探しはちょっと飽きちゃったから、コーヒー淹れる」
彼女はそう言ったが、リンは机のうえであれこれと書物を広げ、ランプの光に照らされながら、ページをめくっていた。
ヲルタオは首を傾げて、彼女の隣の席に腰かけた。
「何か調べてるの?」
「うん。アトランティス――あ、ヲルタオは知ってる? アトランティスって」
「知らない」
「そっか……。セタさんから聞かれたの、アトランティスを知らないかって。私、どこかで似たような単語を聞いた覚えがあったんだけど、忘れちゃって。多分、本で読んだんだと思う。覚え違いじゃなければ」
「似たような単語? アトラン。アトランテ。ランティ……」
色々と呟きながら、ヲルタオも一緒に悩み始めたが、すぐに別のことを思い出した。「――ていうか、ルカヱルさんはどこ行ったの?」
「竜を探しに。インクレスだって。ヲルタオは? 何か面白いことあった?」
「なーんにも。石も見つかってないし。インクレスの痕跡も無かった。私、探してる場所が悪いのかもね」
ヲルタオは顎に手を当てて、宙を見つめる。「でも、1年前くらいまであったはずの石も、全然気配が無いんだよねー。マナの様子がすっかり変わってるっていうか、海流ってそんな激しく鉱石を削ってるのかな?」
「またルミノスクロの光のせい?」
「どうだろ。あの竜から離れた扉を使って探したんだけど。今度はもっと沖合に行った方が筋が良いかな? それか、新しい扉の開拓に行くか」
「あ、でも焦らなくても良いよ。写真機をもっと改良したいんだー。セタさんの絵を見てたら、もっともっと改良できるような気がしてきて――そう、前にジパングで、幽霊画家さんの絵を見た時みたいな感覚!」
リンがそう言うのであれば、ヲルタオは別に止める気はなかった。暇つぶしに生きる
「――って言いながら、今はアトランティスの方が気になっちゃって、こんな状況なんだけどね」
「まあ良ーんじゃない? リンのぶんもコーヒー淹れてあげる」
「ありがと。それにしても、どこで聞いたんかなー、私は」
「……」
コーヒー豆をミルに入れながら、ヲルタオもそれとなく記憶を探っていた。長生きしている分、どこかで“アトランティス”に似た単語を聞いたかもしれない、と思いながら。それに、せっかくだからリンに良い所を見せたいという、微弱なプライドがあった。
(でも私、ルカヱルさんほど長く生きてないんだよね……)
世界に現存する魔女の中で2番目に若いとされるヲルタオであり、ゆえにルカヱルが知っている単語であっても、ヲルタオは聞いたことが無い、という可能性はあった。
少なくとも数百年単位で生きた時代が違うのだ。さらに言えば、これまでの半生をレムリアとムー大陸を放浪して過ごしていたヲルタオは、実はローカルの土地勘の蓄積が薄い。それこそ、技科学院工房が創設後の最近のアヴァロンには詳しいが、かつての地方古語、方言など持ち出されればヲルタオが知らないということは十分あり得た。
(じゃあ、リンが知ってる“似たような単語”って、なに?)
そう思いつつ、ヲルタオが少し顔を上げると、
「あっ!!」
リンが声を上げて、一冊の書物を手に、席を立ちあがった。出版物ではなく、実験ノートを手に。
「そっか、そうだ……古語だ、うわー思い出した! 習ったんだ、学校で!!――昔の、海の呼び名!」
*
夜が更け、朝が目前に迫った時刻。
波の音が響く海岸から、セタとルカヱルは飛び立った。
「とりあえず、ティナの証言をもとに明け方に動き出すと期待してみたけど――実際のところ、今回は運頼みだね」
ルカヱルは言う。「今のところ確認できてるインクレスの活動範囲は
「そう考えると、すさまじいですね。東はジパングの島から、西はアヴァロンの西洋群島……ん? 逆? ですかね?」
セタは、なんだか混乱してきた。
普段の感覚で言えば、ジパングが世界の東にあって、アヴァロンが西にある。しかし、いま彼の現在地である
ルカヱルが“東の魔女”と呼ばれたり、ジパング自体が“極東”と呼ばれる背景もあってか、ジパングが西にあるという今の位置関係がなんだか不思議に思えた。
(そう考えると、東の魔女って呼び名も、極東って呼び名も、世界地図の位置基準で見た時だけ成立するのか――というより、世界を一周すればジパングは東にも西にもある、って考えても良いのか、本来は)
セタは世界地図を頭の中に思い浮かべていた。
平面に広がった世界の真ん中には
東にはジパング群島、西にはアヴァロン群島。
そして世界地図の紙面の両端には、
「なんか混乱してきた……」
「えっ?」
「いえ、何でもないです。さて、インクレスを探しましょう」
「そうだね。って、言いたいところだけど」ルカヱルは少しため息をついた。「海の上からだと、やっぱりマナの痕跡は見つからないな。かといって潜っちゃうと、視界が狭くなっちゃうし……」
「水の中だと、逆にマナが見えないんでしたっけ?」
「見えるけど、常に流れて希釈されるんだよね。だから、地上で見るときほど頼りになるわけじゃないのです」
そうとなれば、却って海の上から波紋を探し続ける方が得策、とも考えられる。
ただ目の良いセタは、むしろ逆のことを思いついた。
「ルカヱル様、水の中に行きましょう。それも、思いっきり深くまで」
「えっ? いや、でも“波紋”が見つからないかも」
「ただ、海には基本的に風があります」セタは空を見上げた。今日はあいにくの曇りだった。「……条件の良い凪のタイミングに、都合よくインクレスが通り過ぎないと見つけられないって考えたら、いつ遭遇できるか分かりません。でも、インクレスの本質は、たぶん波紋の模様じゃなくて」
「そっか……。振動そのもの」
「そうです。“海鳴り”も“海震”も、波紋っていう現象より本質を衝いたものだと思います。海の中の方が、海上よりもインクレスに近いんです。当たり前ですけど」
ルカヱルは海を見つめて、箒の動きを止めた。
風の音は夜明けまで待っても今日は止みそうにない。こんな上空では、海の音など分かるはずもない。
「海の中なら風は関係ありません。それも、うんと深い深海なら尚更……“深く潜るほど、竜に近付く”。まず、その伝承を確かめるべきだと思います」
常人には検証が難しい伝承の内容をセタは復唱した。
もし本当に過去の魔女が残した真実だとすれば、真偽を確かめられるのも魔女しかいないだろう、と確信していた。
ルカヱルは歯を浮かせて微笑む。
「そう、そうだよね……。真っ当な方法で、それらしく探す必要なんてない、私は」
箒の柄を強く握って、魔女は振り返る。少女のような笑みで頬を飾っていた。
「よし、行こ……!! セタ、しっかり掴まってて!」
「はい!」
ルカヱルは箒の柄の先を海面に向けた。眼前に迫る海は、青と橙で半々に染まった暁の空色を反射していた。命の危機を感じるほどの長い浮遊感が、セタの背中を絶え間なくなぞって空に抜けていく。
加速に任せるまま、箒は海へと急降下していき、隕石が突き刺さったような爆発的な飛沫を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます