違う世界の師弟

 部屋の掃除を始めた経緯は単純なことだった。床に散らばる大量の本と、くしゃくしゃに丸めて屑籠に入れ損ねた書類の残骸。それらともっと多くの物で構成された部屋に足の踏み場もろくに無くなりつつある現状を刹那が見かねたからだ。


「凛太郎さん、ちゃーんとお部屋を綺麗にしていてくださいまし。真箏様の教師として、節度は保ってくださらないと困ります」

「はーいはい。分かったよ刹那。忠告を感謝する」

「もうっ、ちゃんと聞いていらっしゃる? 後で訪ねた時、まだこんな惨状なら怒ってしまいますからね。言いつけます!」


 頬を目いっぱいに広げて怒る刹那は濡れた手をエプロンで拭うとすぐに部屋から出て行った。

 そのせいで今、こうして渋々魔術の研究を中断してまで部屋の物を拾っては積み、ごみを纏める作業をしているわけだ。魔術で解決してやってもいいが、それだと部屋から物が無くなりかねない。それどころか部屋から屋根や壁も無くなってしまう。


「あー、懐かしい。昔の教材か!」


 本棚の奥、並列させた本の後ろに落ち込んでしまった本を見つけ、何事かと引っ張ればそれは数年前の物だった。表紙には簡素な名前だけが記されている。


「確か、真箏が初めて魔術を習い始めて……」

「私がどうかしました?」


 ほんの少し指先が震え、だが何もないように落ち着いて振り返ればそこには案の定、金髪の少女が立っていた。


「ノックをしてほしいかな、真箏」

「ノックをする扉がなくて。開放された部屋はどこを叩くべきだったかな、先生」


 そういえば換気のために扉を開けっ放しにしていたのだったか。いつもここへ来るのは一部の物好きな人間だけなので油断していた。そういえば、その物好きな人間には真箏も、この国の皇女様も含まれるのだったか。


「今日はどうしたんだ。珍しく軽装だな。稽古の帰り?」

「ええ。馬術を久遠に教えていて。良い程度体が暖まりましたよ」

「うんうん。あんなに小さかった女の子が、今度は教える側になるとは。成長の時間を強く感じるね」

「ああ……確かに。けれど私、まだ貴方の規則正しい生徒でもありますよ」


 清廉とした微笑みを浮かべる少女は品行正しくしっかりと椅子に座ってこちらを見つめる。そういえば、とそんな真箏に今しがた見つけた懐かしい品を差し出す。


「ほら見てみて真箏。懐かしい物を見つけたよ」

「懐かしい物、ですか。ああ、ノート。ではなくて教科書の方? 確か先生の手作りでしたよね」

「そうそう! 懐かしい。子供に何かを教えるなんて初めてだったから苦労したものさ。あの時私様をこの城に捕まえた……お前の母も、お前自身も。厄介なことだ」


 放浪魔術師とよく言われるが、私自身から言わせればあれは放浪ではやく旅の途中だったのだ。

国のあちこちへ足を運びその地の魔術に関わる知識を収集する旅。だが、それは莫大な研究施設と資金を条件にやめてしまった。

 南の魔法を解明できなかったのは悔しいが、そこまで思い詰めていない。また一人きりになったら始めれば良いのだ。


「放っておくと人間はあっという間に歳を取る。私様と違って、難儀なことだ。お前だってそうだよ。ちょっと前までは足や顔に擦り傷を作って、その度に泣きついていたのに」

「お言葉ですが先生。私は皇族の血を引いていますので、二人分の人生程度を歩みますよ。つまり普通の子供はもっと早いんです」

「な、なに?」


 確かにそうか。真箏が途中で拾い、今でこそ主従ごっこのような遊びをしているあの久遠でさえ今はすっかり大人になった。前まではまだ子供に足を浸けていたのに。


「恐ろしいね、成長なんて……」

「ふふ、老人っぽい言い方ですね」

「誰がおばさんだと?!」

「はいはい。それより先生、聞いていただける? 私、剣の腕を認められ団長になりました」


 こともなげに言ってのける真箏に、おお、と拍手をする。あまり激しくするとガシャンガシャンと義手がうるさいので、三回ほど鳴らしてからすぐ机に手を戻した。


「お前には剣の才能があったものな、人の上に立つのも納得だ」

「ええ。魔術はそれ程でしたけれど」

「謙遜するな。真箏は凄く頑張っているよ。ただそれより私様が天才過ぎただけさ。ふっふっふ。簡単だ」


 胸を張って笑い飛びしても、真箏は何か表情が暗い。もしや面白くなかった? と顎に指を添えるが、どうやらそうでもないらしい。何か悩みでもあるのだろうか。


「近衛兵小団長、です。確かに誉高い地位ですが、不満がある」

「ふうん。ま、確かにそんな小さな隊を持っても王にはなれないものな」


 ぴくりと真箏の眉が跳ねる。思った通り。彼女はまだ諦めていないのだ。童話のように、英雄譚のように。国を統べ民を導く立派な王になることを。この国はそもそも帝国であるのだから、そこはせめて皇帝と言ってほしかったのに。


「大切な生徒に夢を捨てろとは言えないが、お前のその目標はとても難しいぞ。そもそも、真箏の父親が認めるとは考えられない」

「そうですね、あの男。私を閉じ込めて人形のように扱おうとする自分勝手な人間」

「外に出て剣を奮えるだけ幸運に思え。お前は自分のその身分を勘違いしてないか?」


 彼女は帝国の皇女。それも現皇帝の寵妃が残した忘れ形見だ。それも母親とよく似た顔をしている。そんな娘を、父親としてどう扱うべきか皇帝は理解している方だ。

 だが恨むべきは真箏が、見た目こそ亡き妃と同じ美しい顔でも中身は父親譲りだったことであろう。これは父に似て傲岸不遜で、排他的である。特にその強欲さは恐ろしいほど父子揃ってそっくりだ。


「けれど私は王になりたい。物語を幸せに導く、賢王に……」

「ふむ。私様は世界が認める偉大な魔術師だが、その夢を叶えるための手助けが思い浮かばない。性別を変えてやればせめて、近しい場所まではいくだろう」

「……」

「お前は今でも十分に特別だ。他の子にない才能も地位も全てがある。なのに、まだ何かを望むのか?」


 彼女の肩に手を置きそう語りかける。真箏は剣豪とは思えない、少女らしい華奢な体格をしていた。つい、かつて握りしめた小さく柔らかい手を思い出す。今まで忘れていた記憶だ。


「他の誰でもない、私自身が。王ではない自分を受け入れられないのです」

「ならば勇者はどうかな。傾国の姫は? それとも剣聖など。魔術は下手だから聖女にはなれないが、お前に与えられるべき特別な肩書きならいくらでもあるだろう」

「勇者……」


 唯一反応を返す言葉が勇者、か。そういえばまだ十歳程度の頃、よく遊んだ。真箏が勇者でその母が囚われの姫。私は不本意ながら悪の魔術師として庭を駆け回った。懐かしい。今日はよく過去を思い出す。人間でなくなった日から、段々と疎遠になった生物的な行為だ。


「最大限、私様はお前の横で知識を与えてやる。お前がそれでも王になりたいと言うのなら、その分だけ私も努力し教える。それ以外でも同じように」

「そう、うん。そうだね。凛太郎は私の先生なのだから。私の夢を壊す権利はない」


 生意気な瞳だ。真箏の輝く紫の瞳は真っ直ぐに私を見つめた。例え人外の化け物と相対しても動じない強い意志を宿している。


「はあ、お前が急にくるものだから。部屋の掃除が滞った」

「そういえば部屋が散らかっているね。掃除なんて、先生にしては珍しい」

「刹那がやれってうるさくてな。渋々やってるんだ」

「手伝いましょうか。私でも物を拾うくらいなら出来ますよ」

「いーや。雑巾の絞り方も知らない深窓の皇女様に与えられる仕事はないな」


 やはりここは魔術でぱっと片付けてしまうか。と杖に手を伸ばす。私は天才だから、多少の制御を逸しても部屋ごと吹き飛びはしないだろう。繊細な魔術を部屋に這わせ、一つ一つ丁寧に物を片付ければ良いのだ。

 と、立ち上がった瞬間にまた誰かの足音が聞こえきた。


「どうでしょう凛太郎さん。進捗のほどは」

「あー刹那。ちょっと待っていておくれ。今はほら、来客があったから仕方なく……」


 来客? と首を傾げる刹那は確かめるために部屋を覗き込んだ。すると、そこにいるべきではない真箏の姿を目に留めてぎょっとする。口を覆う姿は珍しいものだった。


「こ、これは真箏様。申し訳ありません。ご機嫌よう」

「うん。悪いね刹那。先生と話し込んでしまって彼女の邪魔をした。あまり、怒るのはやめてあげてもらえないか?」

「そんな。滅相もございませんわ。私はこれで、失礼いたします」

「いいや待て。刹那、そのまま凛太郎に付き合って掃除をしてやれ。メイド長には私から言っておこう」


 は、はい。と何度も彼女は頷く。これは助かった。この城の中は真箏の言葉で全てが動く。家具でも、料理でも花でも。人だって彼女の視線一つで一夜にして顔ぶれが全て変わることだろう。


「こほん。では、私が監修の元凛太郎さんのお部屋を綺麗にいたしましょう」

「いやいや、助かった。ありがとう刹那」


 刹那を力強く抱き締めると腕の中から抗議の声が上がった。エプロンに皺がつくのだと騒いでいるが、そもそもメイド服は汚れるための服だろうに。


「ではまた。良い一日を」 



 少女の声が記憶の重なる。


「よい一日を、先生」


 握られた訓練用の剣は所々へこみ、ほんのりと赤く染まっていたはずの頬は今や土埃が付着している。それをハンカチで拭ってやると紫の瞳を細めにっと笑った。


「小さな騎士さん。いつもの、ご機嫌ようはどうした」

「飽きたからやめた」


 きらきらした悪意のない表情だ。だが、宮廷の教師から追い出された者がどこへ行くのか知らないわけではないだろうに。気に入らない者を廃することに罪悪感などないのだとろうな。

ま、それも血統種の子供らしくて良いかと頷く。


「そうか。これは、作法の先生が泡を吹く姿が目に見えるな」

「あの先生はもういらない。それより作法の時間を剣術と馬術に回したいし、あと狩猟もやりたい」

「それは全て子息のレッスンだ。お前は、いつから男になった?」

「この前からですよ。ほら、絵本を一緒に読んだでしょ? 騎士王と救国の勇者のお話。私は王になりたいのです」


 面白い。子供の面倒を見るのはこれで二度目になるが、ここまで高慢ちきな子供はそこら辺はいやしない。見ていて飽きない君主の卵だ。


「そうかそうか。夢を見つけて、偉いぞ真箏。ならば私からは座学だけではなくて実践の魔術を教えてやろう。知識は、何にも勝るお前の財産となるさ」

「はい、先生。先生の柔軟な意向に感謝します」


 真箏がとったのは騎士の礼。それもそうか。姫が纏うべきドレスの裾はどこにもない。今あるのは剣と、土。それに潰された手のひらの豆だけだ。


「では未来の騎士様。私様のエスコートを頼もうか。勉強部屋へ行こう」

「喜んで! だけど先生。しゃがんでいたたがないと。手が届きません」

「それだとこの私様が四つん這いで歩かなくてはならなくなるな……」


 大切な記憶だ。だが、いつかは忘れてしまうだろう。魔術の知識と引き換えにした思い出は数多い。忘れたことももう忘れてしまった。


「もし王になったら先生を私の右腕にしてあげますね。楽しみにしていてください」

「おや、私の右手になってくれるのではないのかい?」


 まだ血を見ない麗かな少女の微笑みがそこにはあった。

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