第5話
「―――――っッっ!!!」
空を斬る轟音が耳を過ぎ去る。セタの呼吸が一瞬止まった。
日常生活ではまず経験することのない急速な高度上昇によって、たった数秒間ではあるが、首が上がらないほどの重力を感じていた。
やがて加速が緩和されると、セタは顔を上げる。耳がきーん、としていた。ちかちかとする視界を数回の
「うわっ……」
彼の視界には、360度地平線が広がっていた。山肌がその輪郭を多少飾り、別の方角には水平線も見えた。その風景が信じられない速さで通り過ぎていく。魔女の箒は、馬など比較にならないほど早いようだ。しかしながら、なぜか逆風はほとんど感じない。魔法によって、周囲の風は脇に逸れているようだった。
浮遊感に足をふらつかせながらも、その非日常的な体験に純粋な感動を覚え、言葉も失っていた。
「………」
「よーし、上手く飛べました。それじゃあ、お目当ての方へ行きましょうか」
ルカヱルは変わらない調子でそう言うと、箒を動かした。穏やかな風がセタの頬を撫でて過ぎ去っていく。
「――セタ、大丈夫? 気絶してない? さっきから一言もしゃべらないですけど」
「大丈夫です。ちょっと、周りの風景に気を取られてました」
「そっか。君が方向を教えてくれないと、私も迷子になっちゃいそうだからね。もう私から手を離して、地図を見ても良いよ」
「えっ、いや、バランスが……」
“良いよ”と言われても、こんな上空で手を離したくない。一方、ルカヱルは笑う。
「大丈夫。ここまで上がれば、箒は安定するから。ソファに座ってるような感覚でいれば良いよ」
「ええ?」
“良いよ”と言われても、こんな上空でソファでくつろぐ体勢など取れない。
しかしセタは恐る恐る、ルカヱルから手を離す。確かに思いのほか安定していて、足の裏から浮遊感も無くなっていた。空中なのにおかしな話だが、足の裏が地面に付いているような感じがした。
彼が手を離すと、ルカヱルも体の向きを変えて、跨った状態から横向きになった。セタの視界に、ルカヱルの横顔が映る。
「――って! ルカヱル様、箒の操作は!?」
「別に私がどんな体勢で乗っていても、操作はできるよ」
平然と答えるルカヱル。彼女の眼は、地平線の向こうをじっと眺めているようだった。
「さっきちょっと言ったけど、私たち魔女の目は、マナのあるものが歪んで見えちゃうんだよね」
「はい。だから、俺が挿絵担当になったんですよね」
「地図もね、高級な奴は上手く読めないの。君にさっき渡した奴も、もともとは役所の人に貰ったんだけど、歪んで読めない。多分、顔料の中にマナ濃度が高いのが混ざってるせい」
なるほど、とセタは小さく呟いて、ルカヱルから受け取った地図を見る。
確かにそれは国に認められて公式に印刷している地図であり、顔料を使って色を塗り分けることで地形の情報を盛り込んだ高級品だった。しかしながら、それゆえに魔女の目には歪んで見えてしまうというのは皮肉ものだ。
「まえに炭だけで書かれた地図持ってたんだけど、ふふっ、百年以上前に無くしちゃったのです」
「そうでしたか。こう言っては失礼ですが、てっきり、方向を把握するのが苦手なタイプなのかと」
「方向を把握するのも苦手だよ」
と、ルカヱルは得意げに言う。
(なぜ得意げに言うんだ……?)とセタは呆れる。
「そもそも自然に生成した地形は、鉱物と植物のマナのせいで歪んで見えるから、もし地図がちゃんと見えても、地図に対応する地形がどこにあるのか、よく分からない」ルカヱルは肩を竦めた。
「なるほど。難儀ですね、かなり」
「ま、それでも長生きできるよ。ちゃんと家にも帰れるし。帰巣本能で」
「しかし、それだけすべてが歪んで見えるということは……もしかして、俺の姿とかも歪んで見えているのですか?」
「いや、それは大丈夫」
と、ルカヱルは首を振る。「大昔に確認したことがあるんだけど、普通の人間って、全くマナを持ってないみたいなの。死んで乾いた植物みたいに」
「その例えはちょっと」
「だから、君のことは歪んで見えてないはずです」
そう言って、ルカヱルは手のひらをセタの頬に向けて伸ばす。
セタが反射的に身を退けると、ルカヱルはさらに手を伸ばし、頬に触れた。
「………」
「ほらね、ちゃんと君の輪郭は見えてるよ」
「み、たいですね……」と、ぎこちなくセタは応じた。
ルカヱルは手を引くと、再び地平線の彼方へ視線を戻した。
魔女の横顔を見ていると、妙な感覚になる。「魔女」は生物学上、「人間」とは別の生物であり、健全な魔女の寿命は千年を優に超えると言われる。当のルカヱルも、ジパングに移り住んだのは数百年も前らしく、その前は別の場所にいたとのことだ。
(けど魔女だって知らなかったら、ルカヱル様の見た目は普通の人間と同じだよな……)
眉目秀麗で、絵のモデルとしては全く文句のつけようがないほどで、逆に絵画世界の住人が現実に飛び出してきたのだと言われても、納得できるくらいで。
セタは目を逸らすように、ルカヱルが見ているのと同じ方へ視線を向ける。相変わらず壮観な背景は、走馬灯のように口惜しい速さで過ぎ去っていく。
(でもルカヱル様の目には、この風景はどう映ってるんだろう)
「歪んで見えるんだよね」
「えっ?」
「この風景。分かるのは海と空が青くて、雲は白いってことくらいで……。山の輪郭とか、森の範囲は、水に溶かして溢れた顔料みたいに曖昧で、揺らいで見えるんです」
想像しようとしても、セタには難しかった。
むしろ彼は、目に見えたものが極めて正確に記憶に残る体質である。かつてグラフィティを一晩足らずで残せたのは、異様な速筆だったこともあるが、モデルを確認するという作業が存在しないから、という事情もあった。まるでステンシル越しに輪郭をなぞるのと同じように、セタは絵を描ける。
セタにとって自分の知っている文字を描くのと風景画を描くのは、大差ない作業なのだ。
(でも何度か捕まりそうになったこともあった――っていうか、トーエさんに見つかったんだけど)
“お前さん、どうしてそんなことしてんだ?” ――そのときトーエは、ただ純粋に不思議そうにセタに尋ねた。批判するわけでもなく、窘めるわけでもなく、
「――セタ、ひとつ、お願いがあるんです」と、ルカヱルが急に切り出す。少ししおらしい口調で。
「え、お願い? すみません、方角のガイドのことですか? 今は合ってますよ、太陽の方角的にも」
「いえ、それとは別件で」
と言って、ルカヱルはセタを横目でうかがう。「君、一度見たものは覚えられるって言ったよね」
「はい」
「今度、もし暇だったら……私に、絵を描いてくれないですか? なんでも良いから、風景画」
「ルカヱル様に絵を?」
セタは目を丸くする。
ルカヱルは視線を風景の方に戻した。
「さっきも言ったけど、生まれてからこの方、私の目に映る風景は歪んで、揺らいだままなの。色のついた絵画を見せてもらったことはあるけど、顔料のせいで歪んで見えたから、実はよく分かってないんだ」
「じゃあルカヱル様が欲しいのは、デッサンってやつですか。色を塗ってない、白黒の画」
「まあ、そうかな。あ、描くときは木炭でお願いね。インクとか、たまにマナが残ってるので」
「木炭で? ……ああ、“死んで乾いた植物”、だからですか?」
「うん。ふふっ、理由が分かった?」
木炭は植物を炭化させたものだから、ルカヱルの目には、ちゃんと見えるらしい。
(顔料に鉱物の粉が入ってるものも多いし、チョークとかもダメってことか……デッサンはともかく、色を付けようとするとなかなか難しい話だな)
そう思いつつも、セタは頷いていた。
絵を描くこと自体は好きだから、条件が付いていても断る理由もなかった。
「分かりました。良いですよ。旅の途中で、時間があれば」
「本当?」
ルカヱルは目を丸くして、それから笑った。「ありがと」
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