第4話 そして飲兵衛達は歩き出す

 不思議なコップだと思った。

 普通のコップより少し小さいが、お猪口よりは大きい。

 どうやらこれをぐい呑みと言うらしい。

 深い緑色をしており、不思議と目が離せなかった。


 すると、先輩が僕の肩から身を乗り出す。

 重い。


「ぐい呑みもすごいけど、お酒も高そうね……」

「うーん? どうかしら。そうだ、せっかくだからこのお酒、あなたたちも飲んでみない? 今年のは自信作なの」

「自信作って、自分で作ったんですか?」

「まぁね」


 自家醸造は違法では、と考えていると先輩が「蔵元の人かぁ」と感心したように言った。

 

「だから器もこだわってるってわけね」

「蔵元って?」

「酒作ってる所のことよ」

「まぁ、そんな感じね」


 なるほど。酒造業者の人なのか。

 僕が納得していると、先輩は眼の前のお酒を見て舌なめずりした。

 仕草が汚い。


「まぁ、せっかく飲ませてくれるって言うなら、断る理由はないわよね」

「先輩、ちょっとは遠慮してくださいよ……」

「出来立てのお酒が飲めるのよ? こんなチャンス滅多にないじゃない」

「そりゃ、そうですけど……」

「決まったみたいね」


 弁天さんはどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。


「じゃあさっそく飲んでみる? えぇと、コップは……」

「この紙コップにお願い」


 ビンを持っている女性の前にずいと先輩が紙製のコップを二つ差し出す。


「先輩、どうしたんですかこの紙コップ」

「持ってきたのよ。あんたと飲もうと思って」


 先輩は足元に置いていたリュックを開いた。

 中には二本、新品の日本酒と、十個一パックにまとめられた紙コップが姿を現す。

 そんなもの持ってきているだなんて、全然気づかなかった。


「何が入ってるんです、それ」

「純米酒。750mlを二本。計3000円」

「先輩にしてはえらい奮発しましたね」

「でも、蔵元のお酒が飲めるならこんなお酒は用済みね。早速飲ませてほしいわ」


 すると弁天さんはクスクスと口元に手を当てた。


「あなたたち本当に愉快ね。一緒に飲んで正解だったわ」


 弁天さんはそう言うと、ビンのフタを開けた。

 ポンッと、フタの外れる心地よい音が響く。

 そのままビンを傾け、透明な液体が濃厚な香りと共にコップへ注がれた。

 まるで澄んだ清水に見える。


「こんなに香るんですね」


 鼻腔をくすぐる軽やかな香りだった。

 安物のお酒のそれと違い、ちっとも鼻につかず、不快感がない。


「良い匂いでしょ?」


 弁天さんはお酒を注ぎながら上目遣いで尋ねてくる。

 思わず頷いた。


「すごいわね……。こんな香り嗅いだことないわ」

「そりゃあ今まで安い酒しか飲んでないですからね、僕らは」

「余計なこと言わなくて良いのよ」


「どうぞ、飲んでみて。感想を教えてくれると嬉しいわ」


 僕と先輩は顔を見合わせ、コップをゆっくりと引き寄せる。

 半分ほど注がれた透明の液体。

 水よりもサラサラだ。


 コップを口元に運び、ゆっくり傾けた。

 刹那、香りが鼻孔を駆け抜け、唇を湿らせ舌を刺激する。


 甘味な風景が、口の中で広がった気がした。

 風がせせらぎ、川は凪ぎ、きらびやかに命を育む情景が浮かび上がる。

 そしてスッと、何事もなかったかのように消えていくと、徐々に賀茂川が流れる音が戻ってきた。


 ……いまのは何だ?

 意識が飛んでいた。

 お酒を飲んで、こんな経験をするのは初めてだ。

 しばらく言葉にならなかった。

 黙っている僕らを見て、弁天さんは不安そうな表情を浮かべる。


「どう? もしかして口に合わなかった?」


 僕は首を振ると、余韻をしっかりと確かめ、ようやく口を開く。


「こんな美味しいお酒ってあるんですね」

「大げさよ」

「いやいや、少なくとも僕はこんなお酒飲んだことないです」

「今まで飲んできた日本酒が雑巾で絞った水に思えてきたわ」


 先輩が壮絶な顔を浮かべた。

 先輩の言わんとすることはよく分かる。

 それほどまでにこのお酒は別次元の物だ。


「喜んでもらえたならよかった」

「いえ、貴重なお酒をありがとうございました」

「いいの。私も飲んでもらえて嬉しかったから」

「ねぇ、こういうお酒っていくらくらい? 銘柄は? これは購入しない手はないでしょ」


 すると弁天さんは「ごめんなさい」と頭を下げた。

 

「実はこれ、販売してないの。銘柄もなくてね。年数回の飲みの席の為だけに作ってるのよ。お友達や、普段お世話になっている人に恩返ししようと思って」

「そんな貴重なお酒だったんですか?」


 僕は驚いて目を丸くする。


「ほら、先輩、そうと分かったら諦めましょう。今日僕らはこのお酒を飲めただけでも運が良かったんですよ」

「分かったわよ……」


 先輩はそっとため息を吐いた。


「まぁお酒は諦めるわ。良いお酒をありがとう」

「どういたしまして」

「じゃあ、美味しいお酒ももらっちゃったし。改めて乾杯しましょう」


 そう言って、僕らは静かに杯をぶつけた。


「乾杯」


 ○


 しばらく三人でお酒を飲んでいると、不意に弁天さんが空を見上げた。


「あら、大変、もう月があんなに昇ってるのね」


 その声に釣られて空を見上げる。

 先程まで薄っすらと見えていた満月が、ポッカリと夜空に浮かんでいた。


「もう行かないと」

「ひょっとして例の飲み会ですか?」

「えぇ」

「えー、これからなのに……」


 先輩が残念そうに呟く。

 弁天さんは申し訳なさそうに手を合わせた。


「ごめんなさい。またどこかでご縁があれば。今日は楽しかったわ、またどこかで見かけたら声をかけて。お互い近所だと思うから、きっとまた会えるわよ」

「……ですね」


 弁天さんは慌てた様子で立ち上がると「それじゃあ」と小走りでかけて行った。

 徐々に彼女の背中が小さくなる。


「不思議な出会いでしたね」

「粋な出会いだったのよ」


 先輩はビールを口に運び、喉を鳴らして飲む。

 僕はビールの残数を確認しようと、ビニール袋を手探りで探した。


 そこで、奇妙な硬いものが手に触れた。


「何か二人で飲むって感じじゃなくなっちゃったわね。誰か後輩の家にでも突撃する?」


 先輩を無視して僕は手に触れた何かを眺めた。

「ちょっと、聞いてんの?」と先輩が訝しげに眉を潜める。


「先輩、これって弁天さんのですかね?」


 手に持って尋ねると、先輩はあんぐりと口をあけた。


「ぐい呑みじゃん……」


 深緑で、手触りの良いぐい呑み。

 僕らはその持ち主を一人しか知らない。


「そう言えば弁天さん、日本酒は片してたけど、ぐい呑みは出しっぱなしでしたね」

「あの様子だと気付いてないでしょうねぇ」

「また戻ってくるって保証もないし、どうしましょう?」


 先ほど弁天さんが走って行った先を見るも、もう彼女の姿は見えなかった。

 先輩はしばらく唸った後、鋭い視線で僕を見る。


「持ってく?」


 何だかその表情は、少しだけワクワクして見えた。

 その顔はよく知っている。

 彼女は何かを期待しているのだ。


 弁天さんがここから飲み会の場所へ移動するなら、バスの可能性が高い。

 今ならまだ追いつけるかもしれない。


「追いかけてみますか」

「決まりね」


 先輩は日本酒をリュックに突っ込んだ。

 僕も空き缶を近くのゴミ箱に捨てると、ビールの入った袋を手に持つ。


「ここで会えたのも何かの縁。元々朝まで飲むつもりだったし、ちょうど良い冒険よ」

「それ初耳なんですけど……」


 声には出さなかったが、特別なことが起こりそうな予感がしていた。

 たぶん、先輩も。

 

 こう言うのも悪くない。

 そんな気がするのだ。

 出来れば何か起こって欲しいと、そう願っている。


 こうして僕ら飲兵衛達は月の夜に歩き出すことになった。

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