第31話
*
砂浜に戻って来たセタの服は濡れ切っていて、鉛のように重かったが、着替え云々よりも先に議論したい話が彼にはあった。
「――古傷? さっきのシィユマにか?」
「そうです。首から少し離れた、たてがみの付け根あたりでした。傷の淵に沿って変色していたので、ミィココ様とのやり取りで付いたものじゃないかもしれないです」
セタは若干、顔を顰めながら言う。人外たる竜の傷痕とはいえ、なかなかに痛々しい物が脳裏にはっきりと想起されていた。
「俺は竜が傷を負ってるのを初めて見ました……。いったい、いつ付いた傷なんでしょう」
「ふむ、面白い面白い。よしセタ、一度シィユマの絵を描いてみてくれぬかのう? そして、ついでに傷の位置と形も教えてくれ。何か分かるかもしれん――あの凶暴な竜に傷を負わせた者の正体がのう」
ミィココはワクワクとしているのか、声が少し高くなっていた。
一方、ルカヱルは彼の背後から小声で話しかける。
「セタ、大丈夫? なんか辛そう……また傷を見たから……?」
「竜の傷なのでそれほどでは。まあまあエグイ傷だったので、つい顰めてるだけです」
古傷とはいえ、生々しく抉れて、痛々しい様相だった。網膜にその記憶が残っているだけで、顔が自然と強張る。――その点で言えば、ミィココが全くの無傷で海から歩いて上がって来たときは、シィユマよりもミィココのほうが人外じみていないかと、真剣に思ったほどだった。
「そういう話なら、心配いらないかも。魔女は傷が治るのが早いものだけど、そもそもミィココが傷を負うことはないと思うから」
と、ルカヱル。
「傷を負うことが無い?」
「そうじゃ」ミィココが急に反応したので、セタは驚いて一歩後退した。ふん、と彼女は鼻を鳴らす。
「お主、見た物をそのまま記憶できるんじゃったのう。思いの外、難儀なものじゃ。忘れることも、曖昧にすることもできない、ということじゃな」
「まあ、そういうことですが……、その、あまり俺のことはお気になさらず」
セタとしても魔女二名に気を遣わせるのは、どちらがVIPなのか分からなくなるので遠慮したかった。
「なあに、ルカヱルの言うように、少なくとも儂のことなら心配いらぬぞ。もし儂が傷を負うことがあれば、それは星を破壊するほどの力を、この一身に受けた時くらいじゃな。試したことがあるから分かるぞ」と、ミィココは華奢な体で胸を張った。
(そんなこと試すなよ)と思うと同時に、(星を破壊するほどの力なんてどうやって試したんだ?)と思うセタだったが、あまり詮索しなかった。「そうですか、わかりました」と端的に応じた。
――それからミィココの家にて、セタは庭の円卓に一人で座り、絵を仕上げる。陽が傾いて夕方になると、ランタンが自動で黄色く灯って、セタの手元を照らした。
概ね仕上がったころ、背伸びをして振り返ると、ルカヱルは札遊びをしているところだった。しかもゲームではなく、札を斜めに組み合わせてタワー状に積み上げる一人遊びである。暇つぶしの極致のような過ごし方だったが、声を掛けにくい。
ミィココは札遊びに付き当ってくれなかったらしい。彼女はシィユマから折って手に入れた白い角を磨いて、鋭い刃物のように仕上げているところだった。刃に反射したセタの視線に気づき、顔を上げる。
「――おぅセタ。どうやら仕上がったようじゃな? 見せてくれ」
「えっ、そうなんですか?」と振り返ったとき、ルカヱルの髪がタワーを薙いで、ぱらぱらと崩れ落ちる札。3名とも「あっ」と声を上げてしまう出来事だった。
「ああ……ま、まあ、ん、いっか……ぁ」
思い切り眉を下げているにも関らず、妙に強がる魔女をよそに、ミィココはセタのもとへと歩み寄る。
「あの、絵はこちらです。傷を書いた絵もあります」
セタの提示した絵を手に取り、一目見て、ミィココは目を丸くする。
「ほう。シィユマとはこのような様相だったのか。興味深いの」
「私にも見せて。……えっ、かっこいい!」
とルカヱルが背中越しに覗くや否や、声を上げた。確かにしなやかなシィユマの形態には無駄がなく、生物と槍を融合したようなスタイリッシュさがある。
ミィココは絵の一部を指さした。
「角の付け根部分は他の体表面と少し構造が違うのう。ふつうは海中で塩を固めることなどできぬはずじゃが、固有のマナを引力とし、押し固めておるのかもしれん。たてがみは触覚の代わりにしておるのかのう? セタは分からんかったと思うが、塩の結晶とは違うマナに満ちた気配が揺らいでおった。きっと、このたてがみのマナじゃ」
一目で様々な情報を推察するミィココ。真偽のほどはともかく、さすがは暇つぶしに竜を研究することはある、とセタは感心する。
「そしてこれが、お主が見たという傷か……」ミィココは絵をなぞり、目を細める。
「どうですか?」とセタは尋ねる。
「……ふぅむ、まるで現物を手に取って眺めているように精巧じゃ」
「あの、絵の感想でなく」
「実際、お主の能力を買っておるのじゃぞ。人間に異なる世界が見えているのは知っとったが、お主の絵は、儂らにとっては“翻訳”に近いのう。この傷の観察もしかりじゃ……実は、儂があやつを投げ飛ばせたのは、奴の力が抜けている所があったからなのじゃ――この傷が、その理由なのじゃろう。お主、儂の想像より中々やるのう」
ふいに称賛を送られてたじろぐセタ。ふーむ、とミィココはそれに詰め寄る。
「そうじゃセタ、儂と来ぬか? お主の観察力があれば、儂の研究もはかどりそうじゃ」
「えっ」
「えっ――だ、だめ!! セタは私が連れてくもん!」
ルカヱルがセタを両手で抱きつくように飛びつき、狼狽えた声色で宣言した。
「ぢょっ、くるしぅ」顔を抱えられて横にひねられたセタが呻く。犯人は言わずもがな、ルカヱルである。
ミィココは「はっは」と笑った。「お主、相変わらず独占欲が強い奴よのう。飽きっぽいのか何なのか、分からんわ」
「そっ、そんなことより、結局その傷はどうなのよ」
「このように抉るような傷を水中で付けるのは難しい……どうやってこの傷がついたのかは、今のところ釈然とせんな」
「人間が付けた傷……? じゃないよね」
「どうじゃろうな。シィユマに手を出す馬鹿者はおらんと思うし、人間がこれほど大きな傷をつけるのは不可能じゃと思うが。むしろシィユマの獰猛な性格を考えれば――竜同士の縄張り争いが原因かもしれん」
「縄張り争い……」
「お主ら、シィユマの伝承は知っておるか? あやつの目に映るすべてが、奴にとっては敵であり、仕合の相手なのじゃ。クジラもサメも、船も。――儂ら魔女も、あるいは、竜もな。ただし……いまのメガラニカの海棲生物の中で、あやつに勝てるものなんぞおらんはずじゃ。もしシィユマが深手を負ったというのなら、より強い竜に戦いを挑んだからじゃと思う」
「でも、強い竜と戦ってことは、もしかして……」
ルカヱルは呟く。
「察したか? このメガラニカに新たな竜が来て、偶然にもシィユマの縄張りに近づいたのかもしれん。少なくともシィユマに傷を負わせられるほどの、愉快な愉快な、傑物がの!」
そう告げたミィココの目は、どこか爛々としていた。
「面白くなってきた――!! ルカヱル、儂はその竜を探しに行くぞ!」椅子から立ち上がり、ミィココは言う。「もし役人どもに会ったら、儂はすでに竜図鑑を作るためにもう出発した、とでも伝えておいてくれ」
「えっ。いや、あなたも一人じゃ竜の姿は見えないし、絵に描けないでしょ……?」
という忠告を聞いたか聞き流したか、ミィココは「ではまたな!」と言い残して、その場を立ち去ってしまった。
「……あの、そろそろ離して……」
セタがルカヱルの腕をタップして呻くと、魔女は慌てて拘束を解いた。
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