12. すれ違い

「ちょっと、叔父さん!」

「んあ?」


「だから、寝ないでって!」

「ああ。悪い悪い。昨日、遅くまで残業しててな。最近、そもそもあまり寝てないんだ」

 一番大事なところで、話をぶった切られて、欲求不満に陥っていた僕の期待感を返せ、と内心、思いつつも、さすがに疲れている叔父さんを連れ回すように、酷使するのもかわいそうだと思ったので、その日は仕方がないから、辞去することに決めたのだが。


 その前に、僕は叔父さんに直球で聞いていた。

「今日は帰るけど、一つだけ教えて。里美さんにはこの後、告白したんだよね?」

「告白?」


「だから、叔父さんの気持ちを、だよ」

「いや」


「マジで? 何で? あの流れはどう見ても告白する流れでしょ!」

「何を怒ってるんだ、海斗」


「怒るよ、そりゃ。このヘタレ叔父さん! だからモテないんだよ!」

 捨て台詞を吐いて、僕は、叔父さんを残して、マンションを足早に去って行った。


 だが、実はこの時、叔父さんは「重大な嘘」をついていた。もっとも、それが嘘だとは後でわかるのだが。そして、厳密にはそれは「嘘ではない」ことも。



 その後、僕が叔父さんのところに行ったのは、さらに1週間後の8月22日(土)だった。

 その時は、珍しいことに、叔父さんが家から出て、外出するというので、それに従って、とある場所で待ち合わせをした。


 その場所とは、意外な場所だった。

 上野公園だったからだ。


 上野恩賜公園とも呼ばれる、日本で最も古い公園とされる、この有名な公園。

 連日の猛暑の中、確かに家にいるよりも、不忍池しのばずいけがある、水面に面したこの辺りの方が涼しい気持ちを味わえるのかもしれないが。


 ミンミンとうるさいほど、鳴いているセミの大合唱の声を聞きながら、僕たちはアイスクリームを食べて、ベンチに座っていた。


「海斗」

「ん?」


「仕方がない。続きを話そう」

 どこか乗り気ではないように見えた叔父さん。僕の目から見れば、むしろ2000年を過ぎた辺りから、里美さんの様子が、前年以上に「可愛らしく」見えてきて、それこそが「恋する乙女」の表情にすら思えていたが。


 逆に叔父さんは、この辺りからどこか沈鬱な表情を浮かべるようになるのだった。



 2000年2月。

 あの秋葉原での逃走劇の後。


「里美」

「は、はい」


「一度しか言わないぞ。俺はお前のこと……」

 だが、その時だった。


 けたたましい携帯電話の音が、俺の腰から鳴り響いていた。

「は、はい」

 滅多に来ないはずの携帯を手に取って、ボタンを押し、耳に当てていた。


「えっ。今からですか? はあ。はい。わかりました」

 電話を切った後、彼女から思いきり睨まれていることに気づいた。


「何?」

「何じゃなくて、続きは?」


「続き?」

「だから、さっきの続き!」


「ああ。ごめん。実はちょっとバイト先からヘルプ頼まれてさ。すぐに戻らないといけなくなった」

「そうじゃなくて、私に言いかけてたことの続き!」


「ごめん。それどころじゃなくなった」

「はあ? 超MMなんだけど」


「ごめん。また今度な!」

 慌てて手を顔の前で合わせて、俺は急いで駅へと向かうのだった。

 その背に、


「このバカ! バカマーシー!」

 との叫び声を受けながら。

 超MM。「超マジムカつく」とまで言われていた、女心がわからない俺だったのかもしれない。



 2020年に意識を戻し、僕は訴えていた。

「叔父さん。失望したよ、僕は」

「そう言うな。バイトとはいえ、緊急だったんだ」


「そもそも、何を言うつもりだったの?」

「ああ。俺はお前のことを奴だと思うって……」


 盛大な溜め息が僕の口から漏れていた。叔父さんはその時、最初から告白する気などなかったらしいことがわかった。

「はあ。だから、婚期を逃すんだよ」

「散々言いたい放題だな。俺だって一応、数年前に婚活くらいしたぞ。ダメだったけど」

 そして、事態は急展開を迎えることになるのだった。



 2000年3月。

 日本で3月とは「別れの季節」を現すことが多い。それは卒業シーズンと重なるからだが、ここでも「旅立つ」若者がいた。


「秋子か」

 珍しく、家にまでやって来たのが、秋子だった。


 しかも、あれ以来、俺は何となく、里美には「会いづらい」と感じていたから、尚更、彼女が来たのは、一種の「救い」になっていた。


 さすがに汚い部屋に招き入れたくはなく、彼女を誘って、喫茶店に向かった。


 そこで、珍しく真剣な表情を浮かべ、切羽詰まった様子の彼女の理由を聞いてみると。

「政志。私ね。北海道に赴任することになったんだ」

「はあ? 北海道? 何で?」

 教師になりたくて、教員免許試験をがんばって受けて、合格していた彼女。真面目な性格で、教育実習もがんばり、生徒からの信頼を勝ち取っていたという。


 まさに、「里美」や「俺」のようなだらしない奴とは真逆の奴だった。


 だが、付き合いが長い分だけ、俺は秋子のことをある程度、知っていた。こいつが「寂しがり屋」なことも。


「私が教育実習に行った母校は、人手が足りてるんだって。その反面、北海道の美瑛びえい町の学校は人手不足だから、来て欲しいって」

「……」


 無言で、押し黙る俺に、彼女は、「試す」ように口を開いた。

「ねえ」

「ん?」


「あなたは、どうして欲しい? 私に行って欲しい? それともここにいて欲しい?」

 それはまさに、秋子からの「挑戦」でもあり、恐らく「最後通告」だったのだと思う。


 俺の答えは、逡巡をはらみながらも、概ね決まっていたからだ。

「お前はすごいよ」

「えっ? すごい?」


「ああ。だって、教師になりたいって、夢を持って、ちゃんとがんばって叶えたじゃないか。俺なんか、ロクに就職先も決まらない、ただの落ちこぼれさ」

「そんな……」

 言いかけた彼女が、口を噤んだ。

 中途半端な同情や慰めが、かえって相手を傷つけると悟ったかのように。


「やりたいようにやればいい」

「えっ」


「いや、ごめん。違うな。せっかくのチャンスだ。行ってくればいいんじゃないか」

 それがきっかけだった。


 彼女は、吹っ切れたかのように、笑顔を見せて、

「わかった。じゃあ、がんばってくる」

 そう言って、決意の瞳を向けた。


 だが、その反面で、突っ込まれていた。

「里美さんはどうなったの?」

 と。


 まあ、当然だろうが、あんなことがあって以来、会っていないということを口にすると、秋子にまで「呆れられて」いた。深い溜め息と共に、彼女は、告げるのだった。まるで「出来の悪い弟に発破をかける」ように、あるいは「出来の悪い息子を叱る母親」のように。


「女心がまるでわかってない。だからモテないんだよ」

「そんなこと言われたってなあ」


「いい? 仮にもあなたが彼女を『導いた』のなら。男なら最後まで責任を取りなさい」

「責任を取る? 結婚しろってか?」


「そうは言ってない」

「じゃあ、何だ?」

 次第にイライラしている自分にも腹が立っていたが、実際、俺は彼女の意図が何もわかっていなかった。


「歌手になりたいって言ってた彼女を、あなたは後押ししたんでしょ。なら、途中で『逃げる』ようなカッコ悪い真似はしないこと! いい?」

「は、はい」

 俺は、多分気迫に押されていた。


 喫茶店の客の多くが、この彼女の剣幕に呑まれるように、ひそひそ話をして、彼女は注目を浴びていた。

 一つ、恥ずかしそうに咳払いをした後、秋子は、こんなことを口にしたのだった。


「これは、あくまでも私の持論だけどね」

「ああ」


「男でも女でも関係ない。夢を持っている人には、それを後押しする人間が必要なの。何故だかわかる?」

「まったくわからん」


 小さく「鈍感ね」と愚痴る彼女の声が聞こえたが、無視して続きを促していた。

「夢を持つ人間は、夢に向かって、全速力で走り出す。その時、脇目も振らずに、走り続けるから、どうしたって、途中で死ぬほど疲れることがあるのよ」

「はあ」

 彼女の「比喩」がよくわかっていない、俺の頭を困惑させていた。


「そんな時、彼、あるいは彼女に寄り添う人間がいるのと、いないのとでは、雲泥の差が生まれるものなの」

「わかったような、わからないような」


「まあ、あなたみたいな、『夢も持たない』だらしない人間には、わかるはずもないけどね」

 結局、最後は、呆れられていたというか、馬鹿にされていた気がしていたが。


 それでも別れ際に、彼女は不思議な一言を、まるで「餞別」のように投げてきた。

「あなたも、何でもいいから『目標』を持てばいいわ」

「目標ねえ」


「何でもいい。別に『総理大臣になる』とか『弁護士になる』みたいな大きな目標じゃなくてもいい。『資格を取ろう』みたいな小さな目標でもいい。それを積み重ねて、人生は作られていくの」

「さすがだな、先生」

 俺が、そう言って反応を示すと、さすがに照れ臭そうに彼女は目を逸らしていた。


「茶化さないで」

 そう、少しだけ怒ったような口調で、言った後、彼女は、

「じゃあ。元気でね」

 と言って、手を翻して、去って行った。


 俺と彼女は、結局、「すれ違い」のまま、別れた形になったとも言える。むしろ「互いの線と線が交わらなかった」が正しいし、幼なじみというのは、得てしてこういうもので、物語のように劇的な恋愛には発展しないことの方が多い。


 幼なじみのような女性と過ごした、青春の1ページは去った。

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