第78話

 思いついた仮説を呟いたセタは、自ら首を振った。

「でも、どうして……。昔は波紋の被害があったんでしょうか?」

「その可能性もあるね。ただ、むかし私が聞いたときの伝承の文言には、もう一つ気になることがあってさ」

「もうひとつ?」

「“深く潜るほど竜に近付く”という文言。伝承のなかでは逃げろ、離れろって言ってるのに、竜に近付くことも同時に言い伝えてたのです――トーエから聞いた最近の伝承の文言には、“深く潜るほど”、という旨の内容は残っていないみたいだけど」

「言われてみればそうでしたね。もしかしたら……海に潜る人が少なくなったからですかね? 昔は素潜りで漁をしていた人が多かったから、昔の文言もそれに沿っていた、とか」

 セタは言う。海岸線に押し寄せる波に足を浸すルカヱルを見ながら。

 彼女は、片足で空を蹴って、パシャリと水しぶきを跳ね上げた。

「確かに今のアヴァロンは、漁船と網を使って一網打尽か、竿で沖釣りするんだと思う。ともかく、警句の文言は時代の流れで少しずつ変わっていった……」

 ルカヱルは海の中へ向かって少しずつ歩き、進んでいく。服の裾が濡れるのも気にせずに。

 魔女だから服を乾かすくらい造作も無いから気にも止めていない。それに打ち付ける波に逆らい、平然と歩いて、海底を歩いて、深海へと潜っていくのも彼女には簡単なことだ。

「あ……」

 セタは目を細めた。

 かつてのアヴァロンにおいて、素潜りで漁をする時代があったとして、無謀にも海底が見えないほど深い場所に行くはずがない。素潜りの限界は、浅瀬の岩礁で、隙間に静かに潜む貝や魚を獲ることだろう。

(“深く潜るほど竜に近付く”って言っても、実際に近づけた人間っているのか……?)

 セタの頭の中には、かつてアイランと出会ったときのことを思い出していた。

 デルアリアとインクレスの影響が偶然重なった島で暮らしていた彼女たちは、質素な船で漁に出ることは数代に渡って諦め、竜たちの影響がない沿素潜りをして生活を続けていたのである。

 裏を返せば浅いところは安全圏であり、よって、浅瀬をいくら潜ったところでインクレスに近付ける可能性は無かったはずである。

 昔々に、潜ることで深きにいるインクレスに近付いた者がいたとして、しかもその事を伝承として後世まで言い伝えたとすれば、誰も戻れないほど危険な猛獣の巣の中身を酒場で正確に語る冒険者のような、顛末の不自然さがあった。

(海を深くまで潜ってインクレスに近付いて、しかもそこから戻ってくることができる人って……なんだ?)

「セタ」

「あ、はい」

 声を掛けられて顔を上げると、ルカヱルが彼を見ていた。いまや、腰のところまで水に浸かっている。

「なんですか?」

「私ね、って、思ってるの」

 ルカヱルが言った。

 それを聞いたセタは、驚くよりも早く納得して、何度か細かく頷いた。

「――俺も、そう言われて納得してきました。インクレスのことを危険だって察してることも不思議ですし、深く潜るほど竜に近づくことも同時に語られてますからね……。多分、普通の人間じゃそんなこと分からないと思います」

 セタは考えを巡らせながら言葉を続ける。

「例えば……インクレスの伝承は、今では“海鳴り”とか“海震”って呼ばれてるって、トーエさんが言ってましたよね。リンさんも“海鳴り”と呼んでましたし。けど、海鳴りも海震も、それだけで竜の仕業なんて断定できない。単なる地震とか、風かもしれないのに……」

 メガラニカでは“地心”という伝承が伝わっていた。

 その伝承の実態は、地下の空洞が原因で発生した災害を、竜の仕業と勘違いしていたものだ。インクレスの伝承も状況は似ていた。ただし、竜に近付く方法が大昔から言い伝えられていたのである。

「波紋が竜の仕業で、しかも潜在的に危険な竜だって、警鐘を鳴らしてた人がいたんですね。ずっと大昔に」

「不自然だよね?」とルカヱルは短く問う。

「そこまで察知した人がいたんだとしたら、確かに、魔女の可能性もありますよね……」

「そういうこと。しかも、それを与太話じゃなくて、事実だと信じさせる信ぴょう性もあった」

「なら最初の伝承者は、当時それなりに信頼を寄せられる権威とかだったんでしょうか?」

「考えられるでしょ? 魔女なら、基本的にすべての条件に合致する。だからこれからの聞き込みで、インクレスの実態と一緒に確かめたいのです。最初の言い出しっぺが誰だったのか、ってことをね」

「そんなこと分かるでしょうか……?」

「ダメ元で少し聞いてみるだけだよ。本命はインクレスの今の位置を絞り込むことだから」

 そう言いながら、ルカヱルが浜辺に上がって来る――服は一切濡れておらず、その手には箒が握られていた。

「ふふっ……。ますます興味が出てきた」



 それから、二人が再び箒で空に飛びあがり、周遊を始めると、群島の付近に人の気配を見つけた。

 地上ではなく、海の上である。蒸気を上げながら、陸地に向かって移動する船が見えたのだ。

「ちょっと話を聞いてみようか」

 箒が徐々に地上に近付いていくと、船の乗員も次第に二人の存在に気づいたらしい。船のエンジン近くに立っていた男が、箒に乗って船と並走するルカヱルとセタに軽く会釈をした。

「おー、おっどろいた! その箒、もしや魔女様では?」

「ふふっ、ご明察。ねえ、少し話を聞いても良い? ちょうど船乗りに聞きたいことがあったから」

「それはもちろん。ああ、この船に降りてもらって構いませんよ!」

「それじゃ、遠慮なく」

 ルカヱルが船に箒を寄せていく。男は蒸気機関を切り、次第に箒と船の速度が同期されると、ついに降り立った。

 黒い潤滑油がついたツナギの男は、帽子をとって、箒に乗ったおかしな二人組を快く出迎えた。

「はっは。こんな珍しいお方に会えるとは。僕はダイといいます。見ての通り、船乗りで……そうだ、エルド!! こっちに来てみろ、凄いお客さんだ!」

「――お客さんだって? 海の上でいるわけないだろ? というかいきなり動力を切るんじゃないよ、早く起動してくれ。宿舎に帰らないと……」

 そう呟きながら、船のデッキにもう一人の人物が姿を現す。丸眼鏡をしていて、寄れたシャツの腕をまくっている。彼は目を丸くして、ルカヱルとセタを見た。

「な、なんだ? この風変わりな二人は……。他所の船乗りのテリトリーに入ってたか? ああ、舵か方角を間違ったか」

「違うぞエルド! この方は魔女様だって」

「ま、魔女……?」

「名前は――ええと……」ダイがセタたちを窺う。

「ルカヱルだよ」

「ルカヱル様だ。それに、ええと……」

「あ、俺はセタと言います」

「セタさんだ」

「……で? こちらのルカヱルさんが、なんだって魔女だって分かったんだ?」名前を聞いた後も、エルドはルカヱルとセタを観察し、その後、じっとダイを睨んだ。

「悪いけど……普通の人にしか見えないぞ。だいたいルカヱル様といえば、海の向こうのジパングに住んでるはずさ。ここにいるはずない。だろ?」

「でもさっきは箒で空を飛んでたんだぞ」

「今は、箒を持ってデッキに立ってるぞ」

「ふふっ。じゃあ、証拠を見せようか?」

と言ったルカヱルは、すでに箒に乗って宙に浮いていた。

 エルドはしばらく沈黙した後、

「マジかよ……」

と呟き、丸眼鏡のフレームを指で動かした。

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