帰路にて1


 通学路を逆行する馬車の車中。

 入学二日目にして、俺はすでにぐったりとしている。


 その訳の一つが、終業を告げる鐘の音が校内に響いて数分後ーー帰り支度を整える俺の耳に届いた、「お兄ちゃん、ナノカが来たよ!」という言葉のせい。

 守性防御学科八組の教室内にいる全ての人間が聞き取れる音量で、その言葉は発せられた。


 聞いてすぐ、

「ありゃ、主席の子だ」

 と、クラスメイトの一人ーーモネリアが呟いた。


 教室内にいるであろう新入生主席の兄探しが始まった。

 いやいや。

 やめてくれ、というのが俺の率直な気持ち。

 入学式にて代表挨拶をしているわけだし、ナノカの本名がナノカ・アクリスタである事は全生徒に知れ渡っている。


 時間は掛からずして、

「アクリスタ……アクリスタって事は、トーヤ君がお兄ちゃん?」

 モネリアさんの天然推理力が炸裂したーーあの時の俺の気持ちは形容し難い。


 ともかく俺は肯定を告げず、テクテクと扉前にいるナノカの元まで歩み寄り、「人違いです」と、そう言いながらに扉を閉めた。

 その後、もちろん一悶着あって。

「なんで閉めるの」から始まり「いいよ、許してあげる」と、終結するまで。

 クラスメイトたちの注目を浴びながらに交わした妹との舌戦を、忘れ難い兄妹喧嘩をーーしかし、俺は記憶から抹消すると決めた。

 故に、これ以上思い返す事はしない。


 ーー通学路を逆行する馬車の車中。

 入学二日目にして、俺はすでにぐったりとしている。


母指球筋ぼしきゅうきんが……母指球筋が……」


 ぼやく言葉の訳は、普段使いしない筋肉を酷使しすぎたせいなのだけれど。


「お兄ちゃん、いつの間にお母さんとお仕事をしたの?」


 俺の言葉に対してこの反応。ナノカには分からなかったようだ。


「……母子給金じゃねえよ。母指球筋だ」


 自分でも言いながらに、母子給金ってなんだよーーそう思わざるを得ない。


「ほら、母子給金って言ってるじゃない」


「ちがう、母子じゃなくて、母指。母なる指で母指。親指のことだ」


「親指って母指とも言うんだ?」


 不思議そうに首を傾げてナノカは親指を繰り返し折りたたむ。

 標準語にして、親指。医学用語にして、母子。なにもおかしな事は無いように思う。

 だからナノカの反応が逆に不思議で、


「なにか気になることでもあるのか?」


 俺は問いかけた。


「うん。だって……親指のことをお父さん指って呼んだりもするでしょ?」


 ふむ。確かに、呼んだりもするな。主に、幼児に語りかける際なんかには割と良く使われる言葉だ。


「人差し指はお母さん指、中指はお兄さん指、薬指はお姉さん指、小指は赤ちゃん指」


 言って、順に折りたたむ。


「ね? おかしいと思わない?」


「なにがだよ」


「もうっ。中指はホントに勘が鈍いんだから」


「話の流れを汲んでようやく理解ができるけども、俺はナノカのお兄ちゃんであって、上肢じょうしにおける五指間ごしかん最高到達点を記録する最長の指ではない」


 言って、


「それと、大切なことだからきちんと訂正させていただくけども、俺の勘は鈍くはない。お前の説明が悪いんだ」


 補足をする。


「よくもまあ、そうすらすらと言葉が出てくるよね? 上肢における五指間最高到達点を記録する最長の指、なんて……普通を生きてる人からじゃあ決して聞けない言葉だよ」


「そんなことはどうだっていいだろ。しかも然りげ無く俺の人生を批判してないか?」


「してないよ。すごいなぁって……すごい感性をしてるなぁって褒めてるんだよ。私じゃあ絶対に言えないもん」


「やっぱり馬鹿にしてるだろ」


「し、し、してないってば!」


「言葉を二回も詰まらせてから強めに否定をするな。そこまでしてしまうと、わざとらしいを通り越して意図的確信犯による自供になるぞ」


「意図的確信犯ってなに?」


「知らん」


「間違ってはいないと思うんだけど、意図的は必要無いんじゃない? だって、確信犯なんだから意図的であることは明白ですよね?」


「だから、知らんって……口を突いて出てきただけだ」


 ぽんっ、と。

 ハッとした様子で、ナノカは胸の前で手を合わせる。


「ああ、そうだった。お兄ちゃんは勘が悪いわけでも、異常な人生を歩んでるわけでもなくて、ただのおバカさんだったね」


「馬鹿にしてるどころか、馬鹿だと断定されちゃったよ!?」


「五指間最高到達点を記録する最長の指のことは今後、おバカさん指って呼んでみる?」


「呼ばねえよ。というか、二度とその言葉を使うな」


「なんで? 私は結構好きだけどなぁ、五指間最高到達点を記録する最長の指のこと」


「…………」


「どうしたの? 五指間最高到達点を記録する最長の指」


「…………」


「あれ? 五指間最高到達点を記録する最長の指の反応がないよ」


「ナノカ」


「なに? 五指間最高到達点をきろーー」


「怒るよ?」


「やめる。ごめんなさい」


「よろしい」


 はぁ、疲れていたところに、この問答だからな。尚のこと疲労を蓄積されられた。

 しかしまあ、いつもの事だからこういう精神的な疲れには慣れている。

 問題はやはり、母指球筋が異常に疲労してしまっている事だ。


「それで、お兄ちゃん。親指がどうかしたの?」


「ああ、親指の付け根のところがな。剣の訓練をした時並みに疲労しちゃってるんだよ」


 普段、机に向かってペンを取るという事をしない俺にとって、文字を書き続ける座学授業というのは堪えるものがあった。

 精神的にはもちろんのこと、身体的にーーまさか剣を振るう以上の疲労を体感するとは……、想定外も想定外。


「あ、ちなみに……母指球筋っていうのは、短母指外転筋たんぼしがいてんきん短母指屈筋たんぼしくっきん母指対立筋ぼしたいりつきん母指内転筋ぼしないてんきんっていう親指の付け根を構成する四つの筋肉の総称な」


 補足しながらに、左手で右手母指球筋をほぐす。


「お兄ちゃんって馬鹿なのか賢いのか分からないよね。それはどこで知ったの?」


「アイツ以外に居ないだろ」


「そっか。本を読まないお兄ちゃんだもんね。人に聞く以外の学習方法は確かにあり得ないよね」


 納得を示した後、ナノカは少しだけ目を細めてコチラに向ける。


「それはそれとして……お兄ちゃん」


 と。

 御立腹であらせられるのか、俺を呼ぶ声はやたらと低音で発せられた。


「アイツじゃなくて、お父さんだよ」


 そう言うんじゃないかと思っていた。忠告されるんじゃないかと予測できていた。

 分かっていながら、俺はアイツと言っているし、悪いと分かっていながらに、アイツ呼ばわりをしている。

 しかし、何故か口にはできない。

 恩人だと思っているくせに、二人のことをーー両親のことをお父さんともお母さんとも俺はずっと呼べないでいる。

 他人の前では普通に呼べるんだけどな。

 自分でもよく分からない心理的思考が働いてしまっているわけだ。


「……デイネス」


 今はコレが、精一杯。


「ん。まあいいでしょう」


 俺からしてみれば、

「ナノカが二人をお父さんお母さんって呼べてる方が不思議なんだけど……」

 というのが素直な気持ち。


「両親だと思ってるからでしょ? 両親だと思ってるし、両親を想っている。それだけだよ」


 耳が痛いし、二人が聞けば心を痛める。

 ナノカの言い分を受け入れてしまえば、俺が二人のことを想っていないと認めるに等しい。

 それは違う。と、そう強く思えるけれど、しかし、返す言葉は見つからない。


「だから、お兄ちゃんも呼べばいいんだよ。簡単でしょ?」


「確かにそうなんだけどさぁ」


「恥ずかしい?」


「……まあ、今更そう呼ぶのは恥ずかしいって気持ちも確かにある」


「恥ずかしいだけじゃないの?」


「うん。そんな気がする」


「そんな気がするって、自分の気持ちでしょ?」


「そうなんだけどさ。俺にもよく分からないけど……本能が……そう。本能がーー」


 拒絶している。


 脳裏を過ぎる言葉が、喉仏に触れる。

 外へと吐き出す前に、一度飲み込んでその意味を確かめる。


 両親を両親と呼ぶ事に躊躇ためらいはない。というにも関わらず、彼らを前にした時、デイネスを父と、アネットを母と、呼ぶ事が叶わない。

 さらには、その理由を自覚できないでいる。

 だから俺は本能が拒絶しているかのようだと、思ってしまった。


 それじゃあまるで、俺は心の根底で両親を両親だと認めたくないと思っているみたいじゃないか。


 そんな事はないと否定するのは簡単だ。ナノカの言った通り、呼べばいい。それだけ…………、それだけ、だ。


「お兄ちゃん大丈夫?」


「え、ああ」


 正直に言ってしまえば、大丈夫じゃない。

 自分のせいで気分が悪くなってきた。

 未だ吐き出せないでいる言葉たちが喉につかえて息苦しい。

 分からない事だらけの世界の中に身を置いている。

 そして、分からないままに生きてきた。


 だけどコレだけは、分からないままにはしておけない。魔法とは違う、人として、俺がトーヤ・アクリスタとして生きていく為には絶対に知るべき事だ。


「ねえ、本当に大丈夫?」


「悪い、大丈夫じゃない……」


「どうしたの? 私がなにか嫌なこと言っちゃった?」


「いや、ナノカは悪くないーー」


 そう言えば、といった具合にモノは試しと、


「ナノカは、妹だ。俺にとって大切な兄妹だ」


「急にどうしたの?」


 言える。本人を前にして、口にする事ができる。


「デイネスは、俺にとって大切な……大切な人だ。アネットも、大切な人……」


「うん、家族だもんね。当然だよ」


 家族とは言えなかったーー親であると口にする事が叶わなかった。思えるし、考えられるのに、喉元を越えて外へと吐き出す事ができない。

 二人は居ないのに。他の誰を前にしても言えるのに、ナノカを前にしても、ダメだった。


「二人とナノカの前だと、言葉にできない」


「それがどうしてか分からないんだよね?」


「ああ。だからそれが苦しい」


「無理矢理に、言えない?」


「……嫌だと……思ってしまう」


 最低だ。

 最低だし、最悪だ。

 恩人に対して、家族と慕ってくれる人たちに対して、真摯しんしな愛を返せないでいる。

 俺はなんて、不孝者なんだろうか。

 そう思ってしまえば、意気阻喪いきそそうとして、自然に頭が下がっていく。

 他でもない、自分自身に落胆してしまった。


 自分でも意味が分からないし、こんな感情は誰にも理解を得られない。

 俺はたった今自覚した、心の根底と向き合わなければならないだろう。

 自分でも見つけられないでいるほどに暗く閉じてしまった心の奥底を明るみにしなければならない。


 そうして考えていると、不意に、下がる頭を温もりが包み込んだーー顔を上げて見なくても分かる。ナノカに抱き締められている。


「大丈夫」


 と。

 自戒に満ちていて、騒然とした心を落ち着けるには最適な音が耳に届く。


「記憶を取り戻したい……」


 目覚めてから三年と三ヶ月にして、初めて、俺は言った。

 そこに、理由があるはずだと思ったから心のままに俺は言った。


「……やっと……」


 溢れるようなその声も、頭を抱き締めるその腕も、僅かに震えている。


「やっと……言ってくれた」


 ナノカは言って、俺の顔を持ち上げた。

 瞼には薄らと涙が溜められていてーー。


「どうして泣いてる?」


「嬉しいからに決まってる」


「嬉しい、のか?」


「うん……うん。お兄ちゃんは過去の記憶なんて要らないって、そう思ってると思ってた」


 実際に三年と三ヶ月の間、俺はそれを欲しようとは思わなかった。今にして思えば、そのことすら不思議ではあるのだが。

 しかし、記憶を失っているからこそ分かる事もある。

 喪失した過去の必要性を正しく把握できない、ということ。


 洞窟で目を覚ました俺の場合は特に、だろう。

 だって、すぐ明日の事すら不安定なんだから。今その時のことに集中しなくては生きていられなかった。それは、過去と向き合う時間がなかったと言える。


 ようやっと、自分と向き合える時間ができたわけだ。

 そして、その機会をナノカがくれた。


「必要……ないわけが無いよな……俺が生きた一四年間。ナノカの兄となって生きた一二年間なんだから……過去の大切さにやっと気が付けた」


 待たせてごめん、と続けて。俺は俺のをした。


「ーーううん。私にはそれだけで十分……」

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