第72話
「ルカヱル様、ご無事ですか?」
セタはルカヱルの傍に駆け寄り、声を掛けた「る、ルカヱル様、顔に傷……というか、亀裂が!」
「えっ? あー、あ、これは大丈夫だから! もう治りかけ」
と答えたルカヱルは、頬を手で軽く押さえ、一瞬で傷を塞いだ。
それを見て、セタは硬い表情のまま、視線を動かす。ついさきほどまで扉があった場所に、今は何もない。
「さっきのは? 魚には見えませんでしたが……」
「ルミノスクロっていう、光る竜だよ。運悪く、近くにいたのです」
(ルミノスクロ……)
セタの頭の中には、その姿が焼き付いていた。竜そのものが光を放っていたことで、暗い水の中でも姿を観察できたのである。
目の位置が判然としない頭部には大きな口が花のように開き、顎らしい構造も無かった。発光器官を備えているが、ヒレらしい構造はごく小さく、蛇に近い。メガラニカで出会ったシィユマにも似ているが、スタイリッシュなシィユマと比べて、幾分か恐ろしい印象を与える体だった。
「ところで、あなたは?」
と、背後から声を掛けられて、セタは驚いて振り返った。
さきほどルカヱルと共に扉から飛び出してきたもう一人、眩い髪を揺らす背の高い女性が立っていた。セタやルカヱルよりも高く、成人男性に混じっても目立つかもしれない。役人が好むような白いワイシャツに、格式の高さを感じるベストを羽織っていて、祭典の出席者のような様相だ。
(この人がヲルタオ様か)
と、セタは改めて魔女を認識し、記憶に刻んだ。
「彼はセタだよ」
セタが一瞬口をつぐんだ隙に、ルカヱルが代わりに答えた。「竜の図鑑プロジェクトのために一緒に旅してるんだ」
「あ、つまり、“絵描き”さんね」と、ヲルタオは納得したように頷いた。
「初めまして、セタさん。私はヲルタオ。もう聞いているかもしれないけど、魔女」
「は、はい。お会いできて光栄です、ヲルタオ様」
「ヲルタオ、様? ふふっ!」
と、ヲルタオはどこか可笑しそうに微笑む。「丁寧。貴方、役人さんみたい」
「ええと、役人です。もともとジパングの役所所属だったんですが、色々あって、今は竜の図鑑プロジェクトに」
「そうなの?」魔女は肩を竦めた。「ジパングの役人さんって、若い人もいるんだね」
逆にアヴァロンの役人は若くないのか?とセタは思った。
「さて、リン――頼まれごとの方なんだけど、残念なお報せがあるんだ」
ヲルタオは手のひらを天井に向けるようにして、肩を竦めた。「結果から言えば、いつもの場所を隈なく探したんだけど、もうあの石が残ってなかった」
「えっ!? じゃ、じゃあ、また場所探しから……?」
「そう」
がっくり、とリンはうなだれた。「うう、これから写真機を実践的に使っていくって所だったのに……」
「私も残念だよ。でも、どうして石がいきなり無くなっちゃったんだろう。前までまだ残ってたのに」
「て、ていうか、じゃあ……」リンはハッとして、ヲルタオを見つめた。「まだ、出発できないってこと……?」
ヲルタオは
「確かに。そうだね」
と頷く。
「? 出発できない、ってどういうこと?」
事情をまだ完全に把握していないルカヱルが、手を挙げて皆に尋ねる。ヲルタオが咳払いをした。
「うん……まあ、コーヒーでも淹れようか。ちょっとお話しましょう?」
――もともと、リンとヲルタオは竜の調査を終え、次の目的地へと向かうところだった。しかしながら、リンは写真機を使って竜の姿を記録するため、機械の準備が終わらなければ進むことが出来ない。肝心な感光塗料の材料となる石が見つからず、普通の画家で例えれば、絵の具や鉛筆が無いようなものだ――リンの場合、市場で一般的な物品ではない、というところが尚更致命的だった。
その経緯を、コーヒーから漂う湯気を見つめながら、ルカヱルは静かに聞いていた。今はセタとルカヱルはカウンターの客席に座り、リンとヲルタオがキッチン側に立っており、店員と客の構図だった。
「なるほど、そういうことだったんだ」
「ま、心配しないで。多分、ちゃんと探せばまだ見つかるはずだから。それから塗料を作って、また改めて出発しよう」
ヲルタオは慰めるような口調でリンに言う。
そこに、ルカヱルが口をはさんだ。
「っていうか、リンってすごいのですね。機械で絵を描くなんて、思いつかなかった」
「ですよね!」とセタも同意する。「しかも見てくださいよ。この辺に飾ってる絵は、全部リンさんが写真機で描いた絵だそうです。精巧ですよね……これは写実的な画家も顔負けだと思います」
「……んー」
と、ルカヱルが目を細める。“同意しかねる”、といった態度である。
「どうもその塗料に使ってる鉱石のマナのせいで、私には線がはっきり見えなくてね。でも、セタが“精巧”っていうくらいだから、きっとそうなんだろうけど」
感光して鉱石が黒く変色し、それが線として絵を描く仕組み――だとすれば、その鉱石のマナが魔女の視界をゆがめてしまう状態らしい。
「じゃあ、魔女には見えないんですね、この絵は……」
「セタさん、ヲルタオもそーなの。絵を見せても、目を細めて“ぼんやりとしか見えない”っていつも言うから。魔女って、皆そうなんだね」
「ごめんね。せっかく描いてくれたのに」と、眉を下げるヲルタオ。そして、
「ところでセタさんは? 写真機は――持って無いよね。筆で描いてるの? どんな竜を見つけたのか、見せてくれない?」
と、話題を転換する。
「あ、私も! 私も絵を見てみたいなー」
リンもその話題に乗ったので、本人ではなく脇にいたルカヱルが自信に満ちた表情で手帳を取り出し、カフェのカウンターに置いた。
「どうぞ」
「なんか貴方が描いたみたいな取り出し方だったけど、貴方が描いたの?」
「セタが描いたよ」
「そ」とヲルタオは呆れたように応じ、セタの方を見る。「見ても良い?」
「え、ええ、もちろん。どうぞ」
――それから、ヲルタオが手帳を開き、リンと一緒に覗き込んだ。二人は、1ページを見た段階で同時に目を丸くした。
「え、うまっ――というか、正確? 写真機で描いたみたいだよ!?」
「竜って、人間からはこんな感じに見えてるの? へえ……」
各々、抱いた感想は異なるものだったらしい。
「セタの絵は木炭で描いてるから、ヲルタオにも見えるでしょ?」
ルカヱルが一言添えると、ヲルタオは感動したように頷いた。
「ああ、なるほど! 木炭で描いてるから私にも見えるってわけね」
「いや、いや! それよりこの絵、どうやって描いてるの!?」と、リンは興奮気味にセタに尋ねる。
「だから木炭でしょ?」とヲルタオ。
「そうじゃなく、どうやってこんな正確に絵を描いてるの?って意味だよ! こんな正確に描く方法があるなら、写真機の解像度を上げるヒントになるかも!」
「その……」
少女の期待の眼差しを向けられて、セタは少し答えにくそうに口を言葉を探した。
「……姿を記憶して、その通りに描いた、って感じです。一目見るだけで覚えられるから、その記憶を頼りに書き写してるだけで、特別な方法というのは無くて」
「え、ええ? 見ただけで絵を描けるくらいに覚えられるってこと? ふぇ……」
例によって、少女は慄いたように呟いた。「セタさんって、もしかして天才?」
「そうなの! セタは天才だよ、まさに!」
“いえ、リンさんほどではないと思います”と、セタが素直な心境を告げる前に、おせっかいな魔女が太鼓判を押した。
「一目見ただけで――? それだったら、例えばさっきのルミノスクロも、いま描けるの?」
と、ヲルタオが尋ねる。
「今ですか? えっと、おそらく……。竜が放っていた光と、店の明かりで、姿は割と見えたので」
「か、描いてみて!」と、せがんだのはリンだった。「写真機だと、水の中の竜を記録できないの。夜行性の竜も、太陽の近くを飛んでる飛竜とかも……」
「そういうことなら」
セタは筆と紙を取り出し、線を描き始めた。
彼の筆の速さは、輪郭を描くだけであれば途轍もなく速く、しかも正確である。ほとんどの線は一発描きであり、記憶をなぞるように、再現するように絵が出来上がっていく。
簡単なクロッキーが出来上がったときには、それが異形の竜であると、誰もが見て分かるようになっていた。
「――こんな感じでした。細かいところはまたあとで描いていきます」
「凄い……」
一番感動していたのはリンだった。ルミノスクロのありのままの姿をマナに妨害されることなく見ていた“証人”だからこそ、セタの描いたスケッチが、ルミノスクロそのものであると知り得たのだ。
「記憶して、それを再現して――それでこんな正確な絵を描けるんだ……」
「あーそっか!」
と、急に手を“ぽん”と叩いたのは、ヲルタオだった。「あっはっは。今更、こんなことに気付くなんて」
「な、何? 急に?」
ルカヱルが訝し気に尋ねる。セタの絵を指さして、ヲルタオは答えた。
「あの竜、すごく強い光を放ってたでしょう? たぶん、私が探していた石は無くなったんじゃなくて――竜の光に反応して、もう全部変質したんだ。だから、目当てのマナが見当たらなかったんだ」
「あっ! なるほど」リンも手を叩いた。
「となると、あの竜から遠い所を探さないと。はあ、じゃあ次はどの“扉”を使おうかな……。掘ったほうが早いかな?」
と、ヲルタオは呟いた。
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