第54話
視界のなかで絵の具をぶちまけたような色彩が粘菌のように動き、ルカヱルは竜の「何か」にぶつかり、吹き飛ばされた。壁に衝突して岩に亀裂が入るまで、止まらないほどの勢いだった。
「ぅ痛ったぁあ!!」
(今の何!? 爪? それとも角……?!)
腕に痺れるような感覚がした。普通の人間であれば胴体ごと千切れているところだが、既に回復が始まり、傷口は閉じていた。
環境を取り巻くマナの気配が濃すぎるあまり、竜の姿はまともに予想できない。それでも、自分を攻撃してくる竜のマナと、鉱石のマナの違いは掴めてきた。
「こんな環境で、こんな好戦的な竜と出くわしちゃうなんてね。ああ、どうしようかなぁ」
ルカヱルは岩陰に身を滑り込ませ、呼吸を整える。そして、自身の体から放出されるマナを極限まで抑え、箒も袖の中に仕舞った。
(竜は餌となるマナが欲しいだけ。隠れて静かに身を潜めてれば、どこかに行ってくれないかな――)
ほんの少しだけ陰から顔を出し、竜の様子を窺う。
その時だった。竜が体を回転させて渦まき、周囲の岩を削り取ったのである。空気が震え、ルカヱルが身を潜めていた岩は忽ち木っ端微塵に砕け、彼女は吹き飛ばされてしまった。
「……!?」
ルカヱルは、とっさに腕を交差して防御していた――しかし、その腕が深い傷を負っていたのである。目の粗いやすりで削り取られたような深い擦過傷。単に竜の体がぶつかっただけなら、こうはならない。いま目の前にいる竜の体表面は、刃のような鱗に覆われているようだった。
「なにこの竜?! 全身凶器……!?」
回復過程で体からマナが漏洩していく。ただしルカヱルは、竜がとった今の回転行動を観察した結果、それに伴うマナの動きも捉えていた。おかげで、洞窟の中という悪条件でありながら、竜の形状を把握できつつあった。
それ故に、分かったことがある――竜がはっきりと、こちらを見ているということが。
(だめだ。マナが漏洩したせいで完全に補足された。身を隠してやり過ごすのは、もう無理そうかな)
竜が上体を起こし、這いずり、ゆっくりとルカヱルへと迫り、口を開く。裂けた上顎は既に繋がっていた。
「……?」
その時、ルカヱルは目を細め、その口の中を観察したのである。
焦点は、見覚えのあるマナへと向いていた――セタと見つけた光る鉱石と同じマナが、竜の口の中に見える。
しかも、夥しい数が。
「あの鉱石! もしかして、この竜の牙だったの?!」
そこでルカヱルは、様々なことを察した。つまり眼前の竜にとって、この洞窟は餌場らしい。岩壁を齧ってマナを補給すると、岩場に牙が刺さったまま残る。そうして削られて形成されたのが、あの大きな空洞だったのだ。そしてサメのように、この竜の牙は何度でも生え変わる――岩壁を削って劣化したら、自動で抜けるらしい。
マナそのものが結晶化したような不思議な鉱石だと思っていたが、抜け落ちたこの竜の牙だったのだ。
ルカヱルは改めてこの場を観察する。竜に引きずられている間は気付かなかったが、落ち着いてみてみれば、そこかしこに牙のマナが散らばって、各々が共振していた。
(この牙、抜け落ちた後もこの竜のマナと共振するんだ。岩が簡単に砕けたのも、埋め込んだ牙を共振させたからって感じね)
類を見ないほど、マナそのものを効果的に扱う竜だった。もはやその練度は、魔女の魔法に近い。
(この竜は強い、生態系の上位者だ。鉱石が主食みたいだけど、きっとそこらの竜なら簡単に仕留められる。でも私は……生きて帰らないと)
腹を決めたルカヱルは深く息を吐く。視界を満たすマナを見極め、竜の輪郭を捉えようとしていた。
(今、この竜に背中を見せて素直に逃げても追跡される……。そのまま井戸のところに戻っても、町に被害が出るかもしれない。目くらましがいる。タイミングは一瞬。その一瞬で、この竜をあの井戸と逆方向に追い払う――)
ルカヱルは、洞窟の中を一度観察した。マナの影響で視界の歪みはあるが、それでも環境の強みを活かすために。
「……“変身”」
ルカヱルが一言呟くと、ミィココから譲ってもらった“鎧”が姿を現し、彼女の体を覆った。ラアヴァの炎によって半壊した魔法の衣装は今なお焦げ付いて、破れた紙片のように乱雑なケープの縁は火に炙られたようにうっすらと黄色く輝き、洞窟を照らした。
竜は、急激に強いマナの気配を纏ったルカヱルを見て、さらに臨戦態勢に入る。相手は完全に“狩り”のつもりになっていた――魔女がそれを出し抜こうとしているとは、思うこともなく。
ルカヱルは袖の下をまさぐって何かを取り出すと手を強く握り、渾身のマナをその手中に込める。
しかし即座に竜は口を開き、文字通りに牙を光らせ、共振させ、彼女に迫った。
その瞬間――
口を開くことによって、竜の視界が狭くなった
竜の巨体が一瞬よろめく。
しかし、わずか1秒の間に態勢を立て直し、粛々と食事を続けようと竜は再びルカヱルに向きなおった。
ところが見えたものは、ちょうど魔女の後姿が洞窟の奥へ走って消えるところだったのである。竜はそれを追い、すぐさま洞窟の奥へと這いずっていく。
*
――その竜の後ろ姿を、ルカヱルは反対側の洞窟の穴の陰に身を潜めて、見送っていた。這いずる音が聞こえなくなるまで、マナの気配を殺して、息も殺して。
「……………はあぁ~~、さすがに行ったかな?」
どっと息を吐き、ルカヱルはへたり込むように腰を下ろした。
竜が姿勢を崩し、視界からルカヱルが外れた一瞬。
ルカヱルは、ケープ以外の“鎧”をすぐさま解除した。
そしてケープに付いていた金属製のボタンにマナを引っ掛け、ケープごと洞窟の奥へ勢いよく弾き飛ばしたのである。ボタンに引っ掛けたルカヱルのマナは、洞窟の上下左右を覆う鉱石のマナとの反作用で、ケープは浮いたまま洞窟の奥へ一人でに飛んでいく。かたやルカヱル自身は、それと反対側の岩の陰に身を潜める。
そして竜は、ルカヱルのマナを纏ったケープが逃げていくのを見つけると、まんまとその疑似餌に釣られて、追いかけていったのだった。
「……ケープ無くしたのバレたら、ミィココに叱られるかな?」
そんなことを呟いてから、しばらく思考が停止したようにルカヱルは呆けていた。やがて立ち上がると、井戸のあった場所を目指して歩き出した――が。
「やっば……道、よく分かんないかも」
ただでさえ方向音痴なうえ、マナで視界が滅茶苦茶だった。さらに竜に噛みつかれて引き摺られ、場所の分からないところまで運ばれて来てしまった。
ルカヱルは天井を見上げる。無理やり洞窟を破壊して脱出するという手段も無くはない――ただ、この洞窟が十分浅い場所にある場合に限る。砂漠ならまだしも、何百メートルも硬い岩盤を貫いて地上に出るような破壊的な魔法はルカヱルには使えない。それに、もし仮に破壊を試してダメだった場合、ルカヱルは大量のマナをロスしてしまうことになる。
そうなれば“詰み”だ。ルカヱルは少し心細くなっていた。
ここに一生迷うことになったらどうしよう、などと考え始めていた。洞窟では最初の道選びが肝心となる。一度間違えば、あの井戸の場所にはもう戻れない――首を振り、ごく短い歩幅でヨタヨタ歩いて行く。一度は手が掛かった井戸の場所へ、なんとかたどり着くように。
「……セタぁ……」
つい、ルカヱルは零した。
「――――」
「……え?」
どこかから人の声が聞こえた気がして、ルカヱルは顔を上げた。ついに幻聴でも聞いたのだろうか、と思っていた。
「――さま、ルカエル様ーー!! 聞こえませんかぁ!! いませんかぁ!!」
「……!! は、セタぁーー!!」
「ルカヱル様!?」
自分の声にセタの声が応えている。幻聴じゃないと分かったルカヱルは、声の聞こえる方へ向かう。役に立たない視界ではなく、声を頼りにして。
「セター!! どこー!!」
「ルカヱル様!」
「セタ!?」
彼の声は頭上から聞こえた。同時に、視界が少し明るくなる――顔を上げれば、セタが崖状の地形の上からランタンで一帯を照らしていた。ルカヱルは彼の顔を見て一瞬言葉を失い、そしてどっと息を吐いて、再びその場でへたり込んだ。
「えっ、ルカヱル様?! 大丈夫ですか? どこかに怪我でも?」
セタは崖を器用に伝い、彼女と同じ高さに降り立つ。駆け寄って来た彼に手を振り、ルカヱルは、ようやく笑うことができた。
「いや、大丈夫です。大丈夫になった」
「なった? そうですか。半笑いで涙目ですけど……。いったい何があったんですか?」
「また、後で話すよ。それよりありがとう。私一人じゃ、すぐに帰って来れないって分かってたんだね」
「ええ、まあ……。ついさっき一緒に歩いてた時も、酷い歩調でしたから」
「ふっ、あはは。だね」少し不躾な言い方に、ついルカヱルは笑う。そしてセタの手をとり、彼女は立ち上がった。
「戻ろう。話したいことが沢山」
「……ええ」
頷いたセタは、ルカヱルの手を引いてゆっくりと帰路を辿り始めた。
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