第41話 酒の神、光る酒

 八本の腕、袈裟の様な服、長い髪。

 社の中で見た酒の神様の像そのままの姿の人物が、目の前に座っていた。


「ようやく来たね」


 その人物は僕を見ると、嬉しそうに笑みを浮かべた。

 美しい人だと思った。

 声から察するに、女性だろうか。


「性別のない神様だっているんだよ」


 こちらの考えを読んだように相手は言う。


「あなたが酒の神ですか?」

「そう呼ばれているね。でも、酒の神は私だけじゃない。八百万の神と言う言葉があるように、誰かが信じる数だけ神様はいる」


「座りたまえよ」と言う神の言葉に促され、僕も丸太に座った。


 今日一日、たくさんの異形の者たちと話した。

 その中には、弁天さんたちのような神様もいた。

 彼女たちは高名な神様のはずだ。

 それなのに、この神はどこか違う気がする。

 他とは一線を画した、神聖な存在に思えた。


「聞きたいことがあるんですけど」

「話してご覧」

「今日、どうして僕と先輩を街に呼んだんですか? あれって偶然じゃないですよね」

「今宵、酒が君達を好いてる気がした。私は長らく一人酒をしていてね。君たちなら、私の元に辿り着けると思ったんだ。もっとも、君の先輩は残念ながら潰れてしまったみたいだけどね」

「潰れた?」


 そうか、そう言えば僕たちは飲み比べをしていたのだ。


「ここは夢なんですか?」

「君らが酩酊している間だけ私が見せられる世界……。夢みたいな物だね」


 先輩が消えたのは、現実世界で彼女が潰れたと言うことだろう。

 つまり、僕は今もまだお酒を飲み続けているのだ。


「とりあえず飲もう。あまり多くを語りすぎるのは良くない。君がここに居られる時間にも限りがあるからね」


 酒の神はそう言うと、自身の持つ杯に酒を入れた。

 他の腕が持つ七つの酒を少量ずつ、杯に加えていく。

 最後の一つを杯に入れると、注がれた酒は急に光りだした。

 月の様に、柔らかい光を帯びている。


「光る酒……」


 思わず呟く。

 酒の神は笑顔を崩さずに杯を僕に手渡した。


「飲んでごらん」


 言われるままに酒を口へ運んだ。

 光が体内へ取り込まれていくのが分かる。


 その瞬間の感覚は、人生で体感したことのないものだった。


 森の息吹が、命の芽吹きが、風の流動が、水の濁流が、火の輝きが、星の瞬きが、月の光陰が。


 さまざまな物が、体に取り込まれ、広がる感覚がしたのだ。

 浸透していく。

 それは、世界と一体化したような……言葉では言い表せない感覚だった。


「森羅万象が溶け込んだ味だ」


 神の言葉を僕は黙って聞いた。


「この酒は、世界そのものだ。この世の理であり、世界の真理とも呼べるかもしれない。過去、現在、未来、それぞれが織り成してこの酒の味を出している」


 酒の神は僕をただ真っ直ぐに見つめる。


「この酒を飲むことはすなわち、世界を知ることに等しいのかもしれない」


 今まで一体どれだけの者がこの酒を口にしたんだろう。


「わからない。ただ、それほど数は多くないはずだ」


 そんな貴重なものを、果たして普通の学生である僕なんかが飲んで良いものだろうか。

 疑問に思っていると、酒の神はゆっくりと杯を口にした。


「この世界には数多の酒を飲む者たちが居る。それでも、ここまでやってこられたのは、過去に数えるほどしか居ないんだ。今宵、君は私に気付いてくれた。私の存在を肌で感じてくれた。長い間一人酒をしている私にとって、それは充分すぎるほどに嬉しいことなのさ」


「真理を味あわせても良いほどにね」と神は付け加える。


「あの宴の街は、あなたが作ったんですか?」

「あぁ。私と共に飲んでくれるものが現れることを期待してね」

「じゃあ、あの神社の像は?」


 すると、酒の神はどこか遠い目をした。


「あれを作ったのは、私が始めてこの酒を飲ませた者だよ」

「それって一体……」


 更に質問を重ねようとして、僕は言葉を止めた。

 あまり多くを語りすぎるのは良くない。

 聞きたいことは山ほどあった。

 でも、聞かないことにする。


「そろそろ時間だね」


 月を見て神は言う。

 随分短い酒の席だ。


「また、会えますかね」

「君がこれからも酒に好かれるなら、会えるだろうね」

「じゃあそう居られるように、努力しますよ」

「嬉しい返事だ」


 そこで視界が歪む。

 一本の映画のフィルムが切れるかのように、終わりを迎えようとしている。

 意識が現実へと戻り始めているのだ。

 視界にノイズが走る。


「座敷わらしにこう言っておいてくれないか」


 乱れた視界の中、神が言った。


「来るべき時が来たら、杯を交わそう。必ず」

「伝えます」


 僕が最後に見たのは、仏の様な酒の神の笑顔だった。




 気がつくと。

 目の前に、空になった壺が置かれていた。

 僕は壇上から多くの観客を見下ろし、机の前で空になった酒枡を手に持っている。


 遠かった音声が次第に蘇ってくる。

 多くの歓声が聞こえるのを感じる。

 感覚が、徐々に現実に戻ってくる。


 我に返り、競争相手はと横を見ると。

 すでに誰も立っている者はいなかった。

 隣では、先輩が机に突っ伏している。


 立っているのは僕だけだった。


「勝負ありぃ!」


 始まりと同じく、大きな銅鑼の音が終局を告げた。




 壇上から降りると、群衆がワッと僕を取り囲んだ。

 皆、僕の酒の強さを称えてくれている。

 天狗の姿を探したが、見当たらない。


「ようやった。あれだけの量の酒を飲みきるとはな」


 ふらついている僕に、座敷わらしが声を掛けてきた。


「いや、自分では一体何杯飲んだのか覚えてなくて……」

「五十五杯じゃ。あのとびきりきつい酒をな。化けもんかと思うたわ」

「まぁ、飲んでる感覚はほとんどなかったので」


 そこで僕は黙って座敷わらしを見つめると、彼女は首を不思議そうに傾げた。


「何じゃ? 人の顔をじろじろ見おってからに」

「いえ。……飲んできましたよ、光る酒」

「何?」


 驚いたように彼女は目を丸くする。


「酒の神様からの言伝です。時が来たら、共に飲もうと」

「何じゃそりゃ」


 彼女は呆けたまま眉を寄せる。


「すると何か、酒の神はうちのことを知っとったのか?」

「みたいですね」


 酒を愛し、酒を求める座敷わらしの姿は、自然と神の目に入ったのかもしれない。

 今日僕が、先輩を追って様々な人と知り合ったように縁が紡がれて。


「にわかには信じられん話やが、お前の言うことじゃ、信じておこう」

「ありがとうございます」


 彼女の視線はどこか遠くを見つめた。


「……いつかうちも飲めるということか。ばあさんの飲んだ光る酒を」

「ええ、きっとそうだと思います」

「そんなら、味の感想を尋ねるのはやめておくことにしよう」


 森羅万象を司るあの酒の味を、彼女なら再現してしまうのではないだろうか。

 彼女が生きている何百年もの間、酒の神が彼女を呼ばなかったのはそれが理由かもしれない。

 神の世界にだけ存在する酒を、現世に届かせては行けないと。


 もしそうだとするならば。

 目の前にいる、この少女の杜氏としての実力は、すでに神の領域に達していることになる。

 だがいずれにせよ、もう事実は分からない。


 それにしても五十五杯か。

 あんな巨大な壺丸々飲みきっていた。

 よく全部胃に入った物だ。


 僕が不思議に思ってお腹をさすっていると、どこからか「コウヘイ君」と声がした。


「やるじゃないコウヘイ君。見てたわよ。よくあんなに飲めるわねぇ」


 見覚えのあるキツネが二匹。

 朱里と小梅だった。


「男らしい飲みっぷりだったわね。さすが小梅が見初めた男」

「お、お姉ちゃん何言ってるの」


 うろたえた様に小梅が声をあげ、恐る恐るこちらに向き直る。


「あの、その、わ、私、感動して、アレだけ体の大きな人に囲まれて、それでも最後まで立ってて」


 彼女の目からはボロボロと涙が溢れた。

 その様子を見て朱里が苦笑する。


「ホントにもう、この子はすぐ泣くんだから」


 妙に微笑ましいやり取りに、思わず声を上げて笑ってしまう。

 よく見ると、机に倒れ込んだ先輩を小さなキツネと先程の黒い老龍が囲んでいた。

 知り合いだろうか。

 先輩も今日一日、色んな縁を紡いでいたのだろう。


 その時、大きな花火が空に上がった。


 先ほどよりも近い場所で見ているせいか、音が違う。

 大きさも段違いに感じた。

 どうやら天狗が花火を上げているらしい。


 花火は視界一面に広がった。

 空を覆いつくす様に、何発も、何発も、絶え間なく広がる。


「宴の終焉じゃな」


 花火の音に混ざって、座敷わらしの声が聞こえた。


「感謝するぞ、小僧。お前のおかげでうちはこの街がますます好きになった」


 花火が上がる。

 大きく広がり、僕らを照らす。

 空一面に広がる。


 いつの間にか足元にいたタマが僕の足に体をこすり付けていた。

 尻尾を揺らめかせ、目を細めている。


「宴はこれからも開かれる。また遊びに来ると良い。次はもっと美味い酒を馳走してやろう」

「ええ、会いに来ます。今度は相方も一緒に」


 花火が上がる。

 音が広がる。

 僕の視界に、光が満ちた。

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