第10話 夜のしじまに

 弁天さんがカウンターで作業する姿を、何気なく眺めていた。

 天狗と二人、席に座りながら琥珀色のお酒を飲む。


 言葉はない。

 それなのに何千、何万と言う言葉を用いて語らっている気がする。

 心地が良かった。


 どこからか聞こえる遠い笑い声。

 穏やかな水のせせらぎ。

 お囃子の音。


 全てが重なり合い、この場を彩っている。


「静かね……」


 いつの間にか隣に先輩が座っていた。

 背もたれを無視し、僕に背中を預けてくる。


 隣の席では、老人二人と太鼓腹の男性が静かにお酒を飲んでいるのが見えた。

 彼らも目を瞑り、この場に身を委ねているのが分かる。

 酒の中に、風景を溶かし、飲んでいるのだ。


 先ほどまで先輩と騒いでいた男たちは机で眠っていた。

 最初は男二人だった気がするが、いつの間にか三人になっている。

 七福神が宝船に乗っている絵を思い出した。

 恵比寿に毘沙門天、あと一人は察するに大黒天だろうか。


「あの三人どうしたんですか」

「潰した。私の酒を不味い不味い言うからしこたま飲ませた。いやぁ、予想以上に弱かったわ」


 先輩は首を動かすと骨をパキパキと鳴らす。

 神様を酒で潰す人などこの人くらいのものだろう。


「じゃあ、あの持ってきたお酒、空いたんですか?」

「一本空いて、残りはあと三分の一ってところかしらね」

「思ったより減ってませんね」

「他の酒も飲んでたからね。正直どれも申し訳なくなるくらいおいしい酒だったわ」


 先輩はそっと肩をすくめる。


「そりゃあんなの飲んでたら私の酒を不味いって思うわよね」


 そこで僕達は黙ってしばらくこの空間に身を委ねた。

 夜のしじまに、自分達の話し声を交えたくない。雑音になる気がしたのだ。


 天狗がグラスに入ったお酒を軽く口にする。

 いちいち面をずらす様子が妙に滑稽だ。

 面は外さないのだろうか。


「ごめんなさい、ちょっと出てくるわ」


 カウンターから出た弁天さんが僕たちに言った。

 彼女の手には大きな酒ビンが持たれている。

 賀茂川で僕らにくれたものと同じお酒だろう。


「どこ行くの? 配達?」


 先輩は首を傾げる。


「と言うよりお祝いね。今日知り合いが祝言を挙げているらしくて」


 弁天さんはそっと奥の老人に声をかける。


「……おじいさんたち、留守を任せてもいいかしら?」

「構わんよ」


 頭の長い老人が言った。

 福禄寿だろう。

 物腰の柔らかそうな人だ。


「じゃあごめんなさい。少し席を外すわね」

「ちょっと待って」


 先輩は僕の方を振り向く。


「私たちも行くわよ」

「本気ですか?」


 急に何を言い出すのだ。


「こんな楽しそうな所に来て、ここでただダラっと時間潰すだけとか有り得ないじゃない。二度と来れないかもしれないのよ? 色々見て回らないと損でしょうが」


「でも迷惑でしょう。祝言に知らない人間がついて行ったら」


 すると弁天さんが「大丈夫よ?」と口を挟んだ。


「祝い酒を届けるだけだし、先方も色々な種族がやってくるのはわかってるはずだから」

「じゃあ決まりね」


 先輩が立ち上がると同時に、天狗も席を立った。


「己れも行こう。たまにはこんな宴の夜もいいかも知れん。それに、ここは入り組んだ所だ。地理に詳しい奴は多いほど良い」

「えぇ、そうしてくれると助かるわ。人数は多いほど楽しいもの」


 弁天さんはどこか嬉しそうだ。

 彼女が一番この状況を楽しんでいるのが分かった。


 先輩が行く以上、僕も行かない訳にはいかない。

 この人の行動に制限をかけなければとんでもないことになるだろう。

 それが出来るのはこの中だと僕しかない。


「ごめんなさいね、おじいさん方」


 福禄寿が「楽しんでおいで」と手を振るのを背に、僕たちは店を出た。

 


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