ラアヴァ

第37話

 快復しきっていないセタは、またベッド(実験台)で一晩を過ごした。体を動かそうにも、関節という関節が接着剤で固定されてるように硬く感じ、思うようにいかなかった。これまで患った全ての病を差し置いて、ダントツで酷い症状だった。

 そして次の朝にセタが目覚めた時、症状がようやく軽くなって、ベッドから床に足を下ろす気が湧いたのだ。

「はあ、なんとか歩けそうです」

と言って、セタは肩を回す。正直、一番痛いのは肩だったが、ルカヱルの前では言わないようにしようと思った。箒から落ちるセタの手を彼女が無理矢理でも引いていなければ、死んでいたことだろう。

 一方、ルカヱルはセタが眠りについてから、一時外出していたらしい。

「昨日の晩、これを採ってきて、実は“テスト”をしたんだ」

と言って、彼女は二重に加工された試験官を取り出す。

 ――そのガラス管の向こうで、火に蝕まれる銀色の灰が収められて、不規則に振動している。セタはぎょっとして、身を退いた。

「ルカヱル様、それはまさか……?」

「ハーグリャの鱗粉です。昨日の夜にテスト済みで、もう無毒化できてるけどね」

「テスト? 無毒化って……つまり、もう毒はないんですか」

「火で焼いて確認したの。ハーグリャの鱗粉に残ったマナは、高温の炎で焼けば毒が破壊されて、マナが蒸発するみたい。ラアヴァの炎で一瞬でもあたれば、完全に毒は破壊できると思う」

 ルカヱルは唇に指をあてる。「ラアヴァの“紅蓮”の伝承に伝わる炎の柱は、空に立ち上るように放たれるにも拘わらず、近辺範囲を焦土と化すほどの熱なのです。もし上手くハーグリャに当てることができれば、一気に破壊できるかも」


 いわく――

 死した火山の中に、その“紅蓮”色は潜む。予兆もなく、もし炎の柱が火口から現れたとすれば、ラアヴァの縄張りに踏み入り、憤怒に触れた者がいた、ということだろう。ひそかに眠りに就くその竜の赤熱した鱗は、ラアヴァがメガラニカに移動し、砂漠を生み出した何百年と前から、ずっと語り継がれている。

 灰すらも刹那で蒸気と化し、一切の雲を消し去るほどの熱と射程を持った炎は、炎というより、むしろ純粋な光の柱のように立ち上る。やがて怒りの対象が失せれば、ラアヴァはまた眠ってくれる。

 そうして穏やかに眠ってくれていることに感謝して、山とラアヴァを恐れ、決して近寄るなと、言い伝えられているのだ。


「――でもラアヴァに近付くかどうかは、ミィココにも相談しないとね。火山周囲にすでに人家はないはずだけど、周囲の環境に詳しい彼女が必要です。ラアヴァに近付くこと自体が、限りなく危険で……」

 ルカヱルはそこまで言って、表情を固めて、今度はセタを見つめた。「あう、そっか、セタに絵を描いてもらう必要もある……。ハーグリャを観察するにしても、少なくとも無毒化してからじゃないとだめだし……」

「いえ、ハーグリャを改めて観察する必要はないです。俺は前の時の観察で、ざっと全身を見ることができたので」

 セタは記憶を呼び覚ます。病床に臥せていた間も、メモリーは消えることなく脳裏に焼き付いていた。手を何度か握っては開き、息をつく。

「痺れはかなり取れて来たので、絵くらいは描けると思いますが……。絵、要りますか?」

「うん、できれば」とルカヱルは頷く。「ラアヴァの力を借りるために、ミィココの協力も要りそうなのです。成功確率を上げるために、彼女にも今のハーグリャの情報をできるだけ共有したい」

「はあ、それも急ぎで、ですよね」

 時間を掛ければ掛けるほど、メガラニカ全土にあの鱗粉が降り注ぐリスクが増す。セタは実験台のうえの布団を脇に避けて、スケッチブックと筆を取り出した。

「今から取り掛かります。俺だって、いつまでもここで足止めを喰らうのは避けたいんで」

「ありがとう。その……ごめんなさい」

「えっ?」

 普段の魔女からは想像できないレベルに弱弱しい口調だったため、セタはむしろ驚いた。

 振り向いてルカヱルを見ると、ぐずぐずと泣いていた。

(え、泣いてる……?)

「な、泣いてる!?」と、思ったことがつい口に出てしまうセタ。

「うう、だって、くぅ……。本当だったら私がセタのことを守らないといけなかったのに」

「い、いえ、そう気を落とさずに! たまにはこういうことも有り得ますって、ね?!」

 なぜか慌ててフォローに入るセタ。魔女相手のはずが、幼子を相手にしているような気分だった。

「だめ、わああぁ、止まんないー」

「うわあ、決壊したように泣いてる。ルカヱル様、意外とメンタル弱いですね……」

「ごめん、わたし涙出たらしばらく止まんなくて、ひっぐ。魔女だから……」

(“魔女だから”?)セタは首を傾げた。

 ルカヱルの性格が云々というより、この号泣は魔女の生態が影響しているらしい。あるいは単に方便か……とセタは勘繰る。なんにせよルカヱルの号泣を止めたいセタだったが、子供も碌にあやしたことのない彼が、魔女のご機嫌どりは難しい。

「お、落ち着いてください。ほら、俺は別になんにも問題ないですよ」大袈裟に肩を上げて見せようとしたが、肩を上げるのだけは本当に無理だった。

「うん、ほんとごめん、ぐすっ」

「いや、あの……ホントにいま聞くのは悪いんですけど……どうして涙が止まらないんですか? 魔女だから、というのは?」

 疑問に答えてくれるか心配だったが、セタは尋ねる。ルカヱルは“すんっ”と鼻をすすって、首を傾げた。

「前に言ったっけ? 言ってないかも……」

 ルカヱルは少し落ち着いた様子で話す。涙はとめどなく流れているので、かえって異様だ。むしろその異様さが、確かに魔女の特殊性を感じさせた。

「蓄積された時間が、私たち魔女のマナになる。時間っていうより、経験が私たちの食餌に代わるんだよね。簡単に言えば、魔女は何かをしてないとするの。人間で言う、餓死みたいに」

「暇死に? 何かの比喩ですか……?」

 ルカヱルは首を横に振った。「そうだ、言ってなかったです、私。魔女の一番多い死因のこと。セタも何となく知ってると思うけど、魔女は簡単には死なない」

 例えば、ルカヱルはフォルヴェントの電撃を浴びても平気だった。

 ミィココはシィユマと対峙しても無傷だった。

 それに二人とも、ハーグリャの毒を気にも留めていない。魔女が人間よりも遥かに頑丈だというのは、明らかだ。

「でも、死ぬことはある。例えば、莫大なマナを浴びて体を一撃で破壊されたとき。……ほぼあり得ないけどね。むしろ、それよりずっと多い死因は」

「まさかそれが、“暇死に”?」

 ルカヱルは頷いた。「莫大なマナを浴びて器が破壊されたら死ぬ。でも、経験が褪せてマナが尽きてもする。だから、魔女の体はマナがあふれることも、枯渇することも反射的に避けようとする。もし、をして急にマナがあふれると――」

 まだ止まらない涙をぬぐいながら、ルカヱルは言葉を一度区切った。顔を上げた時、少し赤くなっていた。「えと、こうやって、涙が出ちゃって」


 要するに魔女は、人間で言う“感動”の大きさに連動して、マナが生み出される。

 しかし、キャパシティを超過してマナが生まれることに対する魔女特有の拒絶反応も存在する。その拒絶反応こそが、涙らしい。

「――魔女って、思ったよりも難儀ですね」

 セタは肩を竦める。内心、ルカヱルの涙が落ち着きつつあり、ほっとしていた。

「ふふっ、ううん。そうでもないよ。私はこうして、長く生きてこれたし。世界って、結構面白かった。だからね、これからも面白くあってほしい」

「ははっ……それは中々荷が重そうですね。ルカヱル様の期待に応え続けるのは」

 ルカヱルは笑顔を浮かべ、セタもため息混じりに笑った。

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