29,糞便の置かれた酒場 ー現場検証ー
途中から加わったアリスに、ミルは現場の状況を説明することとなった。
「まずは、この窓からだ」
ミル、アリス、そしてマスターの三人は、酒場の入り口から入って右手側にある窓へと歩み寄る。
その窓は両開きで、鍵が中央に取り付けられており、それぞれ縦三つと横二つに木の枠で区切られている。
そして、店の中から見て右側の窓の一部が割れていた。その割れた部分は鍵のすぐ横で、そこから手を入れれば外からでも鍵を開けられそうであった。そして、割れた窓の破片が店の床に落ちていた。
「恐らく犯人はここから侵入したものだと思われる。ハンマーか何かで窓ガラスに手が入るくらいの大きさの穴を空け、手で鍵を開け、窓を開いて侵入した」
ミルは自らの手帳と店の窓を交互に見ながら、アリスに対して説明する。アリスはその説明を聞きながら、訝しげな顔で窓の割られた部分を見つめる。
よく見てみると、割られたところに密接している木の窓枠に、ドライバーのようなもので傷つけられた跡があった。
「ふーん。昨日の晩、窓が割れる音は聞かなかったのか、マスター? 」
アリスは腕を組み、マスターの方へと視線をやる。
「ああ、聞かなかったと思うぞ。寝ている間に割られて気づかなかっただけかもしれんが……」
「そうか。まぁ、犯人がここから侵入したのは間違いないだろうな。ガラスの破片が店の中に落ちてるのは外から割ったって証拠だし、わざわざ割る理由が他に見つからねぇし」
アリスは考え込みながら、ふとミルの方へと視線をやった。
「そう言えば、他の警察官はいないのか? オーランドはよ? 」
アリスがミルに尋ねる。
「ラドクリフ警部補は休暇を取られている。今日は私一人だ。」
「休暇? ハッ! あいつもラッキーだな。偶然休んだ日にこの事件が起きてくれて。さぞ、優雅な朝を過ごしてることだろうぜ。部下がクソまみれになって事件を追ってるていうのによ」
「おい、私はクソまみれにはなってないぞ! それにラドクリフ警部補が仮に今日休みでなくても、彼は忙しいからこの小規模な事件には出向かないと思うぞ? この事件は、新人の私とか、変な事件専門の探偵であるお前とかが受け持つものだ。警部補の出る幕じゃない」
「別に私は変な事件専門じゃねぇよ」
「お前こそ、助手が二人いると聞いていたが、なんでいないんだ? 」
「おっさんはバイト、ガキは学び舎だ。あ~ぁ、全く何でこんな事件の時に限って誰もいないんだよ。相棒が小動物じゃ頼りにならねぇなぁ〜。サーカス団員じゃねぇんだぞ、私は」
アリスがミルから目を逸らしながら、うんざりした様子で言う。
「そ、それはこっちの台詞だ! お前みたいなクソ野郎だけなら私一人の方がマシだ! 」
それに対抗して、ミルも強い口調で返し、プイッとよそを向いた。
ミルは窓を離れてアリスを部屋の中央へと誘導する。
「次は倒された椅子と机だ」
ミルは左手に持った手帳を見ながら、倒された椅子の一つを指差す。
「窓から入った犯人は、店の中にある椅子と机を乱暴に倒した。恐らく、犯人の目的はマスターへの嫌がらせだと思われる」
「嫌がらせ? 」
「そうだ。泥棒とかだったら、こんなに椅子と机を倒す意味がないからだ」
「……盗まれたもんとかはないのか、マスター? 」
アリスが視線をマスターの方へと向けて問いかける。マスターは二つ返事でそれに答える。
「ああ、ぱっと見盗まれたものはなかったぞ」
「絶対にか? 」
「うーん……まぁ、そう言われると断言はできないが……。もし、何か盗まれてたとしても、俺が気づかないくらいの物ってことだろ? この店の中に、わざわざリスクを冒して盗みに入るほどの物なんて、売上金以外ないと思うけどな」
マスターは腕を組み、眉を顰めながらアリスに言う。
「そうか。まぁ、確かに嫌がらせの線が濃厚かもな。そうじゃなきゃ、床にクソをしてった理由がわかんねぇし」
アリスはそう言いながら、ジトっとした目で糞便を睨む。
「……うえっ」
糞便を観察しようと、数秒間それに目を向けたアリスだったが、やがて気分が悪くなりえずいてしまった。
「だめだ。あれを見たら気持ち悪くなる……」
アリスは口を抑えながら、糞便から目を逸らす。
そんな彼女に、ミルは手元の手帳に視線をやりながら言う。
「一応、お前が来る前に糞便を観察して、特徴をメモしておいたぞ」
ミルの言葉に、アリスは驚いた表情を浮かべた。
「クソの特徴をメモした? ……ちょっと、その手帳見せろ」
そう言った後、アリスはミルが持っている手帳に手を伸ばし、彼女の許可を得る間もなく奪い取った。
「あっ! ちょ……」
アリスはミルから奪い取ったメモ帳を見る。
「……ぷっ! 」
アリスは彼女のメモ帳を見た瞬間、思わず吹き出してしまった。
「あっはっはっはっはっはー! 」
そして、そのまま腹を抱えて大笑いし始めた。
「お、おい! 何が可笑しいんだよ!? 」
ミルは、笑っているアリスを不審に思いながら問い詰める。
「……? 一体、何をそんなに笑っているんだ、アリス? 」
不思議に思ったマスターがアリスへと歩み寄り、彼女が持っているミルのメモ帳を覗き込む。
そのメモ帳には、床に置かれた糞便の模写が描いてあり、その絵の周りには糞便の見た目の特徴が言葉で書き記されていた。
「……ぶははははははっ! 」
それを見た瞬間、アリスに続いてマスターも笑いだす。
「おい、お前ら! わ、笑うなよ! 」
ミルは、腹を抱えて笑っている二人に強い口調で言う。しかし、アリス達の笑いは止まらなかった。
「お前、なんで手帳にクソの絵なんか描いてんだよ! あっはっは! 」
「……っ! 事件の手がかりだからに決まってんだろ!? 一応、その時の状況を絵とか言葉で書き残してるんだよ! 」
「だとしても、クソの模写はねぇだろ! 何だよ? 絵の横の“割と硬めだと思われる”って! あっはっは! 」
「おい! お前が見せろっていうから見せたんだぞ! そんなに笑うんなら、もうお前には見せてやらないからな! 」
ミルはそう言って、アリスの手から自分のメモ帳を奪い返した。
メモ帳を奪われた後も、アリスとマスターは爆笑し続けていた。ミルはそんな2人のことを横目で睨んでいたが、余程恥ずかしかったのか、その顔はトマトのように真っ赤であった。
やがて、ひとしきり笑った後、冷静になったマスターがミルに謝罪をする。
「いやー、笑ってすまなかったな、お嬢ちゃん」
「……」
「そんな怒らないでくれよ~。あまりに不意打ちだったもんでつい、な? ……よし、気を取り直してアリスに現場の説明の続きをしてやってくれ」
「……私は構いませんが、彼女はまだ笑いが止まらないみたいですよ? 」
ミルは呆れたような表情で左斜め下方向に視線をやる。
そこには、地面に膝をついてグーで床をバンバンと叩きながら笑い転げているアリスがいた。
「あっはっはっはっは! "色は黒。お腹の調子が悪かったと思われる"。あっはっはっはっはっは! 」
「あいつ、どんだけ笑いの沼に嵌ってるんだよ……」
最初は一緒に笑っていたマスターも、一向に笑いが止みそうにないアリスに困惑していた。
「あっはっは! ひぃ~……ゲホッゲホッ! ……オエッ! 」
笑い過ぎて咽た。それを区切りにして、アリスの笑いはやっと収まった。彼女は咳を数回した後、よろよろと立ち上がってミルとマスターに言った。
「あー、面白かった。……で、今何してるところだっけか? 」
「お前に現場の説明をしてたんだよ! 」
「あ~そっか。じゃあ、続き頼むわ、糞便ペインター。……フッ」
「誰が糞便ペインターだ! お前まだ私のこと馬鹿にしてんだろ!? 」
必死に笑いを堪えているアリスを、ミルは怒鳴りつける。
「……なぁ、そろそろ話を進めないか? 」
そんな二人を眺めながら呆れたような口調でマスターは呟いた。
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