今宵はベッドを共にする
夜は深まった。
深夜と呼べる時間帯、アクアたちの頑張りがあって(およそ三時間に及ぶ疾走の末)ようやく俺たちは自邸の門を潜った。
夜空に浮かぶ星々の配置と寝静まった街並みにチラホラと伺える窓灯り。それらを合わせて考えるに二十三時を過ぎたあたりか。
晩飯に間に合ったとは言い難いが日を跨ぐ前に帰って来られた事は良好と見るべき。
自邸の窓に目を向ける。どこの部屋も消灯してある中、ダイニングルームにだけ僅かながらの灯りが見えた。おそらくは燭台の火の光。
二人とも起きているのだろうか。それとも単なる消し忘れだろうか。
それはさておき、まずは
それに、アクアもアクリスも賢いからな。きっと俺たちの気持ちを理解しているはず。
「後でお前たちのご飯も持ってくるよ」
なんて言ったものの、三時間の走り通し。長距離走直後の食事は些かお腹に優しくない。彼らもそれを分かっているのか催促をしてこなかった。
どうやら空腹以上に睡魔が優っているようで、厩舎に入ってすぐに寝床へと伏した。
この様子だとアクアたちのご飯は朝一番で用意するのが賢明かな。
そうと決まれば長居は不要。睡眠の邪魔をしてしまうのも忍びないし早々この場から立ち去ろう。
「二人には悪いことをしたかな」
帰りが遅くなった事に罪悪感を抱いたのかデイネスは呟く。
物音一つ聞こえてこない邸宅に目を向けてから「おそらくは寝ているだろう」と言葉を続ける。
仮に二人が起きていたなら出迎えの一つがあったと思うしその見立てに間違いはないだろう。
寝ている二人を起こさないよう静かにな――そんなところか。鼻頭に添わせて立てられた人差し指からそんな思いが伝わってくる。
デイネスは慎重に扉へ手をかけた。
静かにしなければならない状況だとやけに聴覚が敏感になる。こうしてドアノブを回して発生する金音や扉の開閉音には不協和音と同列の不快さを感じてしまう。
音を嫌う今の状況に合わせて、忍足で家に入ると何かいけない事をしているみたいな気持ちになるな。
ただの帰宅のはずが侵入と表現するに近い行為に思えてならない。
先を行くデイネスがピッと指を立てた。
指先を前後させて「付いてこい」と合図を送ってくる。
この男もまた泥棒気分。ノリノリである。
了解を告げる適当なジェスチャーを返して俺はダイニングルームの壁に張り付いた。
「突入は?」
泥棒改め、潜入部隊。人生とは遊びの連続、それが俺のモットーだ。
「待て。中の状況確認が先だ」
俺の思い浮かべる設定を瞬時に悟ってデイネスは合わせてくれた。
声量を最小限に抑えての会話。ほとんど読唇術といった具合で意思疎通を図る。
「対象二人は机に伏している模様。卓上に幾つかの食器を確認できるが食事をした痕跡は見られない。どうやら俺たちの帰りを待っていたみたいだ」
「ふむ。そのようだな。それにーー」
すんすんと鼻をひくつかせたデイネスに合わせて俺も鼻で空気を吸いこむ。
調理の完了から間もないのか廊下にまで濃厚な香りが漂っている。腹の虫が騒ぎ出すほど美味そうな匂いだ。
「オリュエのサッパリとした爽やかな香りが強く鼻腔に刺さる。他に嗅ぎ取れる匂いからも野菜や果物を中心とした爽快感が感じられるな」
オリュエとはモクセイ科に分類される常緑樹の一種。タルモや南アルペミシアの沿岸部に多くみられるその樹木は食用油の原材料として広く知られている。
オリュエ油を使うこと自体に目新しさや驚きはない。油とは毎食のように使用される調理においての必需品だろう。
しかし今日に限っては特別性を感じられる。その理由は『出立前に願い出た内容の実現』に他ならないからだ。
「動物性の食材を使っていればオリュエの香りが薄れていたはず。ここまで鮮明に残留しているってことは……」
獣肉だけじゃない。動物性食材の一切合切を使用しなかった、ということ。
「ナノカは完璧な形でお前の要望に応えてくれたらしい」
「……みたいだな」
食べたくなかったのは獣肉というだけで魚介類は使ってくれて構わなかった。にも関わらず、あらゆる肉を遠ざけて献立を考えてくれたナノカにはきっと最悪が想定できていたのだろう。
今回の標的にしてみてもそうだ。哺乳類から昆虫類に変化した。テリヴルには幾つか川が走っていることだし可能性で言うのなら魚類や甲殻類に変化していたとしてもおかしくはない。もし仮に、それら生物との戦闘に切り替わっていたのなら、果たして俺は食べたいと思えただろうか。
答えはNOだ。
目的が食料調達のための狩猟だったなら話は別なんだけどな。今回は互いの命を賭けた闘争だった。
相手がどう思っていたかは関係ない。俺がどう思っていたのか、それが全て。
敬意を払って対峙した時点を以て、俺にとっては捕食対象じゃなくなる。そしてそれは類似する生物全てへと至るわけだ。
まったく。どこまで想定していたのか――ナノカの思惑を知ることができない今の状況では俺の妄想の域を出ることはないけれど、おそらくは妄想通り。俺に気を遣ってくれたのだろう。
いや、もしかするとベジタリアニズムに溢れる日だった、なんて可能性もあるかも?
……ないな。
「このまま寝かせておきたい気持ちもあるが……こんな場所で寝ていては風邪を引く」
俺の思考など知る由もないデイネスはそんなことを言った。
ガラス戸越しに見える二人の格好に注目してみる。アネットもナノカも薄手の着物に身を包んでいる。パジャマとは違う、ルームウェアってやつだ。
暖かな季節へと向かっている今日この頃。しかしながら実際に暖かいのは日中だけだ。まだまだ肌寒い夜が続いている。
いつまでも廊下に立ち尽くすわけにもいかないか。
「……確かに、燭台の灯火一つじゃ身体を温めるには足りないか。だとすると、すぐに突入して起こすべきだ」
尤もな発言に同調してから俺は提案したんだけど、デイネスは首を横に振るった。
「気持ち良く寝ているところを無理に起こすべきではない。まずは彼女たちを寝所へ運ぶぞ。その過程で起きてしまったのなら一緒に食事をすればいい」
「後で起こさなかったことを怒られないか?」
「可能性は十分にあるが気を使った結果だ。その叱責は甘んじて受け入れようじゃないか。二人が就寝した時間を厳密には測れないけれど普段の生活習慣と落とし火の進み具合から予想するに、おそらくは1時間――」
浅い睡眠状態から徐々に深い睡眠状態へと移行する時間帯。脳の高次機能が低下していく過程で無理やり覚醒を促すのは得策とは言えない。ましてや睡眠によって低下する機能は脳だけに限らない。体内器官が次々と休息状態へと切り替わっていく中、例え脳が通常の働きへと戻ったとしても他の各器官がすぐに元の働きを取り戻せるわけではない。
自主的であろうとなかろうと起床後1時間以内に食事を取るのが好ましいとされているが、直後となれば話は別だ。睡眠時間が不足していれば尚の事。
体に毒と言えば大袈裟な表現になるけれど的外れとも言えないだろう。
起床直後の食事は出来る限り控えるべきだという相手の体を労る献身性。食欲より睡眠欲が優先されたという結果から判断した配慮。どちらも総じて二人を思えばこその気遣い。故に、起こさないという結論に落ち着く。
「後はそうだな……心地よさそうに寝息を立ててるだろ? あの幸せそうな寝顔を崩したくはないって理由はどうだ?」
ずいぶんと紳士的な意見を頂戴した。
男に産まれたのなら格好を付けて然るべきだと俺は思う。それが唯の自己満足だったとしても貫く意義はあると見た。
「いいなそれ。了解した。二人をベッドに寝かせてやろう」
「よし。準備が整い次第突入するぞ」
「俺はいつでもいける」
顔を見合わせて互いに頷く。デイネスは右手を掲げて三本の指を立てた。
3カウントで突入の合図。
『3、2、1』
指が全て折り畳まれると同時に俺は扉を開け放つ(無論、二人を起こさないようにゆっくりと、だ)。
すぅーという静音がダイニングルームに響き……渡らない。抜き足、差し足、忍び足。床を踏み締める足元からも一切の音を発生させない。二人を起こさないためだけに全身全霊を尽くす。
俺たちは突入という言葉から想像できる慌ただしさとはかけ離れた静けさで無事に入室を果たした。
さてと、ここからが本番。
アネットを抱えたデイネスに続いて俺はナノカを持ち上げる。すっと上体を起こして一息に。
所謂、お姫様抱っこと呼ばれる体勢。
本物の姫に触れるかの如き丁重さでアネットを抱いたデイネスと比べれば俺の動きは些か乱雑だったかもしれない――というか、デイネスからしてみれば生涯の伴侶であるところのアネットは本物のお姫様か。
比べて、俺にとってナノカと云えば……。
「いや、必要のない対比だったな」
大切な家族。それでいい。
腕の中で静かに眠るナノカの表情は和らいでいて、気持ちよさそうだ。
快眠できているのならば、なにより。
意外なことに二人とも目を覚まさないでいる。俺だったら絶対に起きるだろうなぁとそんなことを思いながら、今のうちにと急ぎダイニングを出る。
一階に寝所があるデイネスとは別れて俺は階段に足を掛けた。
前進によってナノカの身体に掛かる負荷は微々たるモノ。そこに上下運動が合わさるとなると掛かる負荷は増大する。それすなわち目覚める可能性が飛躍的に上がってしまうということ。
一層気を遣わなければ――
「……ん……ふぁ」
ぶらりと下がるナノカの右腕が何かを探すようにして動かされた。布団を探しているという線が濃厚。残念ながらそこには何も無い。
急ぎながらも慎重に上段へと足を置いていく。
L字に14段ある階段のうち早くも切り返し8段目を踏みしめた。
「……おにい……」
まずい。起こしてしまったかーーと思ったけれど、目は塞がったまま。どうやらただの寝言みたいだ。
しかしアレだな。
ナノカを運んでいて思うのは軽すぎる、ということ。ちゃんと栄養を摂取できているか心配になってくる重量。40キログラムあるか、ないか。
15歳女性の平均体重を知らないけれど、低めの身長からすればコレくらいが普通なのかもしれない。
食事は毎日三食、体格に見合うだけの量を食べていたと記憶している。むしろ、少し食べ過ぎだと思うことすら度々あった。普段の生活において過度な遠慮は見受けられないしストレスによる影響という線も心配無用かな。
まあ、軽くはあるけれど柔らかな抱き心地から程よく肉が付いていると分かるし
「お兄ちゃん」
目的の部屋まで後一歩といったところ。
ナノカは薄く目を開いて俺を見る。
「おはよう」
「……ん……おかえりなさい」
眠たそうに瞼を擦る。
順番的にはそうか、ただいまを先に言うべきだったな。
「あれ……ベッドじゃない……」
ようやく運ばれている事に気が付いたらしい。
「もう部屋の前だからそのまま寝てな」
足を支える左手でドアノブを回して部屋に入る。
相変わらず整理整頓が行き届いているなという印象。特にベッドメイキングには目を見張るものがある。シワのないシーツ、足元で三つ折りにされた掛け布団。ベッド端に備わる枕は固定でもされているのかと疑いたくなるほどに中心を捉えて置かれている。
シーツにシワを付けてしまうのは少し申し訳ないけれどいつまでも抱えておくわけにもいくまい。出来得る限りで慎重に、丁重な扱いを心掛けてベッドの上へとナノカを寝かせる。
ふぅ、と一息。任務完了だ。
後はダイニングに戻って晩ご飯を食べるだけ――
「えっと……ご飯を食べに行きたいから手を離してもらっても?」
背に回されたナノカの両腕が離れない。ベッドに横たわるナノカの上体に俺の上体が覆いかぶさる体勢。ほぼ直角に曲がる腰がすごく辛い。
「んー」
寝てるのか起きてるのか判断に困る曖昧な返答。これが正しく寝惚けている状態ってことだろうな。
状況判断能力が著しく低下している。
「ナノカお前、俺を抱き締めてるって状況を理解してるか?」
運ぶために致し方なく抱えた俺とは違って、なんの理由もなく抱き締めるナノカさん。
俺としては一向に構わんのだけど、ナノカの方が構う気がするんだよな。
後から気が付いて悪態を吐かれる、そんな未来が脳裏を過ぎったもんだから確認してみた次第だ。
「んん……」
閉じていた瞼が一瞬開いた。されど一瞬、既に閉じてしまった。
ふむふむ。何となく思惑が読めてきた。
どうやら寝惚けていたという体にしたいらしい。
「一緒に寝たいの?」
気付いたナノカの本心を取り繕わずぶつけてみる。間違いだったなら謝ろう。
「…………」
無視か。
ここは一旦、肯定的な角度からアプローチをして体の解放を打診してみよう。
「ここで一緒に寝るのは良いんだけどさ、チェインメイルは脱ぎたい。だから一回離してくれるか?」
するりと腕が離れた。
コイツ絶対に起きてる。本心も正解だったのかよ。
だけどまあ、とりあえずは良かったと安堵する。腰が限界を迎える前に解放できた。
しかしどうしたものか。
どうするのが正解だろうか。
言葉にした通り、一緒に寝るのは良いんだけどそんなことより腹が減っている。昼食を取ってから飲むだけ食わずの10時間。俺にしてみれば最早断食と言っていい。
個人的には、食欲>睡眠欲≫性欲、コレが嘘偽りのない価値基準。性欲に関しては放置しても今のところ問題がない。睡眠に関しては放置したら限界が来ていずれ眠る。人によって優先順位は違うんだろうけど、食わなきゃ死ぬんだから食欲が最上に来るのが必然な気がする。
って今はどうでもいいか。
一旦離してくれことだし、一旦部屋に戻ろう。着替えて飯を食って戻って来れば問題はないはず。
「どこに行くの?」
扉に手をかけた瞬間に声がかかる。
「着替えて来ようと思って」
「戻ってくる?」
「えっと……うん?」
締め切られたカーテン、暗闇が支配する部屋の中だというのにナノカの瞳はしっかりと俺の目を捉えている、気がする。
視力には自信があったけれどナノカのそれは俺を軽く凌駕するみたいだ。ドアノブに手を掛ける瞬間も見えていたみたいだしな。
「私も行く」
「え、どこに?」
「お兄ちゃんについて行く」
ウィンディに匹敵する眼を持ってるな。
俺の問いかけに対して"俺の部屋"とは答えずに"ついて行く"と言ったということは、着替えた後にダイニングへ降りることを察したのだろう。
少し怖い。いやいや、かなり怖い。
「ちゃんと戻って来るから先に――」
いつの間にかベッドから降りていたらしい。
胸に顔を埋めるようにして抱きついて来た。
「今日はえらく甘えん坊だな。何かあったのか?」
「……さっき怖い夢を見たの……」
そういうことか。
まあそうでもなきゃこんなことはしてこないか。
「怖い……とは違うかな。嫌な夢」
「どんな夢だ? もしかして俺が死ぬとか?」
胸の中で首を横に振る。
「お兄ちゃんが遠くに行っちゃうの。歩いて遠くに……私は一生懸命走ってるのに追い付けない。歩いてるお兄ちゃんの背中がどんどん離れていく」
宇宙空間のような黒塗りの空間。上も下も右も左も全てが黒。地に足付いている感覚はあるのにそこに地面はない。
ナノカに背を向けて歩くだけの俺が速いというよりも、走っても走っても進んで行かない感覚だったらしい。
それでも最後まで視界から俺の姿が消えることはなかったようだ。
というのも、急に場面が切り変わって暖かな光に包まれたらしい。もちろん夢の話だから暖かさを直接的に感じたわけじゃない。気持ちの問題だ。
「目を開けたらお兄ちゃんがいた」
抱えた時に場面が変わった、というわけかな。
確かに怖い夢というよりか嫌な夢。もしくは変な夢。
似たような夢ならば見たことがある。俺は起きた時の安心感が心地良いから嫌いじゃないんだけど、ナノカにとってはそうじゃない。
「今日のご飯はナノカが作ってくれたんだろ?」
「え? うん、そうだけど……」
急な話題転換に呆気にとられた様子。上目遣いで疑問の表情を浮かべるナノカは正直に言って愛らしい。
少しだけ身体が離れたことで生まれた互いの距離を縮めるために両手でナノカを抱き寄せる。
「一緒に食べよう」
安心できただろうか。夢で感じたという暖かな光の正体が一体何であるのか、なんとなく分かる。
ナノカにとって俺がそうであるように、俺にとってはナノカがそれだ。
相互依存的な関係を個人の間柄で成り立たせるのはきっと危うい。どちらか一方が倒れればもう一方も倒れてしまう。
しかしコレばかりは開き直るしかない。俺たちはそれでいいと思うしかない。
難しく考える必要はない。この先、何が起ころうとも倒れなければいいだけなんだ。
抱き締める腕に力が入る。
合わせてナノカの腕にも力が込められた。
「お兄ちゃんは居なくならないでね」
今宵は着替えと食事、入浴すらも共にする。
そして、久方ぶりにナノカのベッドで眠りにつく。嫌悪感は一切無い。むしろ自分のベッド以上に心地良いと思っている。
一人より二人、そんな風に普段の倍速で布団の内部に熱が移っていく。
暫くは天井へと向けていた体をどちらともなく互いの方へ。
瞼を閉じるまでの間、他愛もない話を繰り返した。魔法について、学校生活、今日の出来事。それから未来の話。
ベッドに入ってから一時間も経たずして、寝息を立て始めたナノカは安らかな表情を此方へと向けている。
その頬にそっと触れるとナノカもまた手のひらを重ねてきた。
遠くない未来。この手が離れて行く日が来るのだろうか。来るとしたなら――――。
来ないで欲しいと俺は思う。
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