第36話
◆
どうやら今見えているものは夢らしい、とセタが気付いたのは、忘れもしない
鮮明な記憶に映る視界は歪んでいる。滲んでいる。子供ながらに感じた根源的な恐怖を前に、あふれ出した涙のせいだったはずだ。
涙を拭くと、目の前には、ひしゃげて倒壊した何かがある。
セタの正確な記憶によれば、それは前に住んでいた家だ。
自分と父親のアカギと、そして■■■が、一緒に住んでいた家だ。それが壊れて只の瓦礫の集まりになっている。アカギが倒壊した瓦礫を、必死に動かしている。“■■■”と、瓦礫の向こうに何度も呼びかけながら。
■■■!! ■■■、どこだ■■■――!!
母さん……
どこ?
◆
「―――うはあぁっ!?……」
セタは飛び起きた。
「うわあああ良かったぁあああ! 目を覚ましてぇ!!」
ルカヱルが飛びついた。
「ぐえあっ……!!」
「ルカヱルよ、こういう時はのう、もう少し患者を安静にしておいてやるべきでな、普通」
呆れたように息をついたのはミィココだった。ルカヱルのシャツの襟をつかんで、セタから引き離す。
「ここは……?」
セタは部屋を見渡す。物が積み上がった部屋の一角に、ルカヱルが持参した布団が敷かれていて、その上に寝ていたようだ。
「ミィココの家だよ。――どっちかって言えば、実験室だけどね」
「実験室?」
セタは自分のいる場所を改めてみる。実験台だった。ごく率直に言って、あまり居心地のよい環境ではない。
「さてお主、災難だったのう。何かの毒にやられたようじゃな。実に凶悪な毒に」とミィココが言う。
「ど、毒……? ぅぁっ」
セタは咳と共に再びえづく。呼吸がかなり浅い感覚で、目も乾いていて、しぱしぱする。気分が最低に悪く、頭もぼうっとしている。関節痛もあり、特に首と肩が痛い。
「うぅ、酷い関節痛だ……。特に肩なんて、まるで一回抜けたみたいに痛くて重い」
「お主の肩が痛いのは、おそらくじゃが、箒から落ちかけたお主をルカヱルが慌てて引っ張り上げたからじゃないかの?」
「み、ミィココ! しー!」
「もう治したんだし、良いじゃろうが。いやあ、しかし驚いたのう。別れて三日もしないうちに、ルカヱルが真っ青な顔して泣きっ面で、ぼろ雑巾みたいなお主を抱えて来た時は。少しは落ち着けというのに」
「ミィココぉ!!」
「はっは。さてと」ミィココの声色が切り替わる。「セタ、何があったか思い出せるか?」
「……たしか、集落のある森で……」
それから、集落と森であった出来事を話す。
人っ子一人いない集落、古びたハーグリャの巣と、高速で空を飛ぶ蛾のような巨大な竜――ミィココはその話を、口をへの字にして聞いていた。
「……ていう感じで、それからは記憶が……」
「うん、そこで気を失ったんだよ。でも、ちゃんと全部覚えてそう」
「儂の目で見るまで信じられんが、そんなことがあるとはのう。ハーグリャなんぞ、つまらん竜が……羽化とはな」
ミィココは、顎に手を当てて唸る。「しかし、お主の状態はハーグリャの毒とかなり症状が違うのう。解毒剤も相当強くせんと効かんかったし……そもそも、その飛竜がハーグリャだったとして、針は生えて無かったわけじゃろう? ならば毒はどこから貰ったんじゃよ」
セタは記憶を探る。こんなに頭痛が酷い時でも、記憶は鮮明で、すぐに当時のことが再生する。
飛行する影、木陰、箒。風。落ち葉、咆哮、陽光、そして、灰。
翠の灰。
セタは、はっと顔を上げてルカヱルを見た。
「ルカヱル様……。灰を見ました、翠色の灰」
「翠の灰?」「翠じゃと?」
魔女二人が同時に目を丸くした。
「珍妙じゃのう。じゃが、かなり怪しい。ルカヱル、マナで察知できなかったか?」
「う、それが……あの竜のマナが大きすぎて、正直視界が潰れそうなくらいでさ、あはは……」
「まったくこやつは……まあ良い。灰とは違うが、似たようなものなら、儂は知っておるぞ――“鱗粉”じゃ」
「鱗粉……?」
「蛾のような姿だったのじゃろう? その体や羽に鱗粉というものがあっての、それにも毒があるんじゃ」
「じゃあ、ハーグリャにも毒の鱗粉が?」
「これはただの類推じゃ。ましてハーグリャは、現地民から毛虫に例えられることがあったからの。しかし釈然とせん、やつが生来持っていたのは針の毒のはずじゃが……」
ミィココは唸り、ルカヱルはぽんと手を叩いた。
「毛が鱗に変わったとか? 飛行中に鱗がまるで灰みたいに舞い散る……セタはそれを吸い込んだんだ、きっと」
「確かに蛾の鱗粉は、幼虫のころの毒毛が材料じゃ。生態を類推すると、あり得るかもしれんが……」
「毒の性質が変わったのも、もしかすると幼虫のころに避けていた光を浴びたからかも。きっと、強い光で変質するんだよ」
「確かに、まれにそういう毒もある……。しかし、儂とルカヱルをして解毒薬の調合に2日もかかるほどとはな」
「たった2日で作ったんですか? ――え、2日?」セタは目を丸くした。「逆に俺、丸2日も気を失ってたんですか……?」
「そうじゃぞ」
「本当に心配したよ。あ、待って――じゃあ、あの集落で人が避難したのも、灰のせいなの……?」
「はあ、やれやれ。儂が動いた方がよさそうじゃ。例の集落は森にあるやつじゃな? 避難先は交流のあった街かのう……ちょいと行ってくる。世間が死屍累々のなかでフィールドワークも、寝覚めが悪いからのう」
「あ、私は……ここにいて良い?」
ミィココは、じろりとルカヱルを睨む。
「言うまでもなく当たり前じゃろうが、たわけ。病人を置いていくつもりか? 薬のレシピを伝えに、急ぎ儂は行ってくる。もし役人が来たら、ミィココは明日の夕方には戻るだろうと伝えておいてくれ」
そしてミィココはまた、一人で出ていった――豪風が窓を叩く音がして、セタは驚いて外を見る。
「ミィココ、行ったみたいだね。かなり急ぎで」
「街にも毒でやられた人が……?」
「かもね。まだ少ないと思うけど、一定数いると思います」
セタは自身の症状を鑑みながら、世間の状況を想像した。魔女二人の治療を受けた今でさえ、快復していないほどの毒だ。
「セタ、今は回復に専念しよう。ミィココはメガラニカでも顔が利くから、あの人の提言だったらみんなが動くはず。皆で薬を作れるはず……」
セタはほっと息をつく。
土砂崩れや渦、風雷――様々な災害に匹敵する力を持つ竜を観察してきたが、毒をまき散らす厄災に、この
「これからどうしましょうか……メガラニカを回ろうにも、毒がある状況じゃ」
「うん、うかつに外に出ないほうが良い」
こういうとき、セタはどうするべきか分からなかった。過去にも、未曾有の災害に巻き込まれた経験はあったが、バイオハザードは初めてだった。こんな環境で問題なく動くことが出来るのは魔女だけだろう。
「でも何か策を考えないと……耐性剤を作る? あの手の薬は効果を確認するのが難しいんだよな……原因を直接解決するなら……鱗粉さえ、どうにかなれば……」
ルカヱルは独り言を零しながら、部屋をうろつく。セタは、ぼうっとする頭で彼女の徘徊を見つめていた。ルカヱルがふと足を止めた時、視線の先にあったのは画鋲で適当にとめられた地図らしい。他のメモ書きの下に埋もれてしまっている。
ルカヱルはメモ書きを避けて、地図を見る――ミィココが“どこにやったか忘れた”と言っていた、木炭だけで描かれた地図だろう。森も、山脈も同じ色で描かれており、識別性が悪い。
ただし顔料を用いていないため、魔女にもちゃんと読めるものだ。
「――ラアヴァ」
「え?」
ルカヱルは地図の一部を指さす。
紙面上では輪郭の歪んだ円だが、実際には「火山」の地形を描いたものだ。
「“紅蓮”ラアヴァ……! 山脈の麓にあるハーグリャの森と、生息域が近い。飛行能力を得た今のハーグリャだったら、火口まで誘導できるかも……」
「でも、誘導してどうするんです?」
「ラアヴァにも伝承がある。直接見たことは無い竜だけど、賭けるしかない」
ルカヱルは振り向いて言う。「ラアヴァの作る“柱”で、ハーグリャごと燃やす。竜だから火で死にはしないと思う――でも体に付いた鱗粉は、完全に燃やし尽くせるかもしれない。そうすれば、これ以上メガラニカに毒が撒かれることもなくなるかも」
セタはぎょっとした。
「つまり――竜の縄張り争いをわざと誘発する、と……?」
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