テリヴル山岳地帯2
エストレア王国は三四に区分された領土からなる連合王国である。
王の住うハスファルクを中心地として、東西南北に広大な国土を持つ。
東に位置付くバンフ帝国、南西に位置するフィンネル連合国に次いで世界三番目の国土面積を有しており、平地面積にして、およそ九〇〇万平方キロメートル。
三四に区分された領土はそれぞれに貴族が管理元となって統治している。
デイネスもその内の一人だ。
とはいえ、デイネスは貴族としての称号である
公爵を最上位として、侯爵、伯爵、子爵、男爵と続く国王より世襲制特権を与えられた爵位五階級の総称を五等爵と呼びーー世襲制度を有さない個人に送られる称号として兵士号、騎士号、魔術士号を三士号と呼ぶ。
デイネスはこれらのどれでもない、
これは、五等爵より上位階級である
大公が文官であることに対して、大嚴は武官に贈られる称号。
五等爵と違い世襲制度を有さないが、代わりに、現国王が王位を継承するまでは絶大な権力を保有する、らしい。
その証拠に、デイネスは国王より東領域の統治を任されている。統治面積にして、およそ二〇〇万平方キロメートル。国土の二〇パーセントに相当する土地の全権管理。
しかしそれだけの領土を一人では管理しきれないとしたデイネスは、東部領域を四つに区分して各領土の統治を全幅の信頼を置いている四人の貴族に代任した。
リオルカ・ハスタ。
ブランケット・リコン。
ウィンディ・マクラフェリ。
アルバル・デンジャー。
彼ら彼女らの姓をそのまま領地名にして、ハスタ領、リコン領、マクラフェリ領、デンジャー諸島と呼ぶ。
今、俺たちが足を踏み入れているこの場所はエストレア王国東四大領の一つ、マクラフェリ領に存在するテリヴル山岳地帯。
王都ハスファルクとマクラフェリ領の都とを繋ぐ商業山道である。
「お待ちしておりました。デイネス様、トーヤ様」
商業山道を封鎖する兵士たちが最敬礼にて迎えてくれる。
「遅くなってすまない、現在の状況を教えてくれ」
「はっ! 現在、テリヴルに敷かれた商業山道三本のうち二本を封鎖しています。対象は不明。魔法兵が広く布陣しており、樹海から生物が逃走する経路を全て絶っています! エストロールダグマ発見報告を受けてから被害の拡大はありません!」
対象は不明? トロールじゃないのか?
「被害の拡大がないようで何よりだ。それで、トロール確認時の詳細はどうなっている?」
「今回の被害を受けた商会運搬業者本人からの情報によりますと、全長三二〇メートル、推定体重は四五〇キロほどの大型個体と思われます。積荷は無事――銅鉄類でしたので捕食目的での接近ではありません。積荷を牽引していたウマ、それから操縦者当人に身体的な被害はなく、エストロールダグマは何かから逃げるように接近してきたのち、車体に衝突したとの事です」
「トロールの体に怪我を確認したか?」
「はい。左腕を消失した状態だったそうです」
「他には?」
「聞いていません」
言って、兵士は現場を示す。
合わせて、俺たちは地面に視線を落とした。
そこには派手に横転したであろう荷車の痕跡と、エストロールダグマの血液と思われる血溜まりができていた。
なるほど。
三二〇センチメートルのトロールともなれば推定危険度が5であることにも頷ける。
しかし標的はトロールだけではなくなった、と取っていいのかな。危険度5に相当するトロールはもちろんだが、ソイツから腕を奪った何者かの存在を俺たちは警戒しなければならない。
とあらば、わざわざデイネスがここへ来た事にも頷ける。
「森の中の捜索状況はどうなってる?」
「中央山道から北山道に向けて三キロ地点までを我々一〇〇人で隈なく捜索いたしましたが、トロールの痕跡以外なにも見つけられませんでした……現在は日没間近ということで捜索は打ち切っています」
「一〇〇人で何も見つけられなかった、か……」
「我々が不甲斐ないばかりにお手を煩わせてしまい申し訳ありません……」
「いや、皆が無事ならそれで良い。お前たちは良くやってくれている」
主君から発せられた労いの言葉に感極まったのか兵士たちの頭が下がる。
俺にはよく分からない感情――でもないか。俺はデイネスに仕えているわけではないけれど、身を案じてもらえたならそれだけで結構嬉しいものだ。
長年仕えている兵ともなれば殊更に、という事かな。
「ウィンディはどうしてる?」
「はい、ウィンディ様は現在通行可能である南山道の閉鎖があってはならないとして、警戒網を敷き現地で指揮をとっております」
マクラフェリ領・領主にして、エストレア王国・男爵の爵位を有するウィンディ・マクラフェリ。彼女はエストレア王国唯一の女性男爵。
どうやらウィンディから手紙を預かっているようで、兵士はデイネスに一枚の紙を渡した。封書でもなんでもない、中心で一回折り畳まれただけのただの紙だ。
開き、中を確認して失笑するデイネス。
「どうした? なんて書いてあったんだ?」
様子が気になって、手紙の中身も気になって、俺は問いかけた。
渡された紙に目を通す――いや、目を通す必要なんて無いな。
チラリと
記されていたのはたったの八文字。
『そっちはよろしく』
ふざけてる。こんな紙きれを送ってくるな。
失笑するのも頷けてしまうというもの。
「ウィンディに伝えといてくれ。次にテキトーな手紙を寄越しやがったらお前を五階級降格させてやるってな」
デイネスの言葉には苦笑いを禁じ得ない。兵士たちも気持ちを同じくしたようで。
「はい……承りました」
顔を引き攣らせながらに答えた。
「はぁ……アイツのことはともかく」と、デイネスは森の中に視線を送り「少なくとも三キロ以上先か……」目下の仕事に思考を切り替えて歯噛みした。
まあ、理由は分かる。
日没を迎えてから森を進むのはあまりにも危険だからな。
山道を二本も封鎖していることで生じる商業被害も甚大ではない。
できる事なら一刻も早く危険を取り除き山道を解放するべきである。が、しかし。判断材料も少なく決めきれないでいるわけだ。
「そういえば……馬車にぶつかってきたトロールはどこに行ったんです?」
俺は気になって、兵士に問いかけた。
「積荷が横転した音に驚いて来た道を戻って行ったと聞いています」
「血痕を辿って着いていけば目標も見つかるんじゃ?」
「トロールは一キロほど戻ったところで死亡を確認しています」
「えーっと。それじゃあどうして山道を封鎖しているんでしょう?」
「どうして、とは……」
「僕はてっきり、トロールの再出現を危惧して山道を封鎖していると思っていたんです。でもそうじゃなかった。トロールはもう死んでいて、トロールを殺したであろう生物も山道から三キロ地点には存在していない。だったら南山道と同様に警戒網だけ敷いて、解放したとしても問題はないように思うんです……」
危険は潜んでいるのかもしれない。しかし、それを言い出したらキリがない。テリヴル山岳地帯に生息する危険指定生物はトロール以外にもかなりの種が存在していることだし、見つからないという事から予測するに、目標は森の奥から出てくる気が無いのかもしれない。
もっと言えば、トロールの怪我だって事故の可能性もある。そうして考えると、あるかどうかも分からない物を警戒して無駄に時間を費やしている、とも取れる。
「トーヤ、お前が何を言いたいのか分からんでもないが……俺たちはなにも馬鹿じゃない。時間を使うだけの危険が潜んでいると確信しているから捜索を続けているんだ」
「…………」
確かに、それもそうか。
安易な考えでモノを言ってしまったかな。
「ごめんなさい。軽口を叩いてしまいました」
頭を下げた。
「いえ、頭をお上げください! 我々はデイネス様の指示通りに動いているだけで、デイネス様のような聡明な考えは持ち合わせておりません!」
「ははっ。トーヤも聡明さは一切ないよな?」
兵士の言葉に要らん言葉を付け足しやがる。
「うっせえ」
口を尖らせながらに言って。
「聡明であらせられるデイネス様に不躾ながら質問がある」
「なんだ?」
「その、危惧してる事ってなんなんだ? 具体的に目標がはっきりしているんだよな?」
「ああ、もちろんだ」
デイネスは答えてから、アクリスから降りて血溜まりまで歩く。
「遭遇者の情報と、この出血量から察するにトロールは左腕を肩から切断されたと予想ができる。切れ味のいい剣みたいなモノで、一息にスパッとな」
「遭遇者の情報……と、出血量だけでそんな事が分かるのか?」
「ああ。積荷の転倒音に驚いて逃走を測ったエストロールダグマ。奴の基礎能力と怪我の具合を加味して考えると……積荷に激突してから逃走するまで、この場に滞在した時間はおよそ十秒」
と、仮定してから。
「例えば、落石や倒木などの自然的要因よって左腕を失っていた場合、どちらかと言えば裂傷ではなく破傷となり傷口は不規則。治癒力を鑑みても、十秒でここまでの血溜まりは作れない。それに、この場合は左腕は消失していない可能性が高く、目撃者は左手が消失とは告げず、潰れていた若しくは怪我を負っていたと報告するはずだ」
「じゃあ噛みちぎられていた場合は?」
「エストロールダグマの持つ能力の一つに、腕関節の
どう説明したもんか、と唸ってから。
「まあ、細かい事は省くが、噛まれた瞬間に
「自切……か」
爬虫類の中に自切を行う生物は結構いる。だけど、エストロールダグマはクマだ。哺乳類である。
驚くべき事実と言えるだろう。
しかし、時速一二〇〇キロメートルで走る生物――カミエトの存在を聞かされた後だからか、自切する哺乳類が居ると聞かされたのに驚きはない。
むしろ、その方法が気になる。如何様にして腕を切り離すのか。
「どうやって切り離すのか、気になってる顔だな」
念能力さながらの読心術を披露してきた。
「まあ、気になるな。トカゲみたくスポッと切り離すのか?」
「自分の爪でザンッ、って感じだな。実際には関節部に爪通しと呼ばれる穴が空いてるから、そこに爪を噛ませて骨を引き離すんだ。まあ、肉や皮は力任せに引千切ることになるなーー」
うそ、だろ……? 自分の爪でザンッ?
ビチビチビチ、と? 皮を引千切る?
想像するだけで腕が痛む。
自然の中に身を置いて生きる過酷さを体現している生物だな。
俺は人間でよかった。
「その……ザンッ、ってした後に腕は生えてくるのか?」
「いや、二度と戻らない。死から逃れる緊急手段の一つだからな、滅多に使わない。その代わりに、エストロールダグマは腕の関節が手首より胴側に六つ存在する」
「だから腕が長い訳か」
「そういうことだ」
「つまり……肩から切断されたと判断した理由は、自切を行う間もなく一瞬にして腕を失ってしまったから、ということか?」
「ああ。肩より先を失った時は一つ後の関節で自切を行って傷口を修復できるんだが……肩すら失ってしまえばそれが叶わない」
「そうなってくると……目標は人間か?」
剣のようなモノで一息に。
そう言ったからな。
「いや、そうとも限らない。剣状の身体部位を持った生物は稀ではあるが、いるにはいる。ちょうどこの地ーーテリヴル山岳地帯にも二種ほど生息を確認している」
「たったの二種か。じゃあ目標はそいつらのどちらかってことだな」
「状況からさらに限定ができる」デイネスは言って、「エストロールダグマを圧倒できる存在だ」と、付け足した。
確かにその通りだ。
如何に鋭い得物を持とうとも、エストロールダグマを相手取れる程の実力と凶暴性が無ければ意味がない。
三メートルを超える巨大な生物が逃げ出すほどだから、かなりの実力差があったと予想ができる。
「さて、目標の割り出しも済んだ事だしーー」
デイネスは言ったけれど、きっとここに来る前から目標を把握できていたはずだ。
敵はおそらく切断系統の身体部位を有する生物であると、分かっていた。
だから俺にチェインメイルの装着を求めたのだ。
さらには軽装を求めた事から、敵は俊敏である可能性が極めて高いと予想ができる。
「トーヤ。出発するぞ」
「え? 直に日没だってのに、今すぐ行くのか?」
「迷ったんだけどな……」
としてから、デイネスは二本指を立てた。
「早急に山道を解放しなければならないという理由が一つ」
二本指、ということは。
「……もう一つは?」
「晩飯までには戻ると約束しただろ?」
「…………」
はっーー鼻から息が抜ける。
そうだった。
沈む夕日を確認するに、今は一八時前といった時間か。
アクアたちの体力を考えると帰りには三時間ほどの時間を有するか?
今すぐに帰れたとしても、二一時を超える見立てだ。
俺が思うに晩飯を晩飯だと形容できるのは日が変わる〇時までかな。以降は夜食、朝食と言って差し支えない。
なればこそ、早々に片付けて帰らなければ約束を反故にしてしまう事になる。
「了解だ。せっせと片付けて、早々に
日没を控える薄暗い森の中へ。
俺たちは侵攻を始めた。
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