第11話 酒の孤独

 店を出て小さな架け橋まで歩いた。

 この辺りは薄暗く、あまり人通りがない。

 橋を包む湯気が妙に神秘的で、時々夢なのか現実なのか分からなくなる。


「ここ、温泉が流れてるみたいですけど、入ったり出来るんですか?」

「ええ。入りながらお酒を飲むことも出来るわよ?」


 すると先輩がほぅ……とため息を吐く。


「最高じゃない。さっきのじいさんたち、風呂好きそうなのに入らないなんて不思議ね」


「おじいさんたちはいつもお酒を嗜んでからお風呂に行くの。たぶん私たちが戻ってくる頃にはいないんじゃないかしら」


「それって大丈夫なんですか? 店の中に誰もいなくなるんじゃ……」


 しかし弁天さんは「大丈夫」と笑みを浮かべた。


「ここじゃあ店先に誰もいないなんてよくあることなの。みんな、ある程度すると他の店に飲みに行ったりするから」


 随分と緩い防犯体制だ。

 でも、それが許される治安状況なのだろう。

 この穏やかな街の均衡が長く保たれているのには、それなりの理由があるわけだ。


 橋を渡り、もと来た道へと戻って来る。

 そのまま街の奥へと進んだ。

 通りに面した小さな店の数々が目に入ってくる。


「この街でお店をする意味ってあるんですか? 金銭のやり取りがないなら、儲けもないんじゃ……」

「意味かぁ、確かにないかも」


 弁天さんの言葉に「えっ?」と声が出る。

 僕の間抜けな顔を見て、弁天さんはどこか楽しそうに見えた。


「生業のためじゃないのよ。言わば道楽。おままごとで配役が決まっているのと同じで、私たちはここでリアルな『ごっこ遊び』をしているの」

「ごっこ遊び?」

「ここでは店員とお客は対等。友達みたいなものなのよ。私のお店も元々は仲間内で集まるための場所で、自分たちの居場所にするために店の看板を置いたの」

「店を建てるのに土地の売買とかは……。建築費もかかるだろうし」


 それも彼女は否定した。


「もともとある建物を使わせてもらってるの。適当な空き家の中を整えて、お店っぽくしただけよ」

「大丈夫なんですか、それ」

「誰も怒る人なんていないもの」

「ええ……」


 ちょっと信じられない倫理観だ。

 察したのか、弁天さんは補足する。


「この街には使われてない古びた建物が多くて。多分、使われるために用意されたんじゃないかなって思うの。実際、ここではみんな、空き家を使ってお店をしているから」

「はは……ずいぶん都合の良い解釈ですね……」

「そう考えないと、不思議なことが多いから」


 すると僕の方に天狗がポンと大きな手を置いた。


「ここは『そういう場所』という訳か」

「なるほど」


 すごい話だな、と思う。

 でも、そのやり方で今まで成り立ってきたのだろう。


 空いている建物を使って店を開き、仲間たちと飲み交わす。

 それが許される場所が、この街なんだ。


 すると先輩がうっとりとため息を吐く。


「自由な場所ね。酒飲みの理想だわ」

「ユートピア、なのかもしれないわね」


 弁天さんはそっと空に浮かぶ満月を仰ぎ見る。


「ここには不思議な魅力があるの。人を落ち着かせて、温かくする何かが」


 彼女の言葉が全てだと思った。


「わかります。まぁ、妖怪や神様までいるのはちょっと驚きましたけど」

「私だって最初は驚いたわ」

「弁天さんでも驚くんですか?」

「あら、神様だって人とそれほど変わらないのよ? コウヘイくんだって、賀茂川で一緒に飲んだ時、全然気づかなかったでしょう?」

「それはそうですけど……」


 確かに、目の前にいる弁天さんを見ても、本当の神様だとは思えないだろう。

 この街の異常な空間が、僕に納得させてくれたのだ。


 すると、先輩が僕の背中をバンッとしばいた。

 思わず「痛っ!」と声が出る。


「細かいこと気にしたらハゲるわよ」

「禿げませんよ。うちの家系、ハゲいないんで」

「どうだか」


 先輩がおどけて肩をすくめ、僕はムッと口を尖らせた。

 それを見て、弁天さんと天狗がくっくっと笑う。


 通り過ぎる店の中では、河童がお酒を飲んでいれば、狸が踊っていたりもする。

 あの鋭い目をした鬼がカウンターで客の相手をしている情景も目に入った。


 普通なら決して目にすることのない、妙な光景。

 しかし、不思議と恐ろしさはない。

 全て、この街の不思議な空気が、この状況を受け入れさせてくれる。


 メインの大通りに戻り、川を渡った対岸の道へと入った。

 建物の間にある狭い横道を進んで行く。


 突き当りの曲がり角を左へ。

 すると、緩やかな石階段が目に入ってきた。

 階段の幅が広く、そこにも小さな出店が出ている。

 店では服を着た蛙の店主が暇そうにカウンターで頬杖をついていた。

 

 辺りに提燈は見えないが、妙に明るい。

 どこからともなく柔らかな灯りが溢れ、通りを照らしているのだ。


 青、黄色、緑。

 様々な色彩の光が混ざり、ぼんやりと道が浮かんで見えた。


「不思議だ……どうして光ってるんだろう」

「鉱石が光っているの」

「鉱石?」


 言われてみると、たしかに石階段から光が放たれていた。


「ここらへんの石は鉱物を含んでいるから。提燈が取り除かれているのも、店の人たちが鉱石の光を愛でているの」

「へぇ、すごい……」


 先輩は感心したように腕組みする。


「ここでお酒を飲んだらまた一風違って楽しそうね」

「じゃあ帰りに飲んでみる?」


 弁天さんの提案に先輩は目を輝かせた。


「本当? 是非ともお願いするわ」


 お願いする、とは言っているが、たぶん一人でも来るつもりだろう。

 この人の好奇心の強さは、この場で単独行動すらしかねない。


「弁天のくれたお酒は美味しかったけど、ここらのはどうかしら」

「貴様の不味い酒よりはよっぽど美味いだろう」

「何よ。あんた、私の酒によっぽどケチつけたいのね」


 先輩が天狗を睨み、天狗は相手にせず目線も合わせない。

 不味い酒と言いたかっただけだろう。


「あんた、後で飲み比べるわよ。ぶっ潰してやるんだから」

「小娘一人に負けるほど弱くはない」

「舐めるんじゃないわよ……?」

「先輩、そんなこと言っちゃって良いんですか?」

「あんたは黙ってなさい」


 不安でしかない。

 この人は量こそ飲むが、ある許容範囲を超えると急に収集がつかなくなる。

 そして、その時相手をさせられるのは他ならぬ僕だ。


 そっとため息を吐くと、不意に弁天さんが僕の顔を覗き込んできた。

 なんだろう。


「トモさんは強そうだけど、コウヘイ君はお酒どうなの?」


 弁天さんの言葉に、何故か先輩が「ヤバいわよ、こいつは」と口をはさむ。


「お酒で潰れたところ見たことないんだから」

「本当? 意外ね……」


 感心した様子の弁天さんに、思わず苦笑する。


「何か体質みたいで。全然酔わないんですよね」

「すごいわねえ」

「でも時々、酔いつぶれてみたいなって思うこともあります」

「酔いつぶれるほど飲む必要があるのか?」


 天狗が首をかしげる。

 僕はそっと微笑んだ。


「僕らの大学サークルは上からの伝統でとにかく飲むんですけど、酒の席で皆が酔っ払って騒ぐのが楽しそうで。そんな時に酔えないと、自分だけ取り残された気がして、ちょっと寂しいんです」


 トモ先輩も相当お酒に強い人だが、それでも酔っ払うことはあるし、楽しそうだ。

 だから、僕は時折思うのだ。

 この孤独を理解できるのは、酒に酔わない人だけなのだろうと。


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