第61話
準備を終えたセタたちは、箒に乗ってメガラニカの大陸を渡った。南下を続けるほど気温が下がっていくのを感じ、ついに息が白くなってきたところで、一度箒は高度を下げた。
「さ、さむ……! 急に気温が下がりましたね?」
かじかんだ手をこするセタ。ルカヱルは袖の下から、次々と防寒着を取り出していく。
「山脈を超えると、一気に寒くなるね。ここらへんはあんまり人も住んでないんだ……そうだセタ、これ着て」
といって、ルカヱルは上着を一枚手渡した。複雑な刺繍が編み込まれており、セタには似たようなものを見た覚えがあった。
「ああ、フォルヴェントの時もお借りしたローブですね」
袖を通すと、片腕だけがまるで別世界に入ったように寒くなくなった。両手の袖を通して羽織ってみれば、もはや感覚は春のようだった。周囲を見渡してみると木の葉っぱの形が変わっていて、地面から生えている野草の背も低いようだった。寒冷地に近付いていることが環境からも察せる景色を、しばらくセタは眺める。
「さて……もう少し飛ぶよ。氷原に入ったら草木は全くないから、もし竜がいればすぐ判るはず」
ルカヱルは言う。防寒対策を済ませたセタたちは、再び空へと飛びあがった。人が生活している気配は、もはや一切感じられない。静謐な空を飛んでいると、自分と魔女以外の生き物が全ていなくなったのではないか、と思えるほどだった。
次第に――地面の色が変わった。どこまでも白く広がり、地平線までもが白く染まっている。空以外が造りかけの手付かずのように見える景色だった。
「これ……? この白いの全部氷ですか?」
「うん」と魔女。「よく知らないけど、南の極地まで向かうと凄く寒くなるのです。不思議だよね」
ルカヱルは箒を止め、滞空した。「この極寒の地では、マナによる視界の揺らぎも小さい。逆に――ガトシロアのマナの痕跡はかなり目立つと思う。探してみるよ」
「俺も探してみます。ただ……」
セタは目を細めた。凹凸に乏しい一面の銀世界は、まるで鏡のように太陽光を照り返している。「思ったより眩しくて……ちょっと目に悪いですね、この景色は」
「ふふん! だったら、今回は私に任せて! 洞窟の時とは違うよ!」
「お願いします……、頼りにしてますね」
「うん!」
頼りにしている旨を伝えるだけで2倍増しくらいに表情が明るい魔女を見て、セタは由来の分からない罪悪感を抱き始めた。暗におだてているような感覚を自覚しているからだろうか?などと考察し始める。
「あっ、セタ。見えたよ」
そんなセタを尻目に、ルカヱルはある一方をじっと見据えていた。セタは同じ方を見てみたが、何が“見えた”のか、さっぱり分からない。ただ白い大地と厚い雲がコントラストとなっていた。
「竜ですか? どこですか?」
「いや、本体はいないっぽい。でも、洞窟の中で竜と対峙したおかげでマナの見方が変わったよ。氷の上に、足跡みたいなものが見える」
そう言いつつ、ルカヱルは箒の先を視線と同じ方へ向けて動き出した。
「ガトシロアに近付くよ。ああ……寒いって思ったら、早く教えてね」
それを聞いてセタは緊張してきた。“決して御前に立つこと勿れ”とまで言われる竜へと正に近づいていくのだから。
しかし同時に、ふと疑問が湧いた。いったい、誰がその警句を残したのだろう。“決して御前に立つこと勿れ”――ガトシロアの前に立つことの恐ろしさを、生還した誰かが言い伝えたのだろうか、と。
「ルカヱル様……ガトシロアの伝承や警句は、どこで聞いたんですか?」
「どこでって……。うーんと、あれはたしか……」数秒して、魔女は何度か頷いた。「そう、氷原に入る直前に小さな集落があって、そこでね。何百年も前だったけど、まだ集落は残ってるかな?」
集落があったのか、とセタは驚く。こんな氷ばかりの世界で、生きていけるのか疑問だった。そんな端的な疑問を抱くセタを傍目に、ルカヱルは話を続けた。
「あそこは粉雪が綺麗でね、雪が落としやすいように、とんがった形の屋根が沢山建ってるの。面白いよ」
「ジパングの屋根も結構尖ってますけど」
「それ以上だよ! この帽子くらい!」と言って、ルカヱルはミィココから貰った帽子を取り出して被って見せた。
それを見て、“まあ確かに尖っているが、わざわざ帽子を出すほどの話題か?”とセタは思っていた。
*
とある集落にて。
石つくりの建造物が点々と建っていて、玄関先には薪が置かれている。屋根は木材と干藁を材料としていて、その形は鋭角に尖った三角だ。屋根にしなやかな素材を使って、“何か”に対策しているようだ。
地面には、透明な氷塊が無数に転がっていた。人々は道に残った氷塊を脇へ集めて避けていたが、そこへ突如、二人組の外来者が現れた。
最初は警戒心を持っていた住民も、その人物が誰であるか気付くと、目を剥いて腰を折った。
「あっ、み……ミィココ様!?」
「え、魔女様!? こ、これは、こんな何もないところに、ようこそお出で下さって……!」
「ああ、ああ。そんな風に畏まらんでいい。お主ら、この氷はどうした?」
ミィココは、積み上げられた雹の一つを拾い上げて言う。
「それはもう、今朝のことです。雹が降りまして」
「朝から“グランディン”が通ったんです。あの竜め……」
伝承の名前が出て、ミィココは空を見た。ここらの集落一帯に踏み込んでからというもの、特に南の空は曇り空だった。
「グランディン、どの辺から来るか分かりますか?」と、ミィココの背後からもう一人の人物が尋ねる。アルマだ。
魔女と比べて高名ではない彼女を見て、集落の人々は一瞬目を細め、しかしすぐに見開いた。
「貴方、以前にもいらっしゃったことがありませんでしたか?」と一人が声を上げる。
「あっ、覚えてますか? へへ」
「ええ。こんな寒い所に人は中々来ませんし」
そう答えた住人は、アルマからそっぽを向くように視線を動かし、そして、空を指さす。「グランディンの暗い雲は、いつもあっちの方角から来ます、南です。今日はまた、南の方へ戻っていったみたいです」
「南から来て、南に戻った? この町の上空付近を旋回しておるのか」ミィココは言う。
「今日はそうです」と住人は頷いた。
その言い方を聞いたアルマは、少し気になることがあった。
「“今日は”、って? 昨日は違った?」
「いえ、昨日というより……そう、日に寄ります。今日はこの町で折り返しましたが、通り過ぎて北上していくときもあります。全く来ない日も」
「へえ……周期みたいなものは?」
「し、周期? ええと……ごめんなさい。そういうのは、よく分かりません。でも、祖父の代からずっと、あの雲は南から来ると聞いてます」
「奴が地上に降りたのを見たことはあるか?」とミィココが続けて尋ねたが、みな首を横に振った。
「降りて来たことはありません。不幸中の幸いです」
「はっ、そうとも言えるな。さてアルマ。ちょいと来い」
「はい?」
ミィココに手招きされて、アルマは並んで歩き、住人達から離れていく。歩いて向かったのは南の方だ。ある程度離れた所で、ミィココが切り出す。
「奴の巣はこの町よりさらに南じゃろう。おそらく氷原地帯の中じゃ」
「へへ、私もそうだと思いました」
アルマは微笑む。氷原と聞いても、一切気おくれのようなものは感じられない。「通り雹が来るのはいつも南から。南に巣がある確率は高いです。この町の上空で旋回するか通り過ぎるかの違いはあるみたいですが、それは恐らく、旋回する場所が時折違うだけなんでしょう」
「問題はそこじゃがな。なぜ奴の飛行経路が違うのか」ミィココは、今度は北を見た。
メガラニカはいわゆる南半球にあり、昼間になると北の空を太陽が通過する――だから、空を見上げた時、陽光に青い瞳を照らされたミィココは目を細めた。
「グランディンの気まぐれか、理由があるか。定かではないが――。一つ確信しておることがある」
「何ですか?」とアルマ。
ミィココは、南の空を指さした。分厚い雲が覆う、太陽の無い暗い空を。
「やつは巣に戻ってるはずじゃ。急ぐぞ」
「はは、そうですね。ただ、今から歩いて行ったら夜になってしまいます。氷原で焚火をするのは難しいので、また明日の早朝にでも――」
「はっ、悠長なことを言いよる。――“変身”」
ミィココが出し抜けに呟くと、瞬く間にその姿は光に包まれ、次の瞬間、装いが完全に変わっていた。
くたびれた襟の無いシャツはどこへ行ったのか、裾の長い白衣を纏い、青い金属光沢を放つブーツと、黒い手袋。さらに兵が使うような帯刀ベルトに真っ白な刃を
「わあっ、すごーい! え、かわいい!? かっこかわいい!!」とアルマは大喜び。
「うるさい!」ミィココは拳を握った。「騒いでないで、お主もこれを付けろ。二の腕か、首が良い」
そう言って、ミィココはチョーカーのようなものを渡した。アルマは言われた通り、手っ取り早く腕にはめてみる。
「なんですか、これ」
「護符みたいなもんじゃ。儂のマナをこれでもかと込めて作った」
「へえ、先生が作られたんですか?」
感心している彼女の肩を、ミィココが唐突に掴み、組み交わした。「えっ」と声を漏らしたのも束の間、得体の知れない浮遊感が足にまとわりつく。
「あの、これは、なにを」
「跳ぶぞ。時短じゃ」
「はっ?」
次の瞬間、金属音が響き渡り、二人はあっと言う間に高空まで飛び上がっていった――後には、事件性のある成人女性の叫び声を聞いたような気がした人たちが数人集まってきたが、そこにはアルマも、ミィココも、既にいなかった。
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