第59話

 *


 お茶を飲み終えて、午後の冷えた空気を感じて来たころ、セタはふと思いついた。

「ディエソさん、碧翠審院が管理する博物館があるって言ってましたよね。絵描きのアルマさんが所属してるっていう」

「言ってたね。行って見る?」

 ルカヱルの方から先に提案してきたため、セタはただ頷いた。それを合図に二人は席を立つ。

「博物館だったら、碧翠審院んとこの通りを北に進めばありますよー」と、席の脇を通りかかった店主が告げた。

「ありがとう。セタ、行こ」

 碧翠審院そのものはルカヱルも知っているスポットだったが、その管理下にある博物館は知らなかった。建設が始まるまえに、彼女は既に大陸を離れていたからだ。セタも博物館に行ったことはない――思い返せば、ジパングでも博物館に行ったことはない。

「そもそも博物館って何なんですかね。碧翠審院の隣にあった資料館みたいなものですか?」

とセタ。彼はジパングに住んでいた時、そういう施設に行ったことが無かった。

 ルカヱルは「多分ね。“物”って言うくらいだし、単に文書だけ飾ってるわけじゃないんじゃない?」と首を傾げる。

 結局二人とも、博物館に行ったことはないというわけだった。まだ世界的に普及した概念ではなかったため、縁が無かったのである。

 歩いて十数分――店主から聞いた道を進み、「それらしい」建物の前で二人は足を止める。本日入館料無料と、入口で表示されているのを見ると、二人は静かな館内に足を運ぶ。

「おお……。確かに、博物館っていうだけありますね」

 足音すら憚られるような静かな空気の中で、セタは感動を呟いた。真四角のガラスのショーケースの中に、様々な物品が丁寧に配置され、ひとつひとつ表示もなされている。

 ルカヱルは腰を屈めて、ガラスに収められた品々を興味深そうに見ていく。

「なんだか、やってることは図鑑に似てるね。絵じゃなくて、実物を飾ってるところが全然違うけど」

「ええ。とんでもない労力を感じますね。まず第一に、実物を収集してこないといけないし」

「あ、見て」と、ルカヱルは表示の一部を指さす。それは物品に関する説明ではなく、脚注だった。

 そこにミィココの名前が挙がっていたのである。「あの人、この博物館ってのに協力してたのですね」

「でも適任ですよね。そもそも碧翠審院自体、ミィココ様が創始者ですし……」

 しかし創始者がずっと生きたまま、何百年も運営に関与しているというのも凄い話だ、とセタは思った。セタが所属するエダの大役所の創始者は既にいない。

(ミィココ様自体が生ける伝説って感じだな、もはや)

 館内を進んでいくと、綺麗な鉱石を始め、動植物に関する展示品や記述もあるようだった。基本的に取り扱っているのはメガラニカの自然生成物であり、いわば自然博物館らしい。

 その時、セタはある物にふと目に留めた。それは実物ではなく、壁紙に直接描かれた絵だった。風景画である。魔女のミィココに対して気遣いがあったのか、マナに乏しい木炭でスケッチされているらしい。色は白黒だけだが、陰影と線の強さ、ぼかしなど、可能な手段を駆使することで、自然の色どりが感じさせる出来だった。

(上手い……。それにしても大きな絵だ。これ、描くの相当大変だったろうな)

 かつて城壁の荒れた壁面にチョークを削りながら風景画を描いてみた時のことを思い出す。速筆のセタをしても、さすがに壁いっぱいに描くのは(背丈的に)難しく、途中まで精巧な書き欠けの作品だったり、縮小して描いたり、そんなことをしていた。

 壁紙サイズの作品の四隅を観察するように見渡すと、作者の名が目に入った。もはや表示札が床に漸近するほど端のほうに控えめに提示されていた。

 そこに“アルマ”の名があったのである。

「えっ? これ、例のアルマさんの作品だったのか」

 壁紙の作品を眺めながら、回廊を進む――壁紙の絵は森、山、砂漠、海……と、徐々に移り変わるジオラマのように描かれている。

 この一連の大作は、「画風」が一貫しており、すべてアルマが描いたもののようだ。息を呑むほどの出来にセタは息を呑んだ。鑑賞しつつ、観察しつつ、その絵を記憶に刻んでいく。

「例のミィココのタッグね」ルカヱルが隣に並んで言う。集中していたセタは少し驚き、肩を揺らした。

「魔女の助手として候補に挙がったんだから、ただの絵描きじゃないんだろうけど。ふふっ、どんな人だろうね」

「メガラニカを出る前に、一度くらい挨拶をしておきたかったですが。次の竜について観察したら、いったんメガラニカを出てしまいますもんね」

「ミィココもやる気満々だから、あとは任せよう。イマジオンの件は上手く行かなかったし、次の伝承――“ガトシロア”は、きっちり見つけないとね」

 そう言って、ルカヱルは足を止めた。様々なバイオームを映し出した回廊の風景画の最後は、真っ白な雪原を描いていた。





「“グランディン”のこと、どれくらい知っておる」

 アルマとミィココは、碧翠審院があるラジの地から遠く離れ、南下の最中だった。山脈へと近づいている。

 しかし、あいにく通り雨が始まってしまったのである。そこでアルマがわずか一時間ぶりの休憩を提案し、洞窟の入口の傍で雨宿りをしているところだった。

 ミィココの唐突な質問に、「んー……」と声を漏らして一秒。

「実は以前、遭遇したことがあるんですよね。あっ――とはいえ竜は空を飛んでいたので、あまり見えませんでしたが。目を瞑ると思い出されるんです。冷たい朝の空気の中で、空が暗い雲に覆われた時のこと――」

 そう言って、アルマは目を瞑る。数秒すると、呼吸のリズムが変わった。

「……すぅ……んぅ……」

「寝るな」

「ん……。へへ、すみません。雨の音聞いてると、眠くなるんですよね。なりませんか?」

「風でも雨でも眠くなるんじゃな。難儀な奴よの」

 ミィココは肩を竦めた。かつて一時期行動を共にしていた相手だったため、“すぐ寝る”というのは知っていたが、久々に会うと呆れてしまうほどだ。人の形をした猫ではないか、と思っていた。

 しかし、ミィココはよく分かっていた。アルマの生態――どこでもすぐ眠るという行動が、ある種のタフネスと判断力の表れだということを。

 眠れるほど安全か速やかに判断し、眠れる時に眠る。

 冒険家としての能力の一端ともいえる。雨の中で無理に歩みを続ければ服と靴は濡れて歩きにくく、体温も奪われる。雨に打たれることは直ちに避けるべきであり、避けた後は無駄に動かずに、眠って過ごす。

 ――という合理的な判断をしたのかどうか定かではないが、アルマはまた、スヤスヤと眠っていた。

(豪胆じゃな本当に)

 ミィココは雨が止むまで、起こすのは諦め、洞窟の外を見遣った。

 今回の旅はただ単に大陸を渡る旅ではなく、竜と対峙することが前提となっている。それを踏まえて尚、緊張感も何もかも抑えて野外で寝息を立てられるのであれば、それはそれで一種の才能らしい。

(手始めに“グランディン”――空を飛ぶ竜を追うことにしたが、こやつと一緒に観察可能なのか、否か……)

 ジパングにおいて伝承される飛竜“フォルヴェント”の観察記録を見たミィココには、ひとつ懸念点を抱えていた。すなわち、「空を飛ぶ竜をどのように観察するか」である。ルカヱルは空飛ぶ箒の魔法を使えるが、ミィココは使えない。海を渡るときも、海底を歩いて進むほどだ。

 とはいえ、彼女一人であれば、無理やり飛べなくはない。滞空時間は限られるが、飛ぶというよりことによって、魔法で空を歩くことや、一時的に滞空も可能だ。ブーツを履いた状態で、マナと空気を弾き合わせることによって――

 しかし不安定な方法であり、落ちる危険性もある。ミィココ一人なら、どれだけ高いところから落ちても命の危険はないのだが、今は人間が一緒だった。

「こやつと一緒にとしたら、着地に気を遣えば何かなるかのう……?」

「んん……むにゃ……」

「はっ。気の抜けた奴め、全く」

 ミィココはもはや、笑ってしまった。まもなく陽が沈む。そうしたらこの冒険家は、また眠りに就くのだろう。ミィココは半分降参したような気持で、腰を下ろした。

「人間のくせに魔女より気が長いとはのう。やれやれじゃな」

 かれこれ3,4日もこんな調子なので、魔女もいい加減慣れてしまった。目的地に辿り着くのは明日になるだろう、と思っていた。

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