第30話
海底の中を歩くと、ふわふわとしてまともに進めないのではないか、と思っていたセタだったが、ルカヱルの魔法の庇護下では例外らしい。まるで地上を歩くのと変わりなく、セタは海底を歩いていた。髪や服が浮力で揺れることすらない。
地上と違うことがあるとすれば、恐ろしく静かである。そして光はカーテンのように揺れて、真上からしか差し込まない。遠くを見つめるほど、宇宙を彷彿とする青くて、暗い。岩礁の隙間から飛び出して来た魚が顔のすぐ近くをよぎり、波に海藻が揺れている。
こんな珍しい光景をお目に掛かることがあるとは思わなかったセタは、星空を眺めるような首の動かし方をして、しげしげとそのアクアリウムを眺めていた。
(でもこれじゃ、歩けたとしても、声が出ないよな……)
「一応しゃべれるはずなんだけど、どう?」と、ルカヱルの声が聞こえた。
「えっ? あ、ほんとだ」
少しくぐもった響き方をしているが、口の中に海水が流れ込んでいる感覚もなかった。塩気すらも感じない。水が自分を避けているような、不思議な感覚だった。
「凄いですね。デルアリアのときも同じように海中を進みましたけど、余裕が無かったので――風景は覚えてるんですが、また違った感動があります」
「だよね。実は、私も海底を歩くのは結構好きなんだ」
「マナが薄いからですよね」
「その通り。君、魔女のことが分かってるね」ルカヱルは歯を覗かせて微笑む。「魔女にとってマナの影響が小さい海の中は、とっても珍しい光景が見れるのです。海の中だと、マナが希釈されて流されていくから、視界のゆがみもあんまりないんだよね。何日も眺めてられるよ」
なるほど、とセタは無言でうなずいた。やはり、地上のマナで屈折した景色というのは、魔女にとってもうんざりするものらしい。
「ミィココ様もやっぱり、視界は歪んでしまうんですよね? 一人でシィユマを探しに行っちゃいましたけど」
「魔女だったら例外は無いよ。たぶん竜を探すことができても、絵を描くのは無理だと思う」
「シィユマの絵も、俺が描くってことですね……」
同時に、これからミィココはどうやって竜の図鑑プロジェクトに参画するつもりだろう、とセタは思い始めた。それこそ、セタのように絵が描ける人材が役人の中にいれば話は多少早いが、絵が描けるだけでなく旅に付いていくモチベーションが必要である。人材はそう簡単に判断できないものだ。
そのとき、ルカヱルは音に釣られたように不意に首を動かした。
「合図です。ミィココから」
「合図……って、いや、なにも聞こえませんでしたけど」
「マナが送られてきました。あっちにいるみたい……というか、これは……」
ルカヱルは明後日の方向を見つめて、顔を顰めた。視線のさきにあるのは、岩礁だ。タコが岩に身を潜めて、魔女のことを警戒しているのが見えた。
「――こ、こっちに来る、竜と一緒に……! セタ、伏せて!」
その瞬間、岩が砕け散って白い泡が雪崩のように視界を覆った。セタは、胴体をルカヱルに掴まれてそのまま勢いよく流された。泡が消えて、砕け散った岩礁が水に沈み、白い砂がフラクタル模様を描いて海中を舞って――。その先にミィココと異形の生物が見えたのである。
「……あれがシィユマ――!?」
最初の印象は、“小さい”だった。
たかだか馬ほどの体躯に、それと不釣り合いなほど長い尾がリボンのようにうねる。金と銀の金属光沢に染まった独特なたてがみも相まって、ますます馬のようだが、しなやかな体には、一見して足も腕も無い。馬と言うよりは、蛇にも似ている。まさに竜である。イッカクのような長く鋭い角は白かった。
海中の塩を凝集して出来た角。
ミィココにはそう聞いていたが、まさにいま、砕け散った瓦礫こそ、角によって破砕された残骸である。
(――つまり岩より硬いのか、あの角!)
セタは目を細めて、さらに詳細にその姿を見つめる。この刹那的な観察一度きりで以って、竜の図鑑を完成させなければならない、と直感していた。でなければ、この危険生物を何度も観察するために海に潜ることになってしまう。
「じゃじゃ馬じゃのう、こやつ! さてどうじゃ、セタ、観察とやらは出来たか!?」
ミィココの声が海中を響いてセタの耳にまで届く。独特な現象だったが、セタは咄嗟に頷いていた。
「ならよし! お主らはもう退いておけ!」
ルカヱルはセタの腕を掴み、空いているほうの手を真っすぐに伸ばすと、袖の中からひとりでに箒が飛び出した。彼女はそれを掴むと、魚雷のように海水を進んで、シィユマの傍から離れていく。
―――Piiiiiiiiiiixxxxxx!!―――
甲高い叫び声が広がると、シィユマの頭部に集まるように水が流れ、海藻や砂が揺らぐ。そして角がさらに長く、刃のように鋭くなった。その角を海上まで振り上げ、勢いよく振り下ろし、爆音とともに海面を裂断する。
「ぬあっと危なっ!」
ミィココは振り下ろされたシィユマの一撃を躱したが、竜は頭を下げた状態で、今度は魔女を目掛けて突進する。刃のように振るったかと思えば、今度は槍のように刺突を繰り出す。歴戦の騎士のような立ち回りを前に、ミィココは目を丸くした。突き刺さる寸前で身をよじり、脇で角を抱えて受け、そのまま押し流されていく。
たった数秒間の応酬に命のやり取りが何度も繰り広げられ――その様子を、セタは見ていた。
「ルカヱル様! ミィココ様が!! シィユマに……!!」
「あの人は大丈夫、すごく頑丈だから!」
「いや……頑丈っていっても――」
「確かに竜を殺すのは無理だと思うけど、竜のほうもミィココは殺せないよ!」
セタは驚きつつ、再度ミィココの方を見遣った。
突進を角を抱えて受けた彼女にお構いなしにシィユマは突き進み、またひとつ岩礁を突き破っていく。ひえ……とセタの喉から妙な声が漏れた。人間なら死んでいる。五体が満足にいれるかも怪しい。しかし、ミィココはセタの目で見る限り、傷一つ負っていなかった。
魔女は笑みを浮かべるように牙を剥き、謎の金属音と共に海中で踏みとどまった。
「もう帰るが良い、シィユマ!――暇潰しはここまでじゃ!」
そしてミィココは、角を掴んで器用に体をひねり、突進の勢いを利用し、背負い投げの要領で竜を海上へ放り上げた。
魔法というより、単なる馬鹿力にしか見えない所業だったが、放り投げられたシィユマは再度海に落ちて盛大なしぶきを上げた。塩の角は、ミィココに投げられたときに破壊されていたらしく、彼女の手には塩の刃が握られている。
落下してきたシィユマは、すかさず海中で体勢を立て直したが、ミィココの手に握られた折れた塩の角を見た。そして魔女を睨みつけ、しかしそれ以上の手出しはせず、身をひるがえして海の暗い青の向こうへ消えていったのである。
――セタが落ち着いてシィユマを観察できたのは、皮肉にも、その竜の撤退中の姿だった。そのとき、あることに気が付いたのだ。体側面のうち、セタから見えていなかった方が初めて見えて、ようやく気付いたのだ。
(あれは……怪我?)
シィユマの体の一部に、深い切創痕があったのである。ミィココとの大立ち回りで出来た傷ではない、と直感したのは、それが変色した古い傷痕だったからだ。
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