第71話

(なに――竜!?)

 ルカヱルの判断は一瞬遅れた。そのわずか1秒の間に、竜の光が接近する。魔女の目は圧倒的なマナと光で眩んでいた。

「うわっ!!」

 竜の牙が魔女に食い込み、激しい水流と共に押し流される。

(な、なに、この竜!? こんな深い海底にいる竜ってことは……インクレス――?)

 しかし、“波紋”の気配はない。ゼロ距離まで接近しているにも関わらず、それらしい振動を感じないのである。

(この光は……。伝承に何かあったっけ? でもこんな深い環境の竜、人間には見つかってないかも――)

 しかしながら、今すべきことは竜の考察ではなく竜の拘束を解くことだと、ルカヱルは思い直した。負傷の感覚から判断すると、眼前の竜の顎の力では嚙み砕かれる可能性も無さそうだったが、拘束されたまま好き勝手に泳がれてヲルタオから離れるのは避けたかった。

 以前、洞窟の中でミレゾナに噛まれた時の方法を思い出し、つまり箒を使って、ルカヱルは脱出しようと図った。

 一方、竜は急旋回し、泳ぐ方向を上に変えた――そして、すさまじい速さで上昇を始めたのである。

「ちょっ、上に泳ぐの!?」

 不意をつかれて、ルカヱルは動きが止まった。まるで魔女が箒で空を飛ぶときのような速度で、水の中を動いているとは思えない速さだった。

 竜の後塵が舞い、急速に密度が下がった水が沸騰したように泡立つと、さらに竜は加速していく。

「……え!?」ルカヱルは体の異変に気付いた。

 竜の噛む強さは変わっていないにも関わらず、亀裂が入ったような感覚が、身体のあちこちからしていた。

「な、なんで? 体に、亀裂がa……!?」

 いきなり同時多発的に傷を負い、回復もすぐには追いつかない。大きなヒビが頬まで入ったとき、ルカヱルは、この負傷の原因に気付いた。

(圧力差……!? 水圧の高い海底から急浮上したせいで、今度は水圧が下がってる――圧力差でマナの体に亀裂が入ってるんだ……!!)

 一方で、竜はそんな環境の変化に動じず、平然としているようだった。よく視れば、その体の表面でマナの密度が高い部分と低い部分が網目の様に入り組んでいる。変形を前提とした特殊な組織の構造をとることで、急激な圧力変化で負傷しないよう、対応されているようだった。

(はやく浮上を止めないと――!)

 ルカヱルは腕を上に伸ばし、さらに箒を取り出して柄を掴んだ。そして竜の泳ぐ方向と逆に向かって、つまり海底に向かって、急激に加速した。

 海中に低い音が轟き、竜と魔女の速度は拮抗した。

「はああああっ!!」

 ルカヱルは竜を押し返し、今度は、下に向かって急加速を始めた。

 竜は魔女の力で押し流され、わずか数秒の間に、海底に叩きつけられた。そしてルカヱルを噛んでいた顎の拘束も緩む。

 その瞬間、箒を使ってまるで泳ぐように、ルカヱルは竜の口から飛び出した。

「あ、危なかった……!」

 竜は光を強め、体勢を立て直し、ルカヱルへと目を向けた。

(この竜――もしかして、“ルミノスクロ”?)


 “夜灯”として知られる竜、ルミノスクロは、海岸や船乗りの間に言い伝えられている。その伝承の名前は、突如夜の海に高く伸びる灯台のような光に由来する。

 遠くで見る分には、美しい光である。しかしよく考えてみれば、海面から灯台よりも高いところまで光が上がるということは、それほどまでにすさまじい速さで浮上できる膂力の証左である。

 時折、抉れて大破した船の残骸が、アヴァロン群島の海岸に流れ着くことがある。そんな時、これはルミノスクロの“浮上”に運悪く衝突した結果である――と、多くの場合は判断されるのだ。


(――それが海底で遭うと、こんなことになるんだ。海上だけが危ないわけじゃないわけね)

 もちろん、海底でルミノスクロに遭うなど、普通の人間はそもそも不可能であるが、今はそんな細かいことを気にする状況になかった。

(なんか、最近しょっちゅう海底に行ってる気がする……今回は少しばかり深いけど)

 しかし深いが故に、全力で魔法を使う分には気兼ねない環境とも言えた。

 ルカヱルは箒を槍投げのような構えで持ち替え、柄の先をルミノスクロのほうへと向けた。

 地上では普段全く使い道が無い、箒飛行魔法を応用した攻撃型魔法――その箒の挙動から『箒星』と称している魔法は、魔女の手から遺憾なく、全力で放たれた。

 箒の柄がルミノスクロの体を捉える。竜の巨体に突き刺さっても勢いは止まず、海底の砂を撒き上げ、水の抵抗を跳ねのけると、そのまま竜の体を遥か彼方へと吹き飛ばした。ルミノスクロの光は、わずか1秒で見えなくなって。

 そして周囲が静寂に包まれたあと、箒だけが一人でにルカヱルの元へ帰還し、手のひらに収まった。

「これで撒けた……って言っても良いかな?」

「良いんじゃないかな」

「うわあっ!?」

 急に誰かに返事をされて、ルカヱルは冗談でなくかなり驚いた。振り向くと、そこには暗闇の中にも拘わらず、やけにはっきり姿が見える人影が立っていた――魔女、ヲルタオである。

「ヲ、ヲルタオ……いつのまに……?」

 ルカヱルが声を掛けると、ヲルタオは肩を竦めた。

「3年ぶりくらいかな、ルカヱルさん。相変わらず魔法が面白いね! それにしても、こんなところでお会いするなんて、これはとても運命的に思わない?」

 “いつのまに?”という問いには全く答えていなかったが、ルカヱルもその点は気にも留めず、ほっとしたように息をついた。

「竜の図鑑プロジェクトのために来たんだよ。ヲルタオも知ってるでしょう。それについて聞きたいことがあったから貴方の家に行ったのに、もう何時間も帰ってないって聞いたから。その、貴方の、友達から」

「ああ、リンに会ったんだ?」ヲルタオは目を丸くした。「その頼まれごとが中々進まなくて大変で、どうしたものかなーって考えてたらルミノスクロも来ちゃったし、今日はもう運が無くって……困った困った」

「鉱石でしょ? 光に当たると黒くなるとか、そんなこと聞いたけど……」

 ルカヱルは周囲を見渡す。あたり一面の水と暗闇を。彼女の目から見て、そこにそれらしい鉱石のマナは見当たらなかった。

「そうなんだけど、あんまり残ってなくて」ヲルタオもくたびれたように息をついた。「ちょっとリンを待たせ過ぎたかな。いったん帰ります?」

 海底から扉が生えるように姿を現した。この深淵に来る際にくぐったのと同じドアである。

「そろそろおいとましないと、あの竜が怒ってここまで戻ってくるかもしれないし」

「いやあ、ついさっきすごく遠くまで飛ばしたから、そんなことは――」


 ―――UUNYIAAAAAAAA!!


 竜の怒号が響くと、すぐにヲルタオが扉を開け、二人の魔女はそこに立て続けに飛び込んだ。扉の向こうにはカフェの風景が広がっており、彼女らは雪崩れ込むように木目の床に這い出た。

「――ルカヱル様!?」「ヲルタオ!!」

 カフェで待っていたセタたちが声を上げる――その直後、突撃してきた竜がドア枠に思い切り衝突して大きな音が響く。

「あ、あぶなっ……!」

と零すルカヱル。

 竜は、ドア枠をくぐれないと悟ると、唸り声を挙げながら、扉から離れていった。セタとルカヱルは、息を呑んでその様子を見つめていたが、ヲルタオが指を弾くと扉が消えてしまった。

 静寂の中で、

「ヲルタオ、おかえり! もう、すごく心配したよー!」

と、リンがまず声を上げた。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る