第60話

 ガトシロアは“白銀”という伝承で知られる竜である。見かけは美しい白銀の竜であり、鳴き声すら滅多に上げることはなく、実に温厚で争いや威嚇を好まない。伝承いわく、晴れた雪原にて空気が煌く美しい現象が見られたら、ガトシロアが近くにいるとのことだ。

 ただし“決して御前に立つなかれ”。

 雪原の乾燥した空気に含まれるわずかな水分が空中で凍結し、光を散乱して煌く。ガトシロアの呼吸は、この世の生物にあるまじき極低温であり、静かなる呼吸のに立てば命はない。体表面の鱗では結露した水分が忽ち凍結し、氷像のような輝きを放つ。まさに生ける災害であり、ただの空気が毒よりも恐ろしい即効性の殺傷能力を持つ。

 ゆえに“決して御前に立つ勿れ”。


「あの、その竜を観察するって行為は、大丈夫なんですかね?」

 ルカヱルが同じ警句を二回繰り返したあたりで、セタはつい口をはさんだ。

 あれから博物館を出たセタたちは、件のガトシロアの観察のために準備を進めるために宿に戻った。明日の朝には南下を始め、ガトシロアの捜索を始める算段だった。

「もちろん! 私の魔法があれば、だけどね」ルカヱルは大きく頷いて言う。「なんにせよガトシロアとまともに対峙するのは止めた方が良い、っていうのは事実。実は昔メガラニカに棲んでた時、何体かの竜に遭遇したことがあるんだけど、ガトシロアも遭ったことがあるのです」

「え、そうなんですか?」セタは目を丸くする。

「そう。水と違って、マナは簡単に凍ることはないから、その時はできるだけ近づいてみたの――で、その時限界まで近づいたときの距離が」

 ルカヱルはそこまで言うと、セタの傍から二歩ぶん、離れた。

「これくらい。いまのセタの位置が、ガトシロアの位置ね」

「結構近づいたんですね? 前に立つな、っていう伝承があるのに」

「ところが触ろうとしたら、手が動かなくてさ。いやー、マナでも凍ることがあるんだね」

といって、ルカヱルは笑う。

 セタは笑えない。

「もう一度聞きますけど、大丈夫なんですかね……?」

「つまり、どれだけ近づいたらヤバいか、私はよく分かってるの。限界まで近づいていく過程で、肌の上に氷が張って来たのが分かった。その距離より離れてれば、ガトシロア自身はかなり大人しいし問題ないよ」

 もちろん、セタだってそんな肌が凍るほど近くまで悠々と歩み寄るはずもない。

「それにさっき言ったように、私の魔法で守る。水の中に潜ったときと同じ魔法を使って、冷たい空気が体に触れないようにするから」

「なるほど、分かりました。頼りにしてます」

「え!? う、うん! 任せて!」

 随分嬉しそうにルカヱルは胸を叩いた。頼りにしている旨を伝えるだけでこれほど張り切るのなら今後はもっと伝えよう、と悪いことを考えるセタだった。

「ちなみに、当時はなんで氷原に? なにかあるんですか?」

「いや、別に何もないよ。ただ……氷原ってマナが大人しくて、視界が割とクリアで綺麗なのです。だから、たまに散歩してたの」

「マナが大人しい……?」

 いまいち意味が分からないセタに、ルカヱルは少したとえ話を考えた。

「水を熱したら、湯気が出るじゃない? 逆に冷えると湯気が出ない。それに近いかな――マナも冷えると、そういう揺らぎが小さくなってくるみたいなの」

「へえ……まあ、なんとなく分かりました」

 セタは物理には詳しくないが、湯気の揺らぎが冷えれば無くなるのは知っている。それと似ている、と言われればある程度イメージできる。

「要するに氷原を散歩してたのは、ルカヱル様が海を好きなのと似たような理由ですか? たしか海の中も、マナの影響が少ないって言ってましたよね」

「そう、そういうこと。だから、ちょっと楽しみなんだよね。氷原に、セタと行くの」

「そうですか」

 今の“楽しみなんだよね”が、「氷原に行く」と「セタと」のどっちに掛かっていたのか――というテーマを考えるのは止めておくことにして、セタは頷いた。

「出発は明日の朝。あ、上着は私が沢山持ってるから、貸してあげるよ。セタは地図だけ持って来て」



 さて、日の出の直後。空は橙色と藍色に別れ、夕方と見分けがつかない時刻だった。

 洞窟のなかで休んでいたアルマは光に照らされると目を覚まし、速やかに体を起こした。それを見たミィココは、少し驚いた様子で「お?」と声を零した。

「あ、おはようございます。ミィココ先生。寝ましたか?」

「いや。儂は別に、敢えて眠る必要はない」

 そんな風に答えた彼女の手には、鋭い刃のようなものが握られていた。真っ白で、硬質な素材に見える。

「えー、なんですかそれ? きれいですね、剣ですか?」

「シィユマという竜の角じゃ。暇つぶしに磨いておっただけじゃが、これが面白い。この角は塩で出来ておるのじゃが、通常の塩の結晶では考えられないほど硬質で、さらに透明度も~――いや、こんなことを話している場合ではないの。さっさと出発しなければ」

「ええ、出発しましょう」

 今の今まで枕代わりにしていたバックパックを背負うと、アルマは言う。

 ミィココも筒を取り出すと、角を収納する。容器は収納物の長さに見合っていないはずだったが、吸い込まれるように収まった。その筒を、ベルトのホルダーに差し込むと、ミィココも立ち上がる。

「しかしお主、深く眠っていたのに夜明けと同時にぴったり起きるとはな。妙な奴じゃ」

「ちょっとした癖で。方向感覚が効かないときも、夜明けとともに起きて太陽を見ておけば方角が分かりますから。幸い、今日は晴れてます――少し肌寒いですが、夜のうちに雨が降ってくれたおかげですかね」

「そうらしい」

 洞窟を出る。もともと入口近くで休んでいただけなので、光が差し込んで明るく、数歩進むだけでそこは外である。

 そこは高所だった。水が落ちる音が絶え間なく響いており、大きな滝があった。雨の影響で増水しているらしく、迫力満点である。高原を進んできた二人は、かなり高いところまで辿り着いていた。

「――グランディン。“通雹とおりひょう”の伝承で知られる竜ですが、空を飛んでます。これくらい晴れた日の方が見つけやすい。ですよね、先生?」

「そうじゃろうな。だが、お主はグランディン実物を見たことはないんじゃったな」

「ええ、それが難しくて――グランディンは、ほぼ常に暗雲を纏ってるみたいです。通り雨ならぬ“通り雹”とは、読んで字のごとくですが、前兆に乏しい急激な天気の変化によって、雹が降り出すこと」

 アルマは目を瞑り、滔々と話す。どこか狂言回しのような口調で、大勢の聴衆に向かって話しているようだった。もしかすると、博物館でこんな風な説明をしてみせるのは茶飯事なのかもしれない。

「私が見たことがあるのは竜ではなく、その雹でした。あのサイズは拳大こぶしだい――それが、最小サイズでした。それより大きな氷塊が、雨あられのように降り注ぎました」

「よく無事だったのう」

「一瞬肌寒い風が吹いたかと思えば、それからは忽ちで。バックパックを帽子代わりに、急いで逃げましたよ。ちょうど、こんなふうな洞窟にね」

「やはり前兆は雲じゃな……空か」ミィココは、空を見上げて呟いた。

「ミィココ先生は、どのように観察するおつもりでしたか?」と、アルマは尋ねる。「ご賢察の通り、グランディンは飛竜です。雲を纏う上、そもそも高空にいるので、まともに視認することが難しいですが」

「それでも、空を飛び続けるわけではないはずじゃ」ミィココは鼻を鳴らす。「メガラニカのどこかで、常に雹が降るわけではない。飛竜には習性がある。周期性がある」

 頭に浮かべていたのは、ルカヱルから聞いた飛竜フォルヴェントの話である。件の竜は雷雲の中で食餌を行い、それが終わると飛び去るという。その習性に関して言えば、そこらの鳥と実質的に同じようなものだ。

「グランディンも無暗に飛ぶのではない。雹を降らすのも、何かの意味があるのじゃろう。意味があるということは、用が済めば飛ぶ必要も無くなるはずじゃ。ゆえに――」

「ゆえに?」

「儂らが探すのは、グランディンそのものではない。奴のじゃ」

 アルマは驚いたように、眉を上げた。

「巣……」

 アルマは、薄ら笑いを浮かべた。「つまり竜の縄張りに自ら入ると? 先生、正気ですか?」

「はっ……。正気も何も、そもそも儂にとっては只の暇潰しじゃ。酔狂でなければのう。しかし、お主にとってはどうじゃ? アルマよ」

 魔女に問われ、彼女は気の抜けた笑い混じりに答えた。

「冒険ですかね。だから……酔狂でないと面白くありません。へへ」

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