第20話

 セタは「大役所」を出たあと、街を歩いていた。魔女のように箒を使って家に帰ることもできない普通の人間なので、歩くしかない。

(ルカヱル様にトーエさんから聞いた話を伝えないと。フォルヴェントのこともいろいろ確認したいし)

 事前に聞いた限りでは飛竜と並走飛行してじっくり観察する、という話だったが、セタの感覚からすれば荒唐無稽である。たとえ理論上可能であっても。セタは少し不安だった。今回ばっかりは海に落ちるよりも強く命の危機を感じる仕事である。それでも、ルカヱルにとっては暇つぶしに過ぎないのかもしれないが。

 揺れて泳ぐ視線――そしてはたと、セタの目にとある作業者たちが止まった。モップと洗剤の泡だったバケツを抱えて、壁に描かれた作品グラフィティにまさに水を掛けたところだった。

「はあー、まったく若者の考えはよく分からんな。これの何が良いんだか」

「僕は結構好きですよ。たまに出来の良い奴もある」

「今から洗い落とす人間の言うセリフじゃないだろ。普段から洗い落としてる奴のセリフじゃないだろ」

「そういえば、ずいぶん前に見つけた風景画良かったなあ」

「顎に手を当てて鑑賞してないで、きびきび手ぇ動かせよな」

 二人の作業者は、城壁の禍根グラフィティをモップや雑巾でこすりながら、そんなことを話し合っていた。エダの地はかつてのジパングの王都があったため、巨大な城壁が残っている。人目も多い街でありながら、人目を盗んで、こうして壁に絵を残すという「芸術家」たちがいるのだ。そして“幽霊画家”と呼ばれる不届き者こそ、この風潮の火つけ役だった。

 だからセタは心中、複雑だった。

 寝静まった夜の街の中を歩き、昼間に網膜に焼き付けた景色を、暗闇の中で明かりもなく、正確に書き残す。持ち前の器用さ、記憶力、胆力が特殊な形で活かされ、そしてやがて幽霊画家と呼ばれるようになった。

 その芸術家の活動目的は、街の話種になっていたが、その実態は……

「非日常感を求めて……だよな」

 もし過去の自分に会ったら、「ほかにもっと良い暇潰しあるだろ?」くらいは言うかもしれない。

「よお、そこの御役人さん。今日は定時前に早退かね?」

 突然、セタの背後から声がかかった。

 彼が驚いて振り返ると、そこにはよく知る顔が立っていた。強張った肩を落として、セタは息を零した。

「……親父。まだ仕事だよ。買い物の途中か?」

 セタの背後に立つ男は、彼によく似た目じりを弧の形に曲げる。アカギという名の、セタの父親である。

「いいや、忘れ物があったから、家に戻るとこだな」

「忘れ物? なんだよ」

「財布だよ。ないと買い物できないだろう?」

と言ってアカギは微笑む。セタは父の言葉に呆れたのか、肩を竦めた。

「さ、役人の仕事の邪魔しちゃいかんな。いってこい」

 家の玄関でするような挨拶を聞いたセタは頭を掻く。

「あー……いや、俺も家にちょっと忘れものがある」

「なんだそうなのか? 寮暮らしのくせに。まあちょうど良いか、もちろん方向は一緒だな」

 そうして、二人は肩をそろえて歩く。セタは一瞬だけ、通りの向こうの清掃員たちの背中を見たあと、すぐに前を見た。

「最近は魔女様と仕事してるって聞いてるが、どうだ?」

「どうって言われてもな」

 最近は寮で過ごすことも多く、近況報告はルカヱルと仕事が始まる前にしかしていなかった。セタの脳内に、黄金の竜のすぐそばを追ったり、海中で不気味な竜に捕食されかけた記憶がふと浮かんだが。

 諸々込みで彼はこう答えた。「……ぼちぼちやってる」

「そうか、良いことだな。トーエさんに引き取ってもらった時はどうなるかと思ったが、いやはや、まさかこうなるとは思ってなかった」

とアカギは続ける。セタの父親だけあり、当然だが、彼の過去を何でもよく知っている人物である。セタがよそに隠している諸事情についても、当然詳しい。

(こうなるとは思わなかった、か……。我ながらそう思う)

 さて、次第にセタたちの向かう先に、エダの地によくある建築様式の集合住宅が現れた。平地が少ないジパングにおいて、多くの人間の棲み処を有効に確保するため、こうした形式が多い。

 家に着いてから、セタは自室に向かった。「セター、お前鍵持ってっか?」とアカギの声が別室から響くので、「あるよ」と短い返答を壁の向こうに投げた。

 自室に入ると、自分でも驚くほど物が少なかった。私物の多くは寮のほうに置いているから当然だった。

 ……しかし実のところ、そもそもセタたちは数年前にエダの地に引っ越して来た移住者である――以前暮らしていた彼の棲み処は、大きな地震によって倒壊してしまって、セタの私物は殆ど持ちこされていない。置くだけ置かれて中身があまり伴わない棚には、突っ張り棒だけついていた。

「忘れ物は見つかったか?」と、財布を見つけたらしいアカギが戻って来て、背後から声を掛けた。セタは、父親の顔が視界に入らないくらいに少しだけ首を動かすと、口を開く。

「親父。俺しばらく帰れなくなるかもだけど、良いか? 仕事で、しばらくここを離れるんだ」

 セタは出し抜けに言うと、アカギは即答した。

「そうか、鍵は持っとけよ。いってこい」

 家の玄関でするような言葉を掛けられ、セタが驚いた顔で振り返ると、アカギが笑っていた。

「い、良いのかよ」

「悪い事なんて、何もないだろう? ……母さんだって、お前の旅路を止めたりしないだろう。けど困ったことがあったら、いつでも帰ってこい」

「……」

 なんとなく、ズボンのうしろポケットに手を伸ばす。寮の部屋の鍵と一緒に、この家の鍵もそこに収められていた。鍵を確認したので、家を出ても問題ない。

 セタは顔を上げて父に答えた。

「……行ってくる」



 セタが来た道を辿って戻ると、あの清掃員は仕事を終えて、とっくに他所よそへ立ち去ったらしい。湿って水の滴る壁と、清掃時にできた街路傍の水たまりから、細い川のように水が広がっている。

 そんなスポットの傍に、またも見覚えのある人物。

 彼女はしゃがんで、その細い川を見つめていた。そんな出来損ないの流れに小魚がいるわけでもあるまいし、何を見ているのだろう。

「どうしてここだけ水浸しなんだろう。怪しい……」と、独り言が背中越しに聞こえた。

「ルカヱル様」セタが声を掛ける。

「ん?」

 魔女は振り返って、セタを見上げた。「ああ、セタ。ちょうど良かった。探してたよ」

「俺をですか?」

「フォルヴェントの件。背の高い雲が出た日に探しに行くから、大きな雲があるなーって思ったら私の家に来てね」

「大きな雲?」

 セタはなんとなく、空を見上げた。今日は晴れだ。

「背の高い曇ってのは、入道雲みたいな?」

 雷を落とすこともある雲である。単に雷雲といっても良いかもしれない。

「そうだね。セタ、フォルヴェントの雲って知らないですか? その竜が飛んだ後にできる、線みたいな形の雲」とルカヱル。

「それは知ってます」

 なにせ、ちょっと前にトーエとも話した話題である。「それと入道雲が関係するんですか?」

「うん。入道雲が見える空模様のときって、晴れ間も見えるものでね、フォルヴェントを探せるとしたら、そんな天気の時だと思う」

「雲と晴れ間が見える時……? なんでそう思うんです?」

「“その竜が飛翔するとき暗雲が裂かれ、代わりに2つの線状の雲が、その後を引く”――暗雲だけじゃなくて、その線状の雲が見えるような晴れ間が残る条件で、フォルヴェントが現れるはず」

「ああ……。そういうことですか」

 セタも情景を想像したら、理由が分かって来た。「でも、入道雲なんていつ発生するか分からないですよ。急に現れるものだし、ずっと空を見てるわけにもいかないし」

「空を見て過ごすのも良い物よ。以前、そのまま夜になって、星を数えていたら、そのまま朝になったことあるんだ」

「ええ……?」

 暇つぶしにも限度というものがあると思うが、悠久の時を生きる魔女にとって、そんなふうに一夜を過ごすのも有りらしい。

 ――その時、地鳴りのような音がして、セタは驚く。ルカヱルはゆっくりと音の方向を見遣った。

「……ふふっ。確かに、入道雲っていつ現れるか、分からないものね」

 二人の視線の先にうずたかい暗雲が見えて、セタの頬を冷たい風が撫でた。急速に成長したその積乱雲は、雷を抱えて、エダの地に接近しつつあった。


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