26,糞便の置かれた酒場 ー序曲ー
ミル・ベイカーは幼い頃から正義感が人一倍強かった。
同じ学校の同級生の男の子がいじめられていた時にはその子に手を差し伸べ、逆にいじめていた男の子達には制裁を加えんと立ち向かっていった。
しかし、彼女は体が小さく、同級生よりも遥かに幼く見えた。
それ故、その男の子達の相手になるわけがなく、更に女の子であった為、喧嘩するのもどうなんだと相手が考え、軽くあしらわれて終わることが常であった。
それでも、その場で一応いじめは収まるので、いじめられていた子からは感謝された。
北アイルランドの片田舎で産まれた彼女は、両親と祖父母の愛情を大いに受けて育った。
そんな彼女は次第に警察官を志すようになった。正義感の強い彼女にはぴったりの仕事である。
学校を卒業した彼女は、片田舎を飛び出てイングランドの都会へ。グレーターロンドンを管轄としているスコットランドヤードへと入隊した。
スコットランドヤードの巡査となった彼女は、主にフォギーフロッグという街で起きる事件の捜査に当たることとなった。
片田舎の小さな少女は、今や頼れる街の警察官となった。
彼女は今日も心に正義感を灯し、スコットランドヤードの制服に袖を通す。
事件を解決し、悪を懲らしめる為に……。
フォギーフロッグの南西部にハマード・ザ・キングという名の酒場がある。
店内には、お客さんが使用する木造りの丸テーブルと椅子が多く並べられてある。そして、奥にはマスターが使うバーカウンターと、多くの酒が並べられた棚が配置されている。
内装も外観も他の酒場とあまり変わらない、至って普通の大衆酒場である。
ミル・ベイカーはその店で、困惑した表情を浮かべながら仁王立ちをしていた。
彼女が困惑している訳、それは目の前に置かれた"とあるもの"が原因であった。
「……大体、話はわかりました。つまり、こういうことですね? 」
ミルは苦い顔をしながら、この店のマスターに向かって話す。この店のマスターは、ビリーという名の大柄な黒人の男性だ。
「早朝、目が覚めたマスターがここに来てみたら、窓ガラスが割られ、店内の机や椅子が倒されていて、おまけにこれが床に置かれていたと……」
ミルは鼻をつまみ、目の前の物体に視線をやりながら言う。マスターはそれに、こくりと頷きながら答えた。
「ああ、そうだ。”クソ”が置かれていたんだ。どこのどいつが何の為に置いていったのかは全くわからんけどな」
荒らされた店内に置かれた、とあるものの正体、それは紛れもない”糞便”であった。
「……おえっ」
ミルは糞便の臭いにやられて、えずいてしまう。
一方、マスターはもう糞便の臭いに慣れてしまっていた。
「誰がやったか知らんが、犯人にはそれ相応の報いを受けさせるつもりだ。少なくとも、俺の前でこの糞を実食してもらうくらいのことはさせてやる! 」
マスターは握りこぶしを作り、それをプルプルと震わせながら怒りの籠った口調で言った。
「と、とりあえず、現場を検証してみましょう。店の中を探せば、何か犯人に繋がる手がかりを見つけられるかもしれません」
ミルはマスターの怒りを鎮めようと、そう提案した。
「ああ、そうだな、お嬢ちゃん。ところでなんだけどよ……」
マスターは先程の怒りに満ちた口調とは打って変わって、不安そうにミルへと質問をする。
「ここへ来たのはお嬢ちゃんだけかい? 他の警察官は……? 」
不安気な表情で言うマスターに、ミルは堂々とした態度で答えた。
「ここへ来たのは私だけです。ですが、安心してください。この事件の犯人は必ず見つけ出します」
ミルはそう言うと再び床に置かれた糞便と向き合った。
「なるほど……それは心強い……」
マスターは言葉とは裏腹に、現場に来たのが一人の新人女性警官だけであることがとても不安であった。
「……ちょっと電話してきてもいいかい、お嬢ちゃん? 」
マスターは店の奥にある電話を指差してミルに問いかける。
「……ええ、どうぞ。……あっ! ですが、念の為、店内のものはあまり動かさないでください! 犯人への手がかりが消えてしまう可能性がありますので! 」
ミルは慌ててマスターに伝えた。
「……動かすなって、この糞便もそのままにしとけってことか……? 」
マスターが恐る恐る尋ねる。
「はい! この糞便も置いておいてください! 」
ミルはハッキリと答えた。
「嘘だろ……」
マスターは信じられないといった様子でそう呟いた。
だが、警察である彼女の要求を受け入れないわけにはいかない。
「お、おう……。わかったよ、お嬢ちゃん」
マスターは渋々そう言った後、店の裏へと向かった。
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