第22話

 セタの視界が、文字通り真っ白になる。

(今度は雲の中に入った、視界が……!)セタは瞼を薄めて目を凝らすが、視界は効かない。

「――!!」

 一方、ルカヱルは顔を顰めつつ、さらに人差し指に加えて、中指、薬指と、竜に引っ掛ける魔法の指の数を増やしていく。小指までかかったとき、小さく息を吐いた。

「――セタ、聞こえる?」

「え……? はい、はい、聞こえてます!」

 急に声がクリアに聞こえるようになって、セタは驚く。「あれ、風の音がない……」

「たぶん、ちょうどフォルヴェントの真後ろにいるからだね。竜の躰自体が風よけになってるみたい」

 セタは少しだけルカヱルの脇に体をずらして、すぐ前にいるはずのフォルヴェントを窺うが、視認が出来なかった。

「ルカヱル様、雲のなかじゃ姿が見えません。どうにかして雲から出たタイミングのところで、ぴったり横で並走しないと……」

 そう考えたセタだったが、ついさきほど、一瞬だけ雲の外に出たフォルヴェントは鋭いUターンですぐさま雲の中にとんぼ返りしたのだ。

 あの軌道にそって同じ速度で並走するなど、困難の極みだった。

「ふふっ、面白。滾ってきたね!」

 ルカヱルは、そんな予想外の――否、もはや予想通りともいうべき魔女らしい答えをしてきた。「フォルヴェントの真後ろで飛んでる今しか話ができないし、ちょっと方針を決めようか」

「ええ、こんなところで?」

 とはいえ、一度フォルヴェントから離れてしまうと、次はこの大きな雲の中から竜の影を探す所から再開になってしまう。

「――分かりました、そうしましょう。でもルカヱル様、さっき言ったように、あいつの姿を見るには一度雲の外に出ないと」

「分かった。まずそこからってことね。でも、さっき一瞬だけ外に出てくれたのに、すぐに雲の中に戻っちゃったじゃない? 無理やり引っ張り出すのも無理かも」

 セタは考えを巡らせる。風が頭を冷やしてくれたおかげか、すぐに一つの考えが浮かんだ。

「“2つの線状の雲が、その後を引く”―― 地上から見えるフォルヴェントの雲は、まっすぐな線のはずです。フォルヴェントが雲の外を真っ直ぐ飛ぶこともあるのかも」

 もし歪んだ曲線状の雲であれば、伝承もその特徴的な形状を言い伝えるはずだった。しかし、現代においてもしばしば観察されるフォルヴェントの雲の形状は、「線状」としてなおも語られている。

「つまり何か理由があれば、フォルヴェントは雲の外に“真っすぐ”出るはずです。でも、今はまだその時じゃないんですよ。雲の中で何かやり残したことがあったから、さっきもとんぼ返りしたのかも」

「なるほど、やり残したこと、理由……」

 呟くと、ルカヱルはじっと、前を見据えた。セタも彼女の横から、辛うじて前方を窺る。セタの視線からは、竜の影が見えていた。魔女の視界には、竜のマナが見えていた。

 セタから見ても分からないことが、ルカヱルには分かったのである。

「――ふふっ、ああ、そういうこと。この竜、さっきよりもマナが増えてるみたいです」

「え?」

「食餌してるみたい。ほら、フルミーネも餌を食べるために地表に出て来たでしょ? このフォルヴェントもそれと同じ、ってことかも」

「え、餌ぁ? いや、でもここに餌になるものなんて何もないですよ。鳥かなにかを食べてるってことですか? そうだとすると、なんでわざわざ雲の中で……?」

「鳥じゃないよ。たぶん、虫とかでもない」

「じゃあ、何を?」

 他に、空を飛んでいそうな生き物が思い浮かばないセタ。

 ルカヱルは、予想外の答えを述べた。

。ほら、私たち入道雲の中にいるのに、今は雷の光どころか、音すら聞こえないです」

「……え?」

 セタもはっとして、周囲を見渡す。でも真っ白な視界の中では、音しか頼りにならない。

 そして今は、風の音しかしなかった。

「本当だ。最初に見た時は雲の中で雷が光ってたのに、今はなにも……」

「どうやらフォルヴェントは、雷を食べるみたいです。真っすぐなフォルヴェントの雲が見えるのは、この竜が食餌のために雲に入る直前か、または――」

「――満腹になって、雲から出る時?」

「ふふ、それに、もう一通りあるかな」

「もう一通り?」

「餌が無くなったとき、ね」

 そう答えたルカヱルが周りを見渡す。セタもそれにつられて、周りをみた。

「あれ……? なんか、雲が薄れてる?」

「“暗雲が裂かれて”、とはよく言ったものです。フォルヴェントが食餌をする過程で、雲の中の気流が乱れて、雲が薄れていく――その様子が、地上から見ればまるで竜が雲を切り裂いたように見えたんだね」

 たしかに、今だに観測される機会が多い竜だけあって、伝承の内容はかなり的を得ているようだった――ただ、だれもフォルヴェントが雷を食べるために積乱雲の中に飛び込んでいるなど、知らないだろう。

「ってことは、もしかしてもうすぐここを出る?」

 セタがふと呟くと、急激に箒が加速した。「おっ」とルカヱルが声を漏らし、上半身が引っ張られたように動く。「そうみたい。フォルヴェントが箒を引いてる。セタ、目を凝らしてね!」

「はい!」

 箒は加速していく。フォルヴェントは雲の内側に沿うように巡回飛行しているらしく、緩やかに弧を描く軌道で雲の中を飛びながら、加速している。

「もしかして助走をつけてる……? これは思ったよりも速くなるね」

「今よりももっと速くなると? フォルヴェントはどうしてそんなに速く飛ぼうとするんでしょう」

「多分、できるだけ多くの雷を得るため、かもね。物が擦り合わさると、少し電気が溜まることあるでしょ?」

 要するに静電気のことか、とセタは無言でうなずく。

「いま残ってる雲に体をできるだけ擦って、自分に帯電した電気も食べてるみたい。今のフォルヴェントは――ふふっ、例えるなら、レストランから帰る前にスープの皿を舐めてる、みたいな感じ?」

「おお……その例えはちょっと。意地汚いにもほどが……」

 "FywwwwwwwWWWW!!!!"

 雲の中でフォルヴェントの咆哮が響き、セタは驚く。陰口を聞いて怒ったようなタイミングだった。

「来る、準備して」

 ルカヱルの合図の直後、フォルヴェントの軌道が変わり、まっすぐに飛行し始めた。速度は音速域に至り、フォルヴェントの周囲の雲がえぐれるように消えていく。

「―――!!」

 がたがた、と箒が揺れる。風の音が再び聴覚の全てを埋める。

 やがて視界が晴れると、文字通り、快晴の青色の中にセタたちはいた。

 そして目の前には、黒い体表面の鱗をわずかに赤熱させて、ウスバカゲロウのように薄い6枚の羽を広げる飛行生物がいた。

「――見えた!!」

「今から真横を追い抜く! ちょっと加速するよ!」

 ルカヱルがさらにスピードを上げる。竜との距離が縮まり、そして並走して、徐々に竜を追い抜いていく。

 フォルヴェントの羽に沿って飛行機雲が生まれ、さらにルカヱルの箒に沿って轍のように、もう一本の飛行機雲が生まれる。竜のすぐ横から、セタは目を皿にしてフォルヴェントの全身を隈なく観察した。

 半透明に透き通った紫色の薄い羽は左右3枚ずつある。ガラス細工のように美しい羽であり、血管のような筋が模様のようだった。それぞれの羽の間で、放電がばちばちと繰り返されている。その羽を支える骨格、胴体や尾は、全体にわたって真っ黒で艶のある鱗によって緻密に覆われていた。胴周りは翼の大きさに比較して、不相応に細く、まるでトンボのようだ。

(金属? ……いや、なにか焦げ臭い。この匂いは炭……?)

 セタは記憶力と嗅覚を働かせるが、そのまま箒は進む。

 翼の付け根を過ぎると頭部へと近づいていく。流線形の頭部には、薄く開かれた小さな口と、切れ込みのような瞼の中に目に3つの瞳孔が見えた。瞳孔はそれぞれが別々の方向を向いてキョロキョロと動いている。

「うわっ……、目がかなり恐いな、こいつ……」

 シルエットだけ見ると相応にスタイリッシュな形態の竜だったが、目を合わせると威圧感のあまり冷や汗が滲む。

 "FyWWWW!!!!"

「うわ、すいません!」

「ははっ、なに謝ってんの? ……観察はできた?」

「はい出来ました、目に焼き付きました! 降りましょう!」

 セタが必死に言うので、ルカヱルは可笑しそうに微笑むと、フォルヴェントの目の前で手を振って、箒の高度を下げ始めた。

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