第1章

朝を迎えて3


 好きなものは何かと聞かれれば『自分』と答えるし、大切なものは何かと聞かれれば『ナノカ』と答える。

 そんな俺だったし、今も変わらず、そんな俺である。

 迷いはなく、恥ずかしくもない。

 ナルシシズムでもシスターコンプレックスでも無いけれどーーというよりも、自覚してはいないけれど、他人からそう指摘されることが今後あったとしても、やはり、さして気にはならないだろう。

 家族が大切で自分を愛する。そんなことは当たり前で。その事を公然と主張できない人たちの方が、俺なんかより、よほど歪んだ人生を歩いていると思うからだ。


 もちろん、好きや大切にしたいという気持ちにも限度ってものがあるーーけれど、それについてもちゃんと理解できているし、実践しているつもりだ。前のめりになって行き過ぎる気は毛ほどもない。


 しかし、そうして考えてから自分の姿を鏡に映して鑑みるに、俺の頭には髪の毛というものが結構あった。ふさふさと、揺れるほどに。

 毛ほどもない、なんて事をさっきは言ったしまったけれど、この頭髪の毛量を考慮すると、不安になるな。いつか行き過ぎた行動をとってしまうという暗示なのかもしれない。いっそのこと、ここで抜いてしまおうか? なんて。

 ーーそんな冗談はさておきとして、俺は、思う。


 要は、適度に自分を愛し、適度に家族を大切にせよーーということだろう。

 まあ、この言葉は俺のものではないのだけれど、いつだったか聞いたこの言葉に、たった今、納得できたから思い出してみた次第である。


 ◇


 ーーさて、また朝が訪れた。

 当然、朝は毎日訪れているわけだけれど、今日というこの日もまた、特別な日であるからして、トーヤという一匹の男の物語の節目となって章頭に入ってくるわけだ。


 俺は相も変わらずベッドの上。朝は大概、ベッドの上だ。

 対面には妹の姿がある。


「名前を教えて?」


 やはり、ナノカは言った。


 本日は月ノ日つきのひ

 恒例の定期検診日。


「トーヤ」

「ラストネームは?」

「アクリスタ」

「私のフルネームを言ってみて?」

「ナノカ・アクリスタ」

「私たちの関係は?」

「俺が兄で、ナノカが妹の二人兄妹」

「ここはどこ?」

「俺たちの家」

「住所は言える?」

「エストレア王国王都ハスファルク、東三番街、中央街道西一〇イチマル区七番地の一等地」

「一等地は余計だけど、というか、別にこの場所は一等地ではないけれど……うん。まぁ、よろしい、かな?」


 本日もご満足いただけたみたいで何より。

 続いて、触診へと移行するわけだが、今日は勝負の日。


 一子相伝……じゃなかった、心機一転、生活が変わる今日という良き日に、俺は長きに渡って続いてきた朝の触診を終わらてやろうと心に決めていた。


 だから、

「じゃあ、服をめくってこっちを向く」

 というナノカの言葉に対して、

「嫌」

 とだけ、端的に俺は告げた。


「むっ」


 予想通り、ナノカ様はご不満にあらせられる。

 だが、そんなことで怯みはしない。なにせ、今日の俺の心は鋼でコーティングされているからな。


「頬を膨らませても無駄。嫌な物は嫌」


「なんで?」


「そりゃあ、今日から俺たちは高等魔道学校の生徒なんだから『妹に毎日触診されてます』、なんて言えるわけがないだろ?」


「言わなければいいじゃない」


「何かの拍子に露呈ろていする可能性も潰しておきたい」


「イヤ」


「嫌なのは俺!」


「問診は良くて、触診はダメな理由を教えて」


「問診は体を見られない、触られない」


「見られたくないの? 触られたくない?」


「うん。恥ずかしいから」


「今更じゃない?」


「今更だとは俺も思うけど……そうだなぁ。幼い時は親と一緒にお風呂に入っていた子供が大きくなった、とでも思って諦めてくれ」


「ずっと一緒に入れるけどなぁ」


「子供側が嫌なんだよ」


「あぁ、そういう事。納得した」


 勝った。

 素直にそう思い、

「分かってくれて良かった」

 安堵のため息を漏らす。


「でも、嫌」


 はい?


「私が触診を続けたいの」

 

 首を傾げる俺を置き去りに、ナノカはそう続けた。


「だったら、そっちの理由を教えてくれ……」


 至極真っ当な言い分だったと思うーーしかし、こう聞いたのは多分間違いだった。


「三年前ーー」


 ナノカが語り出した最初の一言で俺は敗北を悟る。


「ーーお兄ちゃんが目を覚ます前、体は冷たくて固まってて、本当に死んだと思ってた。目を覚ましても記憶喪失で私のことも、お兄ちゃん自身のことも忘れてて……毎日、寝て起きるたび、あの日に戻ってるんじゃないかって不安になる……、だから、本当なら毎日したい。毎日して、お兄ちゃんは生きてる、私を覚えてるって安心したい。そりゃあ今は毎日お話をしてるけど……、日によってはお父さんのお仕事の手伝いとか、訓練に行っちゃうし、私だって毎日は付いていけないから……だから……」


 徐々に瞳に涙を溜めていく。

 泣かせてしまった。流石にこのままにはして置けない、か。

 触診を断るために用意してきた鋼のメンタルコーティングもどうやらここまでのようだ。


「あー! もう分かった! 分かったから泣かないでくれ」


「……毎日していいの?」


「毎日……毎日かぁ。流石にそれは……」


「分かった、我慢する」


 ふぅ、と。

 結果的に負けはしたものの、なんとか毎日検診は免れた。

 今はこれでよしとしておこう。


「じゃあ、服をめくってこっちを向いて」


「……分かりました」


 あぁ、もう。なんでこう妹には弱いのか。

 本能かな?

 記憶を失う前から俺はナノカより立場が弱かった、とか?


 そう思えば、自分のことながら情けなくなってくる。

 献身的な妹を持つ、ということは、なにも悪いことばかりではないんだけど。


「ドクンドクンって……お兄ちゃん、生きてるね」


「そりゃあ生きてますとも。これだけ話をしてて急に死んだら怖すぎるでしょう」


「だよね。やっぱり怖いよね」


「ほら、もういいか?」


「待って、もう少し、聞かせて」


 ナノカの体温を直に感じながら、俺は物思いにふけるーー。


 三年前。

 厳密に言えば三年と三ヶ月前、俺は洞窟で目を覚ました。

 雨風を軽く凌げる程度の、本当に小さな空洞。とりわけ、獣たちが寝床にするには最適な、そんな洞窟だ。

 一番初めに見たのはその洞窟と、外に広がる森林地帯の景色。焚き火の跡。それから、木の葉を避けてわずかに差し込む日の光。

 ボーッとする頭を揺り起こし、俺はなんとか状況を推察しようとしたーーしたのだけれど、思考がままならなかった。


 理由は記憶を断片的に失っていたから。いや……、この場合は断片的に覚えていた、と言った方が適切なのかな。

 忘れてしまった量が星の数ほど、だとしたら、覚えていることは指を折って数えられる程度だった。

 まあ、あの時は何を忘れているのかすら忘れていたからそんな事には気付けなかったわけだけど。


 覚えていたことと言えば、まずは言葉。ある程度の単語や文法だ。後は、生理現象と生物の仕組み。腹が減る、物を食べるとか、俺が人間であり、男であるとか、そんな程度の記憶。


 それ以外のことと言えば、自分の名前はおろか、他に何一つとして思い出せなかった。


 とにかく俺は、光の当たる場所へーーつまりは洞窟の外へ出ようとして、立ちあがろうとした。


 結果を先に言ってしまえば、動けなかった、だ。

 長く寝ていたせいか、足や手、体全体が固まってしまっていて立ちがあることができない。這って外へ出ようにも手を動かすことすら叶わないわけだからな。なす術のない俺は、洞窟の外へ出る事をすぐに諦めたーー諦めるしかなかった。


 諦めて洞窟の天井と睨めっこを開始してから、さほど時間は経たずして、俺は一人の少女を目にする。


 それがナノカだった。


 産まれて初めて見る人間。記憶喪失というものは厄介なもので、人間という言葉や概念を知りながら人間に出会ったことがない、という矛盾を生み出してしまう。

 どう思考が働いたのかは分からないが、とにかく、奇妙な感覚を覚えた。あの時の感覚を無理矢理に言葉にするとしたら、そうだなぁ……、なにか小石ほどの異物が脳に入り込んだような感覚だな。

 

 ともかく、そんな曖昧な記憶しか持たない俺にとってナノカは見ず知らずの少女である。少女は小枝や果物なんかを両手一杯に持って、洞窟に……俺の前に現れた。


「お兄ちゃん」


 第一声がそうだった事を覚えている。

 消え入りそうなほど小さな声量で、ナノカは言って。その瞳からは大粒の涙を流して、動けない俺の上にもたれかかるようにして抱きついてきた。


 今にして思うーー酷であったと。なにせ、その後の俺の第一声が、「誰?」だったんだから、ナノカからしてみれば、それはもう絶望以外の何物でもない。


 それでも、ナノカは俺を責めることはせず、悲しむ素振りすら押し殺して、根気強く様々なことを教えてくれた。


 俺が兄であり兄妹であるということもその時に聞いた。

 普通なら疑うんだろうけど、俺は疑わなかった。

 疑えなかった、という側面もあるのかな。記憶を失っている人間に対して甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる他人を俺は知らない。それは短くも三年間生きてきて身に沁みて理解できている。


 あとは、何となく、ナノカと俺が兄妹であることは間違いないという、勘のようなもの。


 なんか似てるなぁと思うこともしばしばあったりして。一緒に過ごせば過ごすほどナノカの言うことが嘘ではないと体が思い出していった、とでも言うのかな。


 俺が動けないでいるのを見かねたナノカは、関節の可動補助や筋肉のマッサージなんかをしてくれて、徐々に動けるようにもなっていった。

 

 後から聞いた話、なんでも、眠っていた俺の心臓は止まっていたらしい。


 意味がわからないと、俺も思う。それじゃあナノカは死体と共に暮らし、死体の世話をしていた事になるからな。


 それなのにナノカは俺が目覚めると信じて疑って居なかったとか。

 それを聞いた時、尊敬や感謝を通り越して少し怖いと俺は思った。とても本人には言えないけれどーー。


 両足で立って動けるようになってからも、暫くは洞窟で過ごした。

 時々、体を洗いに川へ行ったりしたんだけど、ナノカは着いてきて、体を拭いてくれた。

 それは少し嫌だった。


「溺れたらどうするの」


 付き添いを断った時は、そんな風に怒られた事を覚えている。


 俺はふと、何故こんな場所に居るのかを尋ねた。


「それについては私にも分からない」


 とだけ。


 気が付いたらナノカと俺は洞窟のそばの森の中で横たわって居たらしい。

 先に目覚めたナノカは、洞窟を発見し、ズルズルと引き摺って俺を運んだのだとか。


 通りで、背中の部分だけ服が破けていたわけだよな。

 まったく、無茶をしやがる。


 それから一月も経たない内に、俺はナノカよりも機敏に動けるようになっていた。


 俺の世話をしてくれた礼も兼ねて、美味しい物を食べさせてあげたい、なんて事を考えた俺はナノカには内緒で獣を狩ろうと考えた。

 獣の肉が美味いということは覚えていた、というよりも本能が分からせてくれた。


 しかし、あれは無謀な挑戦だったと思う。


 グラジルボアと呼ばれていたっけか。

 体長600センチメートル、体高250センチメートルを超える巨大猪と遭遇した。


 そんな怪物に挑むなんて、血迷ってる。本当なら迷わず逃げ出すのが正解だろうにーーだけど、俺は何故か勝てる気がして、迷うことなく襲いかかった。そばに落ちていた痩せ細った木枝を一本、手に持って。


 ーーあれは、死ぬかと思った。


 巨大な体格、3000キログラムを超える自重を支えるグラジルボアの強靭な後ろ足に蹴り飛ばされて10メートルくらい吹き飛ばされた。全身の骨が砕けたような痛みが走り、突進してくるグラジルボアを見て、俺は死を悟った。


 目を瞑って、しばらく。

 全然痛みが来ない事を不思議に思って、恐る恐る瞼を持ち上げた。


 そこに居たのがデイネスだった。


鈍器どんきエルドレイン』、デイネスが所有する二振りの愛剣。その内の一振り、大剣の銘。


 180センチメートルを超える大剣を地面に突き立てて、頭部が縦に割れたグラジルボアに背を向ける男。


「おい、大丈夫か? しっかりしろ」


 俺の薄れ行く意識を悟ったのか、デイネスはそう声をかけてくれた。

 俺は最後に力を振り絞ってこう口にした。


「ナノカに美味しいものを食べさせたい」


 助けて、とか他にもっと言うことはあったように思うが、それは後の祭りだ。あの時はその一心でグラジルボアに挑んだわけだからな。

 痛みに悶えることもなく、言うだけ言って、気絶した。


 次に気が付いた時、俺はもうこの家にいた。

 デイネスが助けてくれたらしい。


 また、ナノカが泣いているのが目に入って、俺はひどく安心した。

 デイネスは俺のたった一文の言葉から洞窟に置いてきたナノカの存在を察知して、保護してくれたらしい。


 それから一月くらい、傷が癒えるまでの間デイネスとアネットのお世話になって、俺たちは家を出ようとした。


 そうしたら、引き止められた。


「好きなだけ家にいたらいい。もう、俺たちは家族だ」


 と。

 たったひと月。

 でも、俺からすれば目を覚ましてふた月も経っていない。新たな人生の半分を共に過ごしたと言える。


 俺たちは嬉しくて、二つ返事で受け入れた。


 そしてこの国において、トーヤとしか記されていなかった俺の名前がトーヤ・アクリスタとなった。


 アクリスタの姓を貰ってから先週で三年が経過した。

 いつか、この大恩に報いたいと俺は思っている。

 無論、それはナノカも同じ気持ちだろうーー。



「お兄ちゃん。終わったよ」


「ん、ああ。ありがとう」


「ずっとボケーッとしてけど大丈夫?」


「三年前のな、あの日のことを思い出していた」


「そっか……、大変だったよね」


 俺以上に大変だったろうに。そんなこと微塵も感じされないで言えるんだから、ナノカはすごく、偉い。

 語彙力の低下が露呈するな、これ以上はやめておこう。


「ナノカ」


 名前を呼び、ナノカは不思議そうに首を傾ける。


「手を」


「……ん」


 言って、差し出された手を引いて抱き寄せる。


「いつもありがとう」


「……最終章でも迎えるの?」


「ちげえよ。お礼を言っちゃあまずいのか?」


「ううん。不味くない……美味しいよ」


「美味しいの?」


「うん、美味しい。お兄ちゃん……生きててくれて、ありがとう」


「どういたしまして」


 しばらくの沈黙の後ーーどちらともなく体を離した。

 ナノカの顔が赤い。

 それは多分、俺も同じだろう。顔に熱が宿っているのが分かる。


 まあ、兄妹で感謝を言い合うなんてイベントは滅多に起こらないし、今日くらいはこの熱を味わうのも、悪くないかーー。


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