第62話


 箒に乗って数分後。

「――いた」と、ルカヱルは呟いた。「セタ、見える?」

「ええ、見えてます」

 距離にして500メートル以上離れているだろうか。それでも、その方角から流れて来る空気が、氷原の冷たい空気と区別できるくらいにだと分かった。

 目を細めるセタのまつ毛や眉毛に、霜が降りていく。

「あれが……」

「うん。“白銀”のガトシロア――さて、前に出ないように観察しないとね」

「さらに寒さを感じます。このローブを着てるのに」

 ルカヱルは遠巻きに旋回しながら、徐々に近づいていく。距離が縮まるにつれて、竜の姿が見えて来た。

 白銀と謳われる竜は、静かにたたずんでいた。四つの足を折り、長い首を稲穂のように垂らして、眠っているかのように。背中からは4枚2対の蝶のような翼が生えていて、それが微かに動くと、曇りの空から差し込む陽光に照らされて水面のように光り輝く。そして伝承通り、周囲の空気までもが凍結した空気中の水分によって煌いていた。

(あれが、ガトシロア……)

 大人しいどころか、まるで眠っているかのような、半分死んでいるかのような、そんな竜だ。

「本当に静かな竜ですね。声どころか、息遣いも聞こえない」

 ガトシロアの背中を見つめながら、セタはつぶやく。骨ばった筋が背の中心に走っていた。

「私が近づいたときと全く同じだね。あの時と違うのは、天気くらいかな」

 ルカヱルは空を見上げる。厚い雲の隙間から差し込む光は、なぜだか一層眩しく感じた。

「さてと、後ろばかり見ていても図鑑の絵が描けないよね」

「前に行くつもりですか?」

「真ん前はダメだよ。でも簡単な話、斜めに位置取っておけば、ガトシロアの呼吸の射線に入らず済むのです」

「そんな簡単な話なら良いですが」

 見る限り、ガトシロアは時折首を振って、首に付いた細かな霜が降り落としている。これでは、顔が向いている方向も不意に変わるかもしれない、とセタは思っていた。

 箒はゆっくりと近づく。もう間もなく、竜から見て右前に回り込もうとしていたところだった――

 その時。

「……っ!!」

 ルカヱルは声を殺して、箒を止めた。ガトシロアが顔を上げたのだ。同時に、空気が。不思議な現象に目を奪われて、セタは目を凝らす。

(いま、空気が液体になったような?)

 滴り落ちた液滴は、地面の氷に当たると煙と“シューッ”という音を立てて、忽ち消えていく。

「いまのは? 竜の唾液ですか?」

「いや、違う気がする」

 ルカヱルは箒を高空へ遠ざけつつ、首を振った。ガトシロアが曇り空の方を見上げて佇んでいるので、迂闊に近づけなくなったのである。

 そうしている間にも、ガトシロアが見上げる方向では宙から液滴が落ち、地面に落ちては泡となって消えていく。シャワーのような細かな液滴によって、虹がかかっていた。

「ふふっ、面白。こんなの初めて見たよ。ガトシロアの呼吸の射線上にある空気そのものが冷えて液体になってるんだ」

「えっ……は? 空気って液体になるんですか?」

「湯気も冷えれば水に戻るじゃない? 空気も原理的には同じなのです。でも空気は水よりずっと低い温度で気体になる――だから氷の上に滴り落ちた液体空気は沸騰して、また気体に戻る。それを繰り返してるんだろうね」

「それを聞いても、正直何が何だか……前にルカヱル様がガトシロアを観察したときも、こうだったんですか?」

「いや。言ったでしょ、これは初めて見た。あれはもしかすると、してるのかもね」

「し、深呼吸……? ――で、こんな凄いことに?」

 セタはもう一度、ガトシロアの方に目を向けた。じっと観察してみれば、空気が滴って、地面に落ちて、沸騰して――そして一呼吸置いてから、また空気が滴り落ちた。

 その現象を観察しているセタも、つい同じリズムで深い呼吸を繰り返していた。竜と超常現象を目の当たりにして早鐘を打っていた心臓が、次第に落ち着ていく。

「いや……分かってはいましたが、とんでもない生き物ですね、竜って」

「だね――うん?」

 そのとき、急にガトシロアの呼吸が浅くなり、液体空気の発生も止まった。

 そして、竜は立ち上がったのである。ルカヱルはすぐさま、箒を後退させて距離を取った。不意な状況の変化を前に、二人の呼吸も浅くなっていた。

「急に動いた――!? 俺たち、気づかれましたか?」

「いや、ガトシロアはこっちを向いてない」

 セタとルカヱルは、竜が一心に見上げているのと同じ方角を見つめた。

 セタの目には、ただ、北の空に浮かぶ厚い雲が映っていた。

 そしてルカヱルの目には――

「えっ――まっ、マナだ! 何か来る!!」

「え!?」

 その瞬間、暗雲の中から影が飛び出し、氷原の上に音もなく着地したのである。上空から巨躯が降り立ったにも拘わらず氷原に亀裂すら入らなかったのは、それが翼をもつ飛竜で、着地の衝撃を殺したからだ。

 粉雪を巻き上げたその竜は、ガトシロアの御前に対峙したのである。

 セタは一連の出来事に驚いていたが、なによりも驚いたのは、降り立ったその竜の外見、特に色だった。

「あの竜、なんか、黒いというか――」

 セタの所感だが、その竜は“焦げて”いるように見えた。

 体表面は黒い部分と白い部分が混ざっている。腕と呼べる構造はなく、翼の骨格と一体化しているようだが、そこに張ってある膜は乱雑に破れ、負傷したコウモリを彷彿とさせる。

 頭部に角やたてがみのような構造はなく、蛇のように滑らかな輪郭だった。だが漏れなく焦げており、目の位置はよく分からない。せいぜい、口の位置が把握できる程度だった。

 氷原の真中に降り立ち、“白銀”と呼ばれるガトシロアと対峙したその黒焦げの竜は、真っ白な紙に滴ったインクのように目立った。

「こんなところで二体目の竜? ふふ、今日は珍しいことばかり起こるね。以前私がこの辺りを散策してたときは、氷原はガトシロアの縄張りだったのに」

「じゃあ、新しい竜、ってことですか?」

「ですね。――いや、でも私がガトシロアを見たのがもう何百年も前の話だから……あの竜がいつからこの氷原に来ているのかは、分からないね。もう百年以上棲みついてる可能性もありますが、私には何の竜かよく分かんないのです」

 ルカヱルも目を細め、じっとマナを観察し始めると、ふと首を傾げた。「あの竜……なんか、どこかで見た覚えがあるマナ……?」

 そんな黒焦げの竜が、ガトシロアに一歩近づいた。

 その時、また北の方から、今度は声がした。


 ――……きゃぁぁぁああああああっ!!


「えっ、い、いまの声は?! 竜? 人間……?」

 事件性のある成人女性のような声だったので、セタもルカヱルも大層驚いた。その声に釣られて見てみれば、雲越しの逆光を背に、二人の影がこちらに跳んできている。

「なんか……空を跳ねてる人が見えます。俺の目がおかしくなったんでしょうか」

「いえ、私にも見えてる。というか、あのマナってまさか――」

 きーん、きーん、と奇妙な金属音を響かせながら空でステップを踏み、やがてその二人は、竜たちから離れた場所に降り立ったのである。




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