第76話

 ◆


 ラーンの地には“技科学院工房”という公的機関があり、単に学院とも呼ばれている。メガラニカの碧翠審院に近しいが、そのもっぱらの目的は技師の育成であって、最終的に世界最大の工業都市で働くにふさわしい精鋭を生み出すことを目指している。アヴァロンでは長きに渡って、大々的に人を集め、等しい教育を施すという学院の方針を保ってきた。学業を修めた人々は機械・動力の扱いに長けており、蒸気機関という概念があたりまえの物として普及して数十年に及ぶ。やがてアヴァロン持ち前の航海技術と組み合わさり、どこまでも世界中を渡るという民族性を獲得したのである。

 リンは4年前、まだ学院に在籍していた。工業機械を扱うという学院の方針に最低限従い、試験で相応の成績も残しているが、彼女が目覚ましい成果を上げたのは、もっぱら「自由研究」である。

 水面に浮かんだ油を眺めていた彼女は、虹色を再現するプリズムを手作りしたという。

 学院に提出された自由研究史上、異質すぎるテーマに取り組み、ガラスを精巧に磨いて提出した彼女に対し、指導教員は肩を竦めた――が。

「ははっ、面白い。これ」

 面白い物を探して暇潰しに来ていた魔女の目に留まった。ヲルタオは、プリズムをしげしげと眺めて、嬉々としてリンを呼び出した。

「あなた、なんでこれ作ろうと思ったんです?」

と訊かれて、リンはバツが悪そうに口をつぐんでいた。

 場所は応接室。

 魔女と1対1の場であった。

「ああ、怒ってるんじゃないですよ。でもこれ、作るの大変じゃなかったです? ここじゃ、こんな物の作り方なんて教わらないと思うし」

「……たしかに、楽じゃなかったですけど」と、リンは言葉を区切るように答え始めた。「楽しかったです。学校の勉強があんまり面白くなかったから、その……これは、実は暇潰しで」

 それを聞いたヲルタオは、心底に嬉しそうに微笑んで、プリズムを掲げたという。

「あなた、気が合うね」

 それからというもの、ヲルタオはしばしばリンの前に現れるようになった。話が合う二人は、やがて友人となった。西の魔女と呼ばれることもあるヲルタオだが、他にも“光の魔女”と呼ばれることがある。そんな彼女だからこそ、プリズムに一層目を惹かれたのかもしれない。



「――てな感じで、改めて思い出すと、単なる偶然だったね。偶然ヲルタオが学校に来て、そこで私の自由研究を見せたのが最初かな」

「それから、ずっと友達?」とルカヱルが尋ねると、リンはすぐ頷いた。

「うん。ヲルタオって、長生きなのにラフで、でも色々知ってて、一緒にいて楽しい」

「ふふ、そうですか」

「このカフェも元々ヲルタオが開いてたお店だったんだ。でも昔のヲルタオって、扉の魔法を使ってしょっちゅうどこかに行って、しばらく帰ってこないことが沢山あって――このお店も前は不定期営業だったの」

「扉の魔法って、昨日見たアレですか? 海と繋がってたやつ」

「そう。ジパングでも、ムーでも、海底でも――ヲルタオが一度行ったことがある場所なら、どこでも行ける。前は放浪癖があって、何日も店を開けてたから、私が学校出て手伝うことにしたの。それからはちゃんと営業してるよ――今は、臨時休業中だけど」リンは小声で付け足した。

「へえ……。でも、技科学院工房を出て、カフェに勤務ってのも変わってますね?」

「お父さんも先生も、最初は同じこと言ってた。けど、考えてみれば魔女のそばで働くってことだし、文句も無くなったって」

「うん、まあ確かに、文句言いにくいですが」

 セタは役人の立場で言う。

「そういえば、セタさん、ジパングの役人だったよね。実は私、3年前にジパング行ったことあるよ」

「……え?」

 セタは面食らう。

「あ、それ、もしかしてヲルタオ一緒だった?」セタを傍目に、ルカヱルが脇から口をはさんだ。「実は以前、ヲルタオが私の家まで尋ねて来たことがあって、お茶をしてね。その時、一緒に連れて来た人がいる、みたいなことを言ってた気がするのです」

「そんなことがあったんですか?」

 セタはますます面食らう。

 当時、セタはまだ役人として働いていなかった。魔女の動向を把握する立場ではなく、ゆえにヲルタオの訪問など知る由もない。

「私も、ヲルタオがルカヱル様のところに行ってお茶会してたなんて知らなかった」とリンが言う。

「あれは深夜のことだったから、リンが寝た後に来たんだと思うよ」

 ルカヱルは事情を補足した。

「……ちなみにその時、ヲルタオ様とリンさんは何を?」

「ヲルタオには、特別な目的は無かったかな。ただ卒業旅行っていう風習があって、私が“どうせなら遠くに行って見たい”って言ったら――扉の魔法を使ってジパングに連れて行ってくれただけだから」

「はあ……」

 そんな一言で、アヴァロンを出るどころか一番遠いジパングまで魔法で移動してきたらしい。

(魔女の話ばかり聞いてると、常識が崩れてくる……)

「――ところで、リンさんはジパングのどちらに? エダですか?」

「そう。一番大きな町があるってヲルタオが言ってたから……。あそこ凄いね! アヴァロンと全然違う街並みだった! 城壁っていうのかな? それが街を囲ってて、アヴァロンの中心地とは全然違うの」

「ですよね。俺も分かりますが」

「でね! そこに変わったものがあって、それを見た時に、写真機のコンセプトを思いついたの」

 リンが目を輝かせて言うと、セタだけでなくルカヱルも興味を目に宿した。

「変わったものって? なになに?」と魔女がセタの代わりに急かすように尋ねる。

(うわあ、すごく目を輝かせてるな)セタは静かに魔女の様子を観察しつつ、リンの答えを待った。

 そしてリンは頷いてから、こう答えた。

「城壁に描かれた絵――それも、すっごくな、風景画」

「……え? 絵?」

 セタは目を剥いた。

(城壁に描かれた風景画って、まさか……)

 頭の中で、幽霊画家じぶんの事が巡った。

「精巧な風景画?」

 ルカヱルは首を傾げる。「城壁に描かれてたってことは、あれですね。“グラフィティ”っていうやつ。聞いたことあります」

「る、ルカヱル様も、グラフィティのことをご存じですか? 見たことが?」

「知ってるけど、ちゃんと見たことはないのです――正確には見ても。だって石つくりの城壁に描かれてたから、マナで視界が歪んでしまって」

「あ……」

と、セタは声を漏らす。

 魔女にとって、鉱物の放つマナは常に視界を歪める影響を与える。たとえ、それが城壁の石であっても――

「それにしても、面白い話だね。壁に絵を描くなんて、線が歪んで正確な絵なんて描けそうにないのに」

「そうなの!」

 リンは我が意を得たり、と手を叩いた。「その疑問が写真機っていう発明の元だったの。“私が同じことをするなら、どうしようかな?”って」

「精巧なグラフィティを見たことが写真機の開発につながってたなんて、ふふっ、面白い……。ね、セタ」

「え? え、ええ。そうですね」

 少しぎこちなくセタは頷いた。

 ジパングから一番離れたアヴァロンで、まさかグラフィティの話を聞くことになるなど、露も思わず。

「もしあの絵の作者さんに会って話せたら、良いインスピレーションが得られそうなのになぁー。誰も、作者の正体を知らないんだって」

「あら、そうなの? ますます面白いですね……。帰ったら、調べてみようかな……」

「そ、そこまでしなくても――」

「精巧なだけじゃないの!」とリンが声を上げる。「たった一晩で、いきなり作品が出来上がってるんだって。精巧で、しかも素早い――まさに写真機が求める理想像コンセプトなの」

「一晩で? 真夜中に絵を描いてるってことだね。でも、夜中に明かりを使って堂々と描いてたら、誰かに見つかりそうなのに」

「それがね、噂だと明かりも持たず、あっという間に描いてるんじゃないかって」

「暗闇の中で精巧な絵を? 夜目が効く魔女ならともかく、それはかなり人間離れしてる……ふふ、面白い!」

「でしょ!? その人、名前もサインも分からないから、“幽霊画家”って呼ばれてたの」

 セタはそれを聞いて固まってしまい、視線を泳がせることすらできなかった――おかげで、誰も彼の挙動を不審に思うことはなかった。

「今度、図鑑の旅でまたジパングに行ったら、幽霊画家のことも調べたいんだー。竜の伝承じゃなくて、都市伝説だね」

「私も帰ったら調べてみようかな。セタは? 何か知ってる?」

「……え?」

 セタは一歩も動けず、しかし何故だか、崖っぷちが踵に迫っている気分がした。

「ぞ、存じません。はは……」



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