第21話

「セタ、今から行ける?」

「えっ、本当に今から? あの雲に、竜を探しに?」

「君が準備できてれば」とルカヱル。

 セタはとっさに、自分のポケットをまさぐった。鍵はちゃんとある。

「……できてます」

「ほんと? じゃあ今回は、目にこれ付けといて」

 ルカヱルは袖の下から大きなゴーグルを取り出して、セタのほうへ一つ渡した。セタが受け取ってそれを観察しているうちに、ルカヱルも同じ形のゴーグルをつけた。

「今日はこのゴーグルを?」

「うん。もしかすると全速力で飛ぶかもしれない。私が魔法で風除けしても、目が開けられない可能性があるから。君が目を開けられなかったら、一大事だよ」

「まあ、そうですね。観察担当なので」

 というわけで、最後の頼みの綱がこの物理障壁らしい。セタは理由に納得すると、バンド部分を引っ張って後頭部に掛けて、目をゴーグルで覆った。

「はあ、よし、行きましょう。ぶっちゃけ俺、心の準備ができていないんですけど、入道雲もフォルヴェントも、次にいつ姿を現すか分からないですもんね」

「ふふっ、その通り。じゃあ、いつも通り後ろに乗ってください。今日は普段よりも少し飛ばしますよ。……あ、そうだ」

 ルカヱルは、もう一度袖の下に手を伸ばして、今度は裾の長い服を取り出して、セタに手渡す。

「あの、これは? これも着るんですか」

「だって上は寒いよ。それ、上げるから飛ぶ前に着て」

「つまり防寒着ですか? 分かりました、ありがとうございます」

 セタは受け取ったコートに袖を通す。季節柄今は暑すぎるかと思ったが、完全に羽織っても暑さを感じない。刺繍を見れば、ルカヱルの来ているローブと同じ模様だった。

「もしかして、この服も魔法なんですか。暑くも寒くもならないような」

「うん、あと一応、雷対策の魔法もね」

 しれっと雷に当たる可能性が示唆された気がして、セタは肝を冷やした。入道雲に近付くのだから、当然かもしれないが。

「オッケー、準備万端! 行くよ、セタも箒乗って!」

 ルカヱルが柄に跨る。それに続いてセタも彼女の後ろに乗った。一瞬だけ、ゆるやかな浮遊感――すぐさま箒は空へ飛び立ち、エダの街の光景も、城壁も、眼下の果てへ離れていく。



 ひゅぅ―――………ぅ

 風の流れる音が次第に収まる。ルカヱルは箒を地表から遥か上空で止めた。

 セタは下を見る。

(うわ……この景色は、俺でなくても忘れられそうにないな)

 多くの人々が暮らすエダの街が、虫の巣のようにちっぽけに見えた。どれだけ高い場所まで上昇しているのか実感する。

 顔を上げると、眼前に輪郭のぼやけた白く暗い塊。

 見通せないほど濁った雲の内側では、時折、雷の光が瞬いて、低く心臓に響く音を轟かせている。

「入道雲って、近くで見ると迫力がありますね……」

「だね。というか、近づいて分かったけど」ルカヱルは目を細める。「……雲のくせに、ものすごくマナが濃いかも」

「えっ? ってことは……」

 魔女の知見によれば、鉱石や生きている植物はマナを持ち、その漏洩したマナが魔女の目に映るらしい。

 雲は鉱石でも植物でもない。水である。セタもそれは知っていた。

「竜のものですか」

「そうだろうね。いきなり当たり引いた?」

 ルカヱルが目を皿にして暗雲を見つめる。セタも厚い雲の中に竜の影が見えないかと、目を凝らす。しかし思いのほか暗く、夜闇に眼を凝らすよりも、白い雲に覆われた向こうを見通すのは骨が折れた。

「……マナが雲全体に分散してるせいで、本体のマナが見つからないな」ルカヱルは目を瞬かせて言う。

「ということは、ルカヱル様の目で見ても探せないんですか?」

「うん。セタは何か見えた? 影とか」

「今のところは、何も――」と、セタは言いかけて。

 ――ひゅっ……ぅ―――

と、セタの耳に何かが聞こえた。

 ルカヱルも同時に目を細め、耳を傾ける。

 ――ゅっ……ぅ―――

(風の音?)

 セタは、なにか違和感を感じた。風の音のようなものが聞こえるが、耳元ではなく、どこか離れた位置で風切り音がする。

 ――ひゅっ……―――

 ――Fywwww―!!!――

 異音の正体に気付いたセタの背筋が冷える。

「いまのって――!!」

 セタが声を上げると同時に、ルカヱルは箒の柄の方向を思い切り変えて一気に加速した。

 その、ほんのすぐ直後だった。

 突風が吹き荒れ、箒の穂先を乱す。ルカヱルの箒は、きりもみ回転で、急激に高度を落としていく。

「ルカヱル様!!箒がっ……!!」

「だいじょーぶ!ちゃんと私に掴まってて!!」

 ルカヱルが箒の制御を取り戻し、再び高度を上げる。セタの目は、一瞬の出来事を捉えていた。

(いま、何かが箒のすぐ後ろを――)

 振り返ったセタとルカヱルの目に映ったのは、Uターンして急接近してくる「何か」の影だった。

 ルカヱルは箒を加速し、角度の逸れた方へと逃げる。風がセタの鼓膜を揺らして、何かの影は、また入道雲の中へ消えていった。

(は、速っ!? 形が分からない)

 目に映った色は紫、黒。

 小さくて細かい火花の光。

 風の音と、それに加えて低い咆哮。

 "FYWwwwW!!!!"

「……この鳴き声、フォルヴェントですか?」

「あれを追いかけます。セタ、本気で私に掴まってて。川の激流に耐えるくらいのつもりで」

「はい!」

 セタが頷いたらすぐさまルカヱルは息を吸って、そして箒を加速させた。

 空気に殴られたような圧力と、“ごっ”と低い音が耳の中で響き、耳鳴りにセタは顔を顰める。

(どこだ、フォルヴェント!)

 "――fywwWW……"

 風を切る音にまざり、わずかに響く特徴的な声。セタは、その方向に素早く視線を向ける。

 隣には入道雲、その中をまるで風のように進むフォルヴェントと思しき影。ルカヱルの箒が加速していく。入道雲の端から、対角線のさきにある端まで。

「向こう側の雲の端まで行ったら、またフォルヴェントが雲を抜けるかも……!そのタイミングで観察できる?」

「分かってます、見てます!」

 加速したルカヱルの箒が竜の影に追いつく。巨大な雲の中を泳ぐ竜の姿が、次第に見えるようになってきた。

 しかし速度を上げた代償に、二人の聴覚はもはや機能していなかった。

「追――た、同――で――走――よ!」

「――た――」

 セタもルカヱルも自分の声も相手の声も聞こえなかった。風の音が大きく、さらに声があっという間に背後に置いてけぼりにされるせいで、聞き取れない。

 速度は音速域に至ろうとしていた。ルカヱルの魔法によって体は守られているが、声を伝えることができない。

 入道雲の端が迫る。

(さっきみたいにフォルヴェントが飛び出てくるか?)

 セタはそう期待したが、影は直前で進路を修正し、雲の内側を沿うように飛行したのである。すぐさまルカヱルも箒の先をそれに追従するように方向転換する。遠心力が掛かり、セタの躰が外側に引っ張られていく。

(フォルヴェントは雲の外側に滅多に出てこないのか? こんな速度で引き離されたらいつか見失う!)

 セタが焦る。ルカヱルと意思疎通を図ろうにも、高速の世界では声がほとんど通らない。

(追跡するには、どうすれば……!)

 そのとき、ルカヱルは箒の上で片手を離した。人差し指をゆっくり立てる。そして、その指を竜の影の方へ向けた。

(この指の動きは……まさかデルアリアの時と同じあれをやる気なのか?!)

 セタは気付き、ゴーグルの内側で目を丸くする。魔女が人差し指を何かに“引っ掛ける”ように曲げると、ぐん、と強い引力で箒が引かれ始めた。

(やっぱり! 今度はフォルヴェントを引っ張った――というより、フォルヴェントに引っ張らせたんだ!)

 まるで馬車のような要領で、ルカヱルの箒は竜の動きに追従し始める。ルカヱルは片手だけで舵を取り、竜を追跡して。

「――うわっ!!」

 そのまま、二人を乗せた箒は雲の中へと突き刺さるように消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る