第23話

 ある程度高度を下げると、ルカヱルはスピードも緩めて振り返り、口を開いた。

「……セタ、怪我はない? 雷に打たれたー、とか」

「ないですよ。……てか、雷に打たれてたら箒からとっくに落ちてます」

「それもそっか、ふふ」

 フォルヴェントは、あっという間に遠いところまで飛んで行ってしまった。その後に沿うように、伝承通りの雲の跡が残っている。そうしてしばらく見ていると、竜は緩く湾曲した地平の向こうまで消えていった。人間はおろか、その他の一切の生物を超越した竜の足跡を見て、セタは嘆息した。

「こんな生き物がいるんですね……。なんか、しみじみと竜ってものの凄さが分かってきた気がします」

「フォルヴェントって嵐を呼ぶ竜だと思ってたけど、雷雲を食べて消す竜だったんだね。雷喰いかづちくいの竜――長いこと、生態を勘違いしてたよ」

 そう言うルカヱルは、右手をぷらぷらと振って笑う。セタは目を剥いて、その右手を凝視した。ルカヱルの手首から先の部分が真っ黒に変色し、亀裂のように深い傷が隈なく刻まれていた。

「る、ルカヱル様!? 手っ、手が!?」

「手? ……ああ、これ? さっきちょっと雷に打たれちゃって、ふふっ」

 笑い事ではない大けがのはずなのだが、当のルカヱルは「料理してたら油が跳ねて火傷しちゃった、ふふっ」くらいの軽い雰囲気でほほ笑む。

「心配しなくて良いよ。これくらい、すぐに治るから」

 嘘ではないらしく、ルカヱルが数回手のひらを握っては開く、と繰り返すと、亀裂の入った皮膚が崩れ落ちて、中から綺麗な手のひらが現れた。「ね?」と、魔女は言う。

 セタは、前にルカヱルが虫刺されを指で撫でるだけで直していたことを思い出した。

「……魔女って、どんな怪我でもすぐに治るんですか? 死ぬこともないんですか?」

「ちょっとやそっとではね」

と魔女が笑うので、セタもそういうものか、と納得する。雷に打たれる、というのを“ちょっとやそっと”に計上してよいか、という疑問はあったが。

「死ぬことがあるとしても、私の知る限り魔女では――いや、この話は良いか」

 ルカヱルは後頭部を掻いて、話題を修正する。「神話の竜と対峙して死んだり、姿を暗ませた魔女はいるけど、それはレアケース。私の怪我なんて、気にしなくて良いよ」

「そうですか……」

 セタは俯く。ルカヱルには嘘をついたり、無理に取り繕っている様子はない。しかし、セタ本人が無傷という事実が、むしろ申し訳なく感じてしまう。「気にしなくて良いよ」と言われても、セタの心持ちは彼自身の裁量次第である。

 ルカヱルは、そんな彼を窺うように、少し首を傾げる。

「本当に気にしなくて良いのに。魔女は全身にやけどを負っても、毒を喰らっても、腕や足が斬れても、死ぬことはないよ。昔、試したことあるから」

「試すな」

「くふふっ」

 セタの鋭い提言を聞いて、魔女がころころと笑う。セタは、深くため息をついた。

「……人間の感覚で貴方を見てると冷や冷やしますよ。あまり無茶しないでください。俺の心臓が持たないというか――脳裏に焼き付いて、忘れられないので」

「ああ……そうだね、君は。それなら、これからはちゃんと気を付ける」

 ルカヱルはセタの真意を量って頷く。セタは見たものをそのまま記憶できる。逆に言えば、“雷で焦げ付いた魔女の右手”すらも、鮮明な記憶のまま保持され続けてしまうのだ。

 だからもし、この先の旅で魔女が全身に火傷を負ったり、腕や足が斬れたりするのを見れば、そのたびに記憶に禍根トラウマが残るのだ。

「――でもですね、もしセタが危ない時は、私は自分の怪我なんて気にしないからね」

 諸々を理解したうえで、ルカヱルはそんなことを念押しして言った。

「ええ? そこまで言いますか?」

 セタは驚く。確かにルカヱルの役目は観測および挿絵担当のセタを守ることだが、会って間もない彼を律儀に守ろうという気概モチベーションが、意外にも高いのである。

「約束してくれたでしょ、セタ。風景画を描いてくれるって。あと、ガイオスもね。――ふふっ、君、寿命の長い魔女と約束したら、あとが大変ですよ? 気が長く記憶力も良いので、約束が果たされるのをいつまでも楽しみに待ってるんだから」

「……ふはっ」

 セタは、吹き出すように笑ってしまった。確かにセタは、魔女と言う別格の生物に対して、迂闊な約束をしすぎたらしい。

「分かりましたよ。じゃあ、今後は迂闊に約束しないように気を付けます」

 セタが当のルカヱルを前に堂々と告げると、えー、と魔女は唇を尖らせた。二人が言い合っている間も箒は徐々に高度を落としていた。

 フォルヴェントを追って雲の高さまで来たおかげで、普段の飛行時と比較にならないほど、遠くの光景まで見える。正確なセタの脳裏には、アルバムのようにその景色が記録されていった。

「……風景画の件、白黒のスケッチでも良いですか?」

 そしてセタは、出し抜けにそんなことを言った。

「うん」と、ルカヱルはすぐに頷く。「顔料にはマナが残ってることがあるんですよね。色の濃い顔料には鉱物が入ってることが多いから。木炭で書いた黒色だけのスケッチだったら、普通に見れるけど」

 セタもそれは知っていた。実際、ルカヱルは竜のデッサンに関しては問題なく視認できている。

 よって黒は“木炭”で代替えできるとしても、他に代表的な色である、白、赤、青、黄――それらは、鉱石を材料にした顔料が多い。しかしもし鉱物由来の顔料を使えば、ルカヱルの目には歪んで見えてしまう。まるでアレルギーのように、ルカヱルは魔女体質ゆえに真っすぐ見ることのできない色である。

「なら、俺は色付きの絵を描きます」

とセタは言った。

「えっ? い、意地悪……」

「いえ、鉱物が入ってる顔料は一切使わずに、試しに他の材料で代えて描いてみます」

 セタがそう言うと、ルカヱルは目を丸くして、しばらく沈黙して。

「……どうして?」

と、呟く。本気で不思議そうに、ルカヱルは首を傾げて、不思議なことを言う人間セタを見つめる。

「魔女様に人間と同じ風景を見せることが出来るか、個人的に興味が出てきました。ただの暇潰しです」

「ふっ、そう、そうですか。……ふっ、ふふふっ」何かがツボに入ったらしく、ルカヱルはしばらく笑っていた。「でも良いの? さっき、“迂闊な約束はしない”って聞いたけれど?」

「ええ。今のは別に、迂闊では無いので」

 セタが言い、また魔女が笑った。


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