第35話

 そして森の中を進むこと、かれこれ1時間。

「ん……あっ、あれ!」

と、ルカヱルが指を差す先に、大きな影が見えた。

 巨大な球体の真ん中に、ぽっかりと穴が開いている。伝承に伝わる、猫の胴体ほどの太さだ。

「これだこれだー! やあっと見つけたぁー! やれやれ……」

「はあ、苦労しましたね。とりあえず、巣だけでも見つけられて良かったです」

 まじまじ見ても、セタのスケッチの出る幕が無いほどに簡素な造りだ。近くによると甘い香りがする。素材は枯れ草のようだった。

「っと……毒のついた針が残ってたりしたら危ないですね。触らないほうが良いですか?」

「いや、これはかなーり古い巣っぽい。草が枯れてて、私の目で見てもほとんど歪んでないくらい」

「でも、巣がこれ一つしか残ってないなんて……やっぱり、どっか移動しちゃったんですかね?」

 来た道を振り返りながら、セタは言う。ルカヱルの前情報によれば、もっと簡単に見つけられると思っていたが、ここまで歩いてようやく一つである。しかも古い。

 ルカヱルは巣の穴を覗きこんで、唸る。

「……確かに……もしかすると……移動しちゃったのかな……」

 巣の中で彼女の声がこもっている。素材のわりに気密性は高いらしい。ルカヱルは穴から顔を抜く。「内側にもマナの気配はなかったよ」

「ますます“移動”の線が濃いですね。俺たち、ニアミスだったんでしょうか?」

「ま、こんなこともあるよ。それより……ここら辺で何が起こったのか、って言う方が興味があるね。どうして皆、避難したんだろう? ハーグリャがいなくなったんだとしたら、むしろ脅威は無くなったともいえるのに」

「それは……うーん」

 残る謎はそこだった。

 住人が避難する、という判断を下すということは、目で見て分かりやすい災害があったと見るべきところだ。しかしながら、集落に荒れた様子はなく、地震や洪水、暴風の痕跡は無かった。

「目に見える痕跡の残らない脅威……うーん。気になるようでしたら、一度ラジの大役所でディエソさんに聞いてみましょうか? ハーグリャについて、もしかしたら情報があるかも」

 セタがそう提案した時、何かの影が上空をよぎって、木漏れ日を遮った。さらに風が遅れて続き、木々の枝を揺らして、ざあっと音を立てる。

 ――ルカヱルは上空を過ぎ去った影を目で追う。何が通っていったのか、セタには良く見えなかった。木陰のせいだ。

「今のは……」

「セタ、追うよ!」

「えっ? ちょっ――」

 セタの袖をつかみ、そのまま流れるように箒に飛び乗るルカヱル。セタは半ば積み荷のように箒の柄の上に乗り上げていた。ルカヱルの魔法で支えられて箒に乗っているので、落ちることは無かったが、そこから苦労して体勢を立て直す。

「る、ルカヱル様!? 何を……。というか、森の中でこのスピードは……!!」

 脇を木々が絶え間なく次々と通りすぎ、箒の軌跡の後ろで落ち葉が舞い上がる。森を吹き抜ける風になったような気分だ。

「あ、あぶなっ……あの、いったいどうしたんです!?」

「今の影、今、空通った影が、ハーグリャだった! マナで分かる!」

「はっ……?」

 セタは呆気にとられ、振り返る。可愛らしい民芸品のような巣はとうに見えなくなっていた。「いやでも、ハーグリャは毛虫みたいな動きの竜なんじゃ……さっきのはフォルヴェントみたいな速さしてましたけど……?」

はね! 前のハーグリャは本当に毛虫だった、文字通りに。でも、ふふっ、こんな発想、今まで無かった――あの竜はんだ、この数百年かけて!」

「羽化――!?」

 セタは息を呑む。子供の頃から知っている。幼虫が蛹となり、それを破って完全変態を遂げることを。

「じゃあ、さっきのあれは巣じゃなくて、まさか……?」

だね! どちらかといえば!」

 木の枝の隙間を縫って、ルカヱルの箒が一気に上昇し、森の上に飛びだす。開けた視界の先に見えたのは、巨大な影だった。

 ルカヱルは目を丸くして、半笑いだった。

「……これは……凄い」

 魔女が呟くのが聞こえる。セタの目は、影の下腹部と、6本足を捉えていた。虫のような節を持つ体の構造と、緑銀色のウロコに覆われ、光を反射する体。

(陽の光が眩しくて、全体が良く見えない……!)セタは目を細める。

 ルカヱルは加速しつつ高度を徐々に上げ、横に並んだ。流線型の頭部からは、触覚のような長い角が2本なびく。

 翼の先端からは翠色の焦げた破片が、灰のように舞い散り、地上に落ちていく。竜のシルエットはルカヱルを少しずつ引き離していく。

 遠くへ、上へと。


――QUIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII……――!!


 下顎が二つに分裂して独特な口が開くと、遠雷のように咆哮が轟く。そして影は、急激に高度を上げてセタたちを引き離し、あっという間に太陽の光へ、呑まれるように消えた。

 ルカヱルは箒を止めて滞空し、息を深く吸って、深く吐く。

 セタはなんだか、ぼうっとしていた。一瞬の出来事の中に、これまでの常識を破壊されるブレイクスルーが凝集されていた。

 羽化する竜がいるということ。

 “影棲”と例えられた竜が、陽光の向こうへ消えたこと。

 ――魔女の箒でも追いつけないものが、この世にあること。

「ふふっ、うわあ、凄い物見ちゃった……。ミィココ、今の知ってたのかな……?」

「今の、もしかしてフォルヴェントよりも速かったですか……?」

「上に向かって飛んでたから、正確には分からないです。ただ、箒で水平に飛ぶならまだしも、上昇速度であの速さに追いつくのはとても」

 興奮が冷めないのか、ルカヱルはまた深呼吸をして、笑みをこぼす。

「はあー……! セタ、私はこの旅に出て本当に良かったです」

「ええ? 急に何を……」

「だって、こんなにも面白いことがあるなんて、思ってなかった。――もしジパングの山奥でガーデニングしてるだけだったら、一生知らないままだったかも。そうでしょう?」

 いつにもまして嬉しそうに、頬を上気させて魔女は微笑む。振り向き際の彼女の表情を見ると、ついどぎまぎとしてセタは顎を引いた。

「……セタ? どうしたの、なんか顔が赤いよ……?」

「い、いえ、気になさらず。決して、不意にときめいたとかありませんので」

「ときめいた?」

「ええと……ぅ……いや、でもなんか……ぁっ”?」

 セタはえづいて、眉を顰める。途轍もない寒気がする。赤かった顔が、途端に青く染まっていく。背骨が凍ったように寒い。

 そう言えば、集落に来た時から、なんだか少し寒い気がしたのだ。

「なんか、胸がくるし―――ぁ」

 そうして彼は気を失い、頭をがっくりと伏せてしまった。


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