第68話

 大陸を渡るとき、セタはルカヱルの箒の後ろに乗って、海の上を飛ぶことになる。インクレスの伝承について実態が明らかになってきたせいか、その視線は普段よりも一層、海面に向けられていた。

(実際に波紋が浮かんでる時の海面って、どんな感じなんだろう。俺が視ても分かるんだろうか?)

 一人、そんなことを密かに疑問に思っていると、

「うーん……」

と、ルカヱルが唸り声を漏らす。

「ルカヱル様、どうかしましたか?」

「ずっと海面を見てるんだけど、普段通りだなーって」

「ですね」

「とはいえ、インクレスの伝承は多分、アヴァロンの近くが主な舞台なんだろうけど」

 いま飛行しているのは、アヴァロンとメガラニカの間の海である。規模はそれほど大きくなく、この飛行も数時間程度で終わるだろう。

「アヴァロンの船乗りが証言を持ってるってことは、やっぱりパシファトラスが主な棲息域で、他にはあまりいないのかな」

 大平洋パシファトラスは、地図で言えばちょうどアヴァロンとジパングの間にある大きな海であり、これまで集まった情報から考えて、インクレスの生息域はその付近に絞られている。とはいえ、その海は途方もなく大きい。メガラニカよりも大きく、メガラニカよりも深い世界である。なんの目印も無いあの海を探索するとなれば、困難を極めるのは明らかだった。

「どうやって探そうかな」

「少なくとも船乗りたちは波紋を認識してるんですよね。だったら、とりあえず聞き込みするというのは?」

「ま、できることから情報を集めて行こうか。今回は運頼みな探索になりそう」

「あと頼れそうなのは、やっぱりアヴァロンの魔女様くらいですが」

「ヲルタオか……」

と、ルカヱルはつぶやく。「会えると良いけど、それも運頼みだね」

「ミィココ様みたいに、どこにいるのか分からないタイプですか」

「いや、あの子はどっちかって言うと、引きこもりだけどね。だけど、どこにいるのかは保証できない」

「?」

 セタは混乱していた。

「引きこもりなのに、どこにいるのか分からない?」

「そ。あの子は魔法の天才で、神出鬼没の極みなの。もしかすると、既にアヴァロンを発ったどころか、移動も終わってるかも」

「??」



 *



 アヴァロンにおいて最も栄える工業都市、ラーンの地。

 そこに置かれている大役所に西の魔女、ヲルタオが最後に訪れたのは、二日前のことだった。彼女はプロジェクトの途中経過の報告をまったくせず、最終的に10体以上の竜の絵図と報告書をまとめ、

“もう次に行ってきていい?”

という旨の確認だけして、その場を去ったという。

 役人たちは1か月近くの彼女の成果を全く確認できていなかったが、ちゃんと進んでいたということと、しかも思いのほか早く進んでいたということに驚きつつ、彼女の移動を了承することしかできなかったという。

「やはり、あのお方は読めないな」

「それにしても、この竜の絵。ものすごく精巧だが、なんだか少し粗くもあるな……?」

「ああ、なんかそれ、筆で描いたわけじゃないとか」

「何かの道具を使ってるとのことだ」

「ほお。なんにせよ、こうも仕事が早いとは有り難いことだ」

「しかし寂しくなりますね。彼女のも、しばらく閉店でしょうか」

「確かになあ」

「最後に一杯くらい――もう遅いか」

 役人たちは、彼女が立ち去ったと思い、そんなことを言っているのだった。

 彼らが思い浮かべる「店」は――街角にひっそりと構える、とある小さなカフェのことである。

 いま「閉店中」という札が掲げられたその店は、コーヒーと菓子を提供する業務形態であり、絶品の甘味と薫りをもたらしてくれる。知る人ぞ知る名店だが、いまは誰も、足も止めることすらない。

 閉店中という札があるせいかもしれないが、もはや存在に気付いていないかのような歩調で、皆が通り過ぎていく。そんな閉ざされたはずの店の中で、天井のランプ一つに照らされて、湯気を漂わせるコーヒーを嗜む人物が二人。

「……リン、調整終わりそう?」

「んー」

 苦しく、低く唸る声が店内に響き、すぐにため息に変わった。

「あーあ、まずったな。まさか荷造り中に落として壊れちゃうなんて。出発前から前途多難だあ」

「そんなふうに考えずに、別にゆっくり直せば良いよ。ちょうどお店も閉めてるからさ」

「ごめん。ほんとなら今頃、ムーにたどり着いてたころなのに」

「気にすること無いって。どうせ、から。それよりも困ったことがあったら言って、暇潰ししたいし」

「ありがと。よし、少し衝撃に強い造りにしておこう。これから、不確定な要素が増えるからね」

 リンと呼ばれた方の少女は、机の上に置かれた筐体を両の掌で掲げた。小さなレンズと数個のスイッチが備えており、一見すると大がかりな虫メガネのような道具である。

 のちにカメラとして知られるようになるその発明の原型は、この世にまだ一つしか試作されておらず、そして彼女の手中にしか存在しなかった。

「そうだ、ヲルタオ――ごめんだけど、ちょっと御遣いを頼まれてくれない? 旅に出る前に、あの塗料の材料、補充したくて」

 少女は友人に向けるような親しい口調で、となりでコーヒーを飲む女性に声を掛けた。

 そして、「良ーよ」と、彼女はあっさり了承して席を立った。

 遠目からでも目を引く金色の髪がなびくと、暗い店内の中で美しく輝き、その立ち振る舞いはまるで、眩い火花が動いたようだった。

「たぶん10分後には戻るから。コーヒー、良かったら飲んでね」

 そう言い残すと、彼女は店の奥に構えるドアのノブに、手を掛ける。

 どう見ても不自然な位置に置かれたそのドアは、まるで、彼女が歩み寄ってから慌てて世界に生成されたようだった――扉の向こうは明らかに、どこにも通じていないのだ。

 通路の真ん中に、前後に部屋の無い場所に、そのドア枠は既に置かれていた。

 そんな役立たずな扉が開かれ、その向こうには水で満たされた世界が広がっていた。水が流れ込むことはなく、ドア枠を境界にして、水はまるで、静かな湖面のように波打っている。

 少し息を吸む音を立てると、魔女は、扉の向こうに消えた。

 そしてドアも消えた。




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