五、その手を取ったことを、後悔はしません。
謁見の間を後にした
しかし、そうやってぐるぐる考えている内に、いつの間にか門の前に辿り着いてしまっていた。
雲の上に浮いている門の外側に、小さな影がひとつ。
「あなたが、
成長し、十二歳くらいの少年の姿となった
その不揃いな黒髪は、あの時よりもずっと伸びていて、結びもせずにそのまま背中に垂らしている。赤い瞳を隠すように垂らしている前髪も、簾のようになっていた。
「名は··········ありません」
小さい声はまだ幼さが残っているのか少し高めで、言いながらどんどん俯いてしまった。
よく観察してみれば汚れた足元は裸足で、衣から覗く細い腕や足にも傷があり、頬にもぶたれたような痕があった。それを見る限り、少年の待遇は良いものではないことがわかる。
その場にしゃがみ込み、
「私で良ければ、名を与えても?」
俯いていた少年は、驚いて顔を上げる。そのまま
「······名を、くださるのですか? 皆に忌み嫌われている········
「はい。名がないとあなたのことを呼べませんから。あ、でも
先程よりも近い視線の先にある、不思議な赤い瞳。
差し出した右手の指先に、遠慮がちに小さな汚れた指が乗せられる。ふふっと笑って、その小さな手を優しく包むように握った。
「名は、少しだけ待ってください。良い名をあげたいので、まずは私の堂に帰りましょう。皆にあなたのことを紹介したいし、あなたにも皆のことを紹介したいです」
少年の手を引いて一緒に立ち上がる。少年は
手は繋いだまま、
「空を飛ぶのは苦手ですか? ではこれならどうです?」
少年を引き寄せ、片腕で抱き上げると、そのまま下降する。少年は思わず
肩越しに見えるその純粋な少年の横顔に、
(この子はやはり、悪い子ではないです。堂に付いたら湯浴みをして、身なりを整えて、髪を結って、······良い名を与えよう、)
その顔を上げた時、普段の可愛らしい顔が、ものすごく厄介なモノを見てしまったと言わんばかりに歪んだのは、言うまでもないだろう。
******
――――数日後。
「これなら、あの子も気に入ってくれるでしょう。あの子は花の精ではないけれど、私の堂にいるのだから、この名で決まりです」
初めて少年を連れて帰って来た時、
しかし世話好きな彼女は、文句を言いながらも、少年の手を引いて連れ去ると、汚れた身体を容赦なく洗い上げ、そのまま湯浴みをさせた。
その間に最初に纏っていたぼろぼろの漆黒の衣を器用に手直しし、ついでに新しい靴を用意させておく。
そして、湯から出た少年の鬱陶しい前髪に容赦なく鋏を入れ、綺麗に切って整えた。
その整えられた髪の毛を頭の天辺で一本に括り、櫛でとかしながら背中に垂らす。仕上げに紅色の髪紐で結べば、見違えるような美しい姿へと変貌を遂げ、
「あ········、ありがとう、ございました······」
一連の出来事に、少年はただただ目を大きくして驚き、言葉を発することすら忘れていた。我に返って、やっとの思いで言葉を口にする。
「俺にも、仕事をさせてください」
「良い心がけです。この堂に来たからには、もちろん働いていただきます。あなたの仕事は、この者たちの駆除です」
「この者? たち?」
「ちなみに、得意なことはありますか?」
「えっと、お茶を淹れるのは得意です」
その日から、少年の仕事は草むしりとお茶くみに決定した。
今日も真面目に与えられた仕事をこなしている少年を見つけ、
後で気付いたのだが、少年は急に話しかけたり触れたりすると、必要以上に驚き、びくりと大きく肩を揺らすことがあった。
足音に気付いたのか、少年は顔を上げ、ぱっと明るい顔になる。この数日で、
それが嬉しく、
「
立ち上がり丁寧に拝礼をし、花神としての
「これを受け取ってくれますか?」
「これは········、」
手渡された文を不思議そうに眺め、少年は
「開いてみてください」
「は、はい!」
あ、と少年は手が汚れていることに気付き、右と左の手を交互に衣で拭うと、文を開いてその中身を確かめた。そこには、ふたつの文字が綺麗な字で書かれていたが、少年にはなんと書いてあるかがわからなかった。
「これは"花"で、これは"楓"という文字です。読み方は、
「······
「はい、あなたの名ですよ、」
隠すことが叶わなくなった赤い瞳で
途端、ぽろぽろと零れ出した涙で、文字が滲んでしまう。あ、と少年は慌てて文を掲げると、頬をつたい続ける涙に驚いていた。
そんな姿を愛おしく見つめ、
「
差し伸べられた右手に、あの時と同じようにそっと指先を乗せ、
あの時と違うのは、そこに小さな笑みが生まれたこと。
そこには、見えない絆のようなものがあった。
――――忘れもしない、数百年前のあの日。
呪われし
それもすべて、あの月神の計略だったということを
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