第80話
◆
●月▼日。
未明:出航待機。
港での風速は推定2m以下、いわゆるそよ風。波の高さは15センチ以下。
燃料は10キロ積み、朝凪が来るまでの間、沖に向かいながら、最近改良した海水を蒸気に転用する蒸気機関の燃費を計測する。真水より沸点上昇が起こるので、事前試験で測定した沸点の値から、真水より1割弱燃費が劣る、と予想。
→腐食防止のため、備品はすぐ洗浄。塩を吹くかな?
出航/日の出と同時:風速は推定2m以下。朝凪までは陸風で加速するから要補正。前回の実験と同じように、帆は畳んだ。
◎今日は真水を積んでないから、これも補正しないとだめだった!→次の実験では使わないけど真水を積んでおく。
目標地点到達:朝凪がくるまで待機。思いのほか順調に進んでおり、沿岸部をゆうに突破できた。新鮮な海水を循環させることで、目に見えて塩が堆積している様子はない。
燃料はちょうど半分くらい使った。進水距離にして約――……
「……ん?」
コンパスを取り出し、地図と見比べながら、実験ノートに移動距離を記録しようとしていたティナは、異変に気付いて辺りを見渡した。
朝日の輪郭の下弦が海の水平線に接したころ、風が弱まっていき――陸風と海風が切り替わるその瞬間、“凪”は訪れた。
凪のなかでは、無風となり、海は時が止まったように穏やかになる。しかし、ティナの耳には何かが聞こえ続けていた。
振動音だ、と気付いたのは、実験ノートに当てていたペン先が揺れ、歪んだ波線が罫線を横切ってからだった。ノートを閉じ、ペンを胸ポケットに刺して、ティナは船の縁まで駆け寄る。
水面を覗くと、そこに、まるで空から雨が降っているかのような、細かな波紋が次々と浮かんできたのだ。もちろん、雨はない。そして、風も無い。痺れるような震えだけが続き、彼女の船を揺らした。ティナは、地震の時に机の下に隠れるような動きで、その場にしゃがみ込んだ。
(これ、これって――! 授業で聞いたことある!
しばらくしゃがみ込んだまま、ティナは辺りを見渡した。そこかしこで波紋が浮き上がり、しぶきが上がっている。海全体が怒りに震えているような様子に、潜在的な恐れが沸き上がった。
その間は、時間にしてどれくらいだったのか――やがて波紋が減衰していき、凪の時間が戻ってくる。
「……」
手元のコンパスを見ると、海と同じように針が震えていた。ティナ自身の震えが伝わっていたようだ。
「こ、恐かった……」
と、絞るように呟くと、ティナは帆を開き、次第に強くなってきた海風にのって、陸へ向かっていそいそ帰還した。
帰りの分の実験ノートは、「実験中止、インクレスのせい」とだけ記して。
◆
「――と言う感じです……」
ティナの話を聞いていたセタは、“波紋”の不気味さを徐々に実感しつつあった。風の無い凪の中で、振動音と共に突如震え出した海。
波紋、と通称され、またの名を海鳴りや海震と呼ばれるのも納得できる。
「うう……インクレスのせいで、実験が一回無駄になったの、思い出しちゃった……」
「それはきついっすね。きっちり行のぶんの燃料を使ったのに」
「しかも海水型の蒸気機関だよ……。使った後、たっくさん洗浄しないといけないのに……」
話をしながら、ティナがしなしなに萎れていくようにさえ見えた。ともかく大変だったらしい、ということだけ、セタは察した。
「学院ではね……先生から、インクレスが出たら、必ず退避しろって……そう伝えられてるの……。だから、卒業研究の大敵って、皆恐れてる……」
「それはまた、独特な恐れ方ですね」
「インクレスの影響で実験データが滅茶苦茶になった……ていうのも、昔あったんだって……。私は、まだましだった……」
「教科書に逸話として載ってるくらい有名だぞ」とダイが豆知識を挟んだ。
「その、ちなみに、他の人的被害は聞いたことありますか?」
セタが尋ねると、ティナは頭を掻いた。
「他……実験以外に……? それこそ大昔、船体が安定しないような作りだったら……転覆とか、あったかもしれない……けど」
そこで言葉を区切り、ティナは首を傾げた。「分からない……。あんまり、多くないんじゃない……?」
「そうですか……」
「じゃあさ、なんで先生たちがインクレスから離れろって言ってるのか、それは分かる?」ルカヱルが追って聞く。
すると学生三名は、互いに顔を見合わせて、あれこれと議論し始めた。
「実験データに外乱が入るからじゃないか……? どうすかね」
「それも分かるけど……。そうなのかな……」
「僕はもっと鬼気迫るものを感じるぞ! 地震、雷、火事、インクレスみたいな感じだ!」
「なんか爺くさいな。でも、船がひっくり返るほどのモンでもないだろ?」
「確かに私の船も……大丈夫だったよ……」
「まあ危なかったのは昔の話なんじゃないか? 大事をとるに越したことはないぞ、って話かな」
「俺らが実験するにしたって、外乱には違いないしな。逃げるに越したことはない」
結論を得た3名は、ルカヱルとセタを見て、解答した。
「――“実験データに外乱が入るから”」
「ふふっ。学院らしいっちゃ、学院らしいね」
ルカヱルは肩を竦めた。「じゃあ誰が最初にインクレスのことを発見したのか、とかは学校で習ってる?」
「インクレスの発見……? 発見者は……とっても昔の人です。インクレスの名前自体は、学院よりも昔からあるので……特定は難しい……。でも」
と、ティナは逆説を告げた。「インクレスのこと、研究してる論文なら……見たことある……」
「論文?」
こくり、とティナは頷いた。
「自然現象として……ありえないってことを証明した論文……。著者は……ドクター・ウル」
「ウル?」ルカヱルは繰り返す。
「む、昔の人だから……。私のひいおじいちゃんよりも、前の時代だよ。印刷技術もなくて……手書きで描かれた論文……の、複写だけど……」
「先輩、そんなのどこで見つけたんです?」
「学院の図書館……。じ、自由研究でね……。ドクター・ウルの他の論文も、面白いよ……。気流についてなら、ヲルタオ女史よりも早い段階で、かなり深く研究してて……」
「その、ウルって人の論文では、インクレスのことをなんて言ってたの?」
「風の力で発生する波の形状と違って……波紋には指向性が無い……あれには気流も、海流も関係していない……すべてを無視して、波紋を生み出すって。不思議な現象だよね……竜が起こしてる現象だから、当たり前かもしれないけど……」
「でも先輩、竜だって物理法則にしたがう時は従うはずですよ? ほら、ルミノスクロだって、海から上がってくるときは早いけど、自由落下には逆らえない」
「ふふっ……。竜ってそんな感じだよね。部分的に、凄く不可解な現象を起こす。魔女の魔法も、同じようなものだけどさ」
ルカヱルはそう言って、袖の下からドロップ缶を取り出し、更にそのドロップ缶を振って、突如ティーカップを手のひらに取り出した。
ティナたちが目を丸くして、その不可解な現象を眺めていた。
「せっかくだしお茶にしましょう? 君がインクレスを見たっていう海域と、そのウルっていう人の論文のこと――もう少し聞かせて?」
「……よ、よろこんで……」
「さてと。セタ、早ければ明日の朝――いや、夜明け前かな。そのあたりで、ちょっと探しに行って見よう。良い?」
「ええ、分かりました」
――ここまでがルカヱルとセタが発つ前の顛末となった。
次の日の未明。二人は世界の果ての陸地から、その先の果てなき海へと、飛び立ったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます