16. 涙の桜坂
2000年4月29日(日)。その「運命の日」はやって来た。
彼女、大門寺里美は、成田空港発ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港行きの、12時50分発の便に乗ることが決まっていた。
俺は、結局、4月以降もバイトを続けていたから、一応、その日ばかりは休みをもらい、朝から成田空港へ向かうのだったが。
「ただいま、人身事故により、小田急線全線で運転を見合わせております」
世田谷代田駅に着いた途端、館内放送が響いていた。
「クソッ。こんな時に」
ついていないとは思いつつも、幸い隣の下北沢駅までは歩いても行ける。そこから渋谷経由で新宿に行って、成田エクスプレスに乗れば、何とかギリギリで間に合うだろうという算段をつけた。
実際、世田谷代田駅から下北沢駅までは、歩いてもわずか10分程度。
そして、京王井の頭線に乗り、渋谷駅までは到達した。
ところが、
「ただいま、人身事故により、山手線は全線で運転を見合わせております」
今度は山手線が動かない=ここは別ルートを使うしかなくなる。
つまり、通常だと新宿から成田エクスプレスに真っ直ぐに乗って、成田空港まで行ける。だが、山手線が動かず、当時はまだ「湘南新宿ライン」もなかったため、このままだと新宿から成田エクスプレスに乗れない。
そのため、渋谷から営団地下鉄(現在の東京メトロ)銀座線と丸ノ内線を乗り継ぎ、東京駅に行き、そこから成田エクスプレスに乗るルートを選択。
実際、これなら山手線でぐるっと回るより多少近くなる。
ところが、今度はその「成田エクスプレス」が車両故障で止まっていた。
どんだけ、俺を成田に行かせたくないのか? という神のイタズラにしか思えないほどの「不幸の連鎖」で、俺は東京駅で足止めを食ってしまう。
運転再開は未定だった。
そして、海外に行く時、つまり国際線に乗る時には、出発の2時間前、遅くとも1時間前にはチェックインをしなければならない。
現在時刻は、9時50分。どんなに速くても空港までは、成田エクスプレスで1時間はかかる。
それだと今、出発しても到着は10時50分。これから遅れることが見込まれるから、さらに伸びてギリギリになる。
仕方がない。
タクシー乗り場に行ってみることにした。持ち金はなかったが、最悪、カードを使うという手がある。
しかし、この非常事態に、やはりと言うべきか。並んでいた。
俺は仕方がないから、待つものの、一向に動く気配がない。10分、20分待ってようやく先頭に並びかける。
仕方がない。
彼女に電話をかけた。
「今、東京駅で、ちょっとトラブっててな。遅れる」
「えっ。もうチェックインしちゃうけど」
「すまん。間に合わないかもしれん」
「マジで?」
「マジだ。すまんな」
「ううん。仕方がないよ。けど、私は行くよ。今さら取り消したら、キャンセル料もかかるし、今日が『その日』って決めてたから」
「ああ、それでいい」
俺は電話越しに大きく頷いていた。
彼女は、元々、そういうところがある。「縁起を担ぐ」というか、「やる気になる」きっかけがないと動かない。
その意味では、だらしなくも見えるが、一旦、「火」がつくと、どこまでも行けるところがある。
内心、最後くらいは抱きしめて、見送るくらいのことはしたかったが、間に合わないなら、仕方がない。
とりあえず、タクシーが到着したので、俺は急いで電話を切ろうとした。
「待って、マーシー」
その前に止められた。
「何だ? 今からタクシーに乗る。早くしろ」
言い淀んでいるのか。それとも泣いてでもいるのか。しばらく間があって、俺は後ろに並ぶ客から怖い目で睨まれていた。
「ごめん。やっぱ何でもない。ありがとう」
それが彼女とかわした「最後の言葉」になってしまった。本当はこの時、彼女が「何を」言いたかったのか、わからないままだった。
俺は、タクシーに乗り、一路成田空港の国際線ターミナルに向かった。
向かったのだが、この日は「運が悪い」ことに、大型連休のゴールデンウィークの初日。もちろんコロナ禍などなかったから、実は「出国ラッシュ」状態が起きており、それによって、高速道路が渋滞していた。
「お客さん。これはしばらくかかりますね」
運転手に言われて、俺が目を向けると、うんざりするくらいの車列が続いていた。
「どれくらいですか?」
「うーん。1時間、いや1時間半かもしれないですね」
腕時計を見る。時刻は10時50分を回っており、そこから計算すると、1時間半なら、到着時間は、12時20分。
出発はしていないが、恐らくその時間なら、最終搭乗手続きをしている頃だろう。
(間に合わないか)
さすがに走っていくわけにもいかず、俺は半ば諦めるのだった。
そして、実際にこの渋滞は長く続き、到着した時には、予想より長い12時50分ギリギリだった。
どう考えても間に合わないと悟った、俺は空港の展望デッキに上った。
彼女が乗る、飛行機はわかりやすく、搭乗ゲートにシェルターのようなトンネルで繋がっていた。
それがゆっくりと降ろされて、滑走路に飛行機が流れていく。
最後に彼女に会うことはできずに、飛行機はやがて、滑走路から飛び去って行った。
(里美。がんばれ)
内心、応援をしながらも、俺は空港の出発ロビーに戻った。
巨大なモニターから、特徴的な美しい声が流れていた。
福山雅治 「桜坂」。
つい3日前の2000年4月26日にリリースしたばかりの新曲だった。
足を止めて、そのミュージックビデオを眺めながら、そのフレーズを聞いているうちに、俺は自然と涙を流している自分に気づいていた。
―君よずっと幸せに―
―風にそっと歌うよ―
―愛は今も 愛のままで―
―揺れる木漏れ日 薫る桜坂―
―悲しみに似た
―君がいた 恋をしていた―
―君じゃなきゃダメなのに ひとつになれず―
―愛と知っていたのに―
―春はやってくるのに―
―夢は今も 夢のままで―
『福山雅治』 『桜坂』より引用
涙が幾重にも重なり、そのミュージックビデオを見る、俺の瞳を濡らし、眼鏡と肌の間からとめどなく涙が溢れて、止まらなかった。
この時、俺はやっと「大切な物を失った」という、本当の悲しみに気づいたのだ。
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