いつか英雄となる男

 こんなにも恐ろしい戦場は、きっと他にはないんだろうと思う。


誰か、誰か怪我人を

止血のためにロープを寄越せ!

ああ、寒い。寒い。


 竜の羽ばたきが地面を叩きつける。大きな暴風を巻き起こす黒い翼は天に高く舞い上がると、敵陣に向かって一気に滑空していった。

ああ、黒竜なんて珍しい。現実逃避するかのようにそんな言葉が喉の奥に浮かぶ。だが下から続く喘鳴に桃色の髪を垂らし、俺は一心に圧迫していく。


「安心して、今助けるから」


 横たわる赤い制服を見に纏う騎士は、架空に手を差し伸べて寒いと譫言を繰り返すだけだ。誰に向けて言ってるかも分からない。


「大丈夫、貴方は安全な赤十字の下に来ましたから。い、まから、焦がす準備を」

「寒い」


 布生地を必死に切断面に当てがっていた指が力を込め過ぎたせいで白く染まる。いけない。布生地が真っ赤に湿っていた。騎士の血が止まらないのだ。これは大きくて清潔な白い布であったのに、今は全体が赤くなって重たい。代わりの布が必要だ。

周りに置かれた空の薬瓶を手で押し除け慌てて立ち上がる。からんと転がった瓶に転けてしまいそうになるが、寸前のところで歯と足指で踏ん張り走り出した。


「何をしてる」

「あっ」


 木箱に手を伸ばしていた時に責め立てるように声を掛けられた。目元の深いしわ。瞳孔の開ききった鋭い目。腕には俺と同じ赤十字の腕章がある。この男は俺の上司だった。麻酔を使わない施術を担当する軍医の一時的指揮官。このテントの王様だ。


「た、隊長。俺、止血用の布生地を補充するところで」


 隊長は天気でも確認するかのように顔色変えず後ろを覗き込むと、ふんと冷淡に鼻を鳴らす。


「あの兵は捨て置け。もう無理だ。何をしても死ぬ人間に無駄遣いできる物資はここにない。次の負傷兵を連れて来い」

「ですが、意識があります」

「脳が勝手に言葉を発しているだけだ。意味を含まないだろうよ。きっと痛覚すら既にない。今に死ぬ」


 ちらりと横目に男の横たわる体を見る。彼は、寒いと繰り返す男は……。

足が無く、眼球が破裂しているのか目には肉片が詰め込まれている。遠くから見ると余計に惨憺たる光景が浮き彫りに出るようだ。きっと近距離で爆撃を食らったに違いない。体の原型を留めていることが奇跡だ。


「何を呆けている?」


 これだから新人は、と腕を掴まれ思いっきり隊長にテントの外へ放り投げられた。上半身から崩れるように落ちた地面のせいで土埃が口に入って咳き込む。遠くからは火薬の匂いと轟音がした。土を払う為に顔を振ると耳の奥がきんと痛む。それでも振り返り、男の全身を仰ぎ見た。指先から始まりいろんな戦死者の血で濡れて、手には血肉が絡まる糸鋸が光る姿。なんて冷酷な男だ。とその瞳を見やる。


「隊長!」

「死ぬ命にかまけて助かる命を見落とすつもりか?早く走れ、若造」



 ああ、神様。東には信仰心がない。人は追い込まれた時に縋るものがない。ならどうして戦争なんてしているんだろう。




 東の国はいつだって賑やかに、平和に過ごしてきた。海と共にある生活は人を活発にさせる。事あるごとに祭りをして、踊り、歌い、そうやって暮らしてきた。

 一年前に侵略者がやって来るまでは。彼らは海からやって来た。大陸の外から、この東の地を奪い自分たちが大陸を制覇する足掛かりにするための支配地を有する目的に戦争を仕掛けたのだ。東はそれから祭りをしなくなった。ドラゴンと共に縦横無尽に飛び回る竜騎士たちは国の平和ではなく、来る蛮族の殲滅の為に日々過ごす。



 そしてここにも真新しい隊服に身を包み、桃色の髪をした男が部屋を訪れた。


「初めまして。今日からこの隊に配属する鹿苑時雨です。軍医として精一杯努めます」

「新人か。時雨、時雨……ねえ。筋肉の薄い体だな。初日で死ぬだろうよ」


 初めて王立の騎士団に加わった時の第一声がこれだ。立場も忘れては? と声を漏らしたのも仕方がない。

高い学費を奨励金で誤魔化して士官学校の医学棟を出て、何人もとコネを作りようやく手に入れた軍医という称号。誇らしかったし、周りの友人には吹聴して回ったものだ。俺の超最高な出世は確定した! これで怖いものなしって。


「し、死ぬって?」

「知らないのか。我々東の騎士団は乱世期だ。一日で運搬用の馬が足の骨を折るほど死体が出て、全体が疲弊している」

「百も承知です」

「お前はその前線に送り込まれるんだよ。軍医、だからな」


 そんな筈はないと、手に持った自身の銀プレートを握り締める。


「俺は戦争帰りの騎士を治療する部門のはずです! なんでそれが戦場になんて」

「優秀過ぎたんだろうな、お前。まあ不幸なのは認めてやる」

「間違いを申請してきます」

「諦めな。いいか? 戦場から帰って来る騎士なんていないんだよ。だからお前の部門は破棄されたんだ。帰る騎士がいないのに何を癒す」

「だから残った医者の命も投げるって?」

「そうだ」


 何事もないように言い張る男を信じられないと見つめる。こいつは高圧的で見下すように俺に死ねと言うんだ。自分は軍議室から出ないくせに哀れむふりもしない。その腹の脂肪は何だと目で訴えかけても、男は気にもしないだろう。葉巻を加えるその口で、髭を動かしながら死刑宣告をもっと付け加えるように机を指で叩いていた。


「ああ、そういえば一人いたな。化け物が。そいつの支援でもしてやれ。生きて残れば、あいつもお前も出世できるさ」


 相手が俺より強くて恰幅の良い軍務卿じゃなけれは殴り飛ばしていたところだ。そんなの話が違う。まるっと違う。これじゃ、俺は死ぬ為に今まで必死に努力したみたいじゃないか。

部屋を飛び出るように去ると、廊下がぐにゃりと歪んで回った。正確に言うと視界が、だ。安定しない足取りに立っていられなくてその場に座り込む。気分が悪い。


 お洒落も友人付き合いも諦めて勉学に集中していたのに、その結果がこれ?

土の山を這いずってそう何度も心に問いかける。味方の色を確認して、背負い、引き摺り、テントへ運ぶ。処置をして、野垂れ死ぬ最後の悲痛な嘆きや後悔を聞き取り麻袋に詰める。そんな仕事をしなくちゃいけないなんて!



「ごめんなさい、ごめんなさい。麻酔がもう、なくて、痛み止めは……」

「壊死した部分の切除を……」

「どうして支援物資が一つも届かない?何度も電報を飛ばしたのに! 何故、何故」




 はあ、はあ、と自分の息切れが他人事みたいにどこか遠くから聞こえて来るようだった。

頭部を守るアーマーヘルメットが重たい。そもそもこんな鎧みたいなの着けるなんて聞いてない。軍医の制服は赤くて、白い腰ベルトでとてもお洒落だと医学棟の中では人気があった。けどその真実はと言うと、赤いのは血をごまかす為に違いなかった。

千切れた桃色の髪が余計に心を抉り取る。後ろに一つで雑に纏めたせいで、いくつもほつれ毛が飛び出しては屈むたびに首を擽る。


「待って、怪我人を発見。運びます」


 同じ隊の同期が遠くを指差しそう叫んだ。可哀想に、声帯を傷付けた空気のような声だ。


今丁度激戦区となっている中央の草原地帯からは少し離れた場所、森林と草花の隙間となるような岩陰に、だらりと伸びる足が見える。隊服は赤色だった。東の騎士団の象徴だ。地平線からやって来る南征の蛮族達は雑兵にまで服を支給しない。農民のような安価の布生地に適当なチェインと、それと鈍の盾と剣を持つ。


「意識ある?」

「駄目、呼びかけに応じねえ」

「はぁー最悪」

「僕が背負う。あんたは周囲の警戒と武器!」

「りょ、りょーかい」


 小柄な体格はどこまでも不利だった。騎士にはなれなくても、医師として騎士を、果ては国に貢献すると誓った時雨は横で負傷兵を背負う同僚を見守り、無力さに目を強く瞑る。そしてすぐ硝煙の臭いに目を開けた。


「うっげ、こいつまじで重い! 血だらけですっごい体が滑るし」


 騎士の近くで落ちていた武器はヒビが入っているらしかった。それに男の愛竜も姿が見られない。東の騎士はドラゴンと共に戦い散っていく。離れ離れになるなんて不自然だ。


「くっそ。体力持つかな」

「凄い、この騎士髪まで血をかぶって真っ赤だ。きっとさっきまで最前で戦ってたのにここまで撤退したんだよ」

「うう。早く運んで救護を……」


 隣を歩き始める同期の男がそう言い終わる前に、背負われたせいで時雨の横側に垂れていた腕がびくりと痙攣する。持ち上げた衝撃で筋肉が引きつりを起こしたのだと思ったが、血濡れの顔からじろりと白目、そしてギラギラとした光を放つ桃色の瞳が現れてひっ、と息を飲んでしまった。時雨は慌てて手にしていた支給槍を落としそうになる。


「ま、待って、その人起きた」

「……どいてろ!」


 遠くから響く馬の蹄鉄の音が耳を貫く。敵の騎馬兵だと理解する前に血濡れの騎士は同期の背中から飛び上がり、俺の手から槍を掻っ攫うと投擲のように軽々大きく振りかぶり馬上の兵士、その纏う鎧の細い首元の隙間目掛けて投げた。確かに支給槍だったのだ。重くて、長い。投擲には向かないどころか投げるなんてありえない。

だが正確な軌道を描く槍は凄まじい速さで空を切ると吸い込まれるように敵兵の首元に突き刺さる。鈍い音と、主人をなくした馬が暴れる嘶きが響いてどうしようもなく耳を塞いだ。それからどしゃりと地面に突っ伏した鎧の兵は二度と動かない。たった一撃で葬り去ったのだ。一人の人間を。


「もしかしてこいつが、彼方……」

「彼方?」


 怯える同期はじりじりと後ろの草むらへ後退していく。危険人物なのか、と疑問符を浮かべている俺に向かって地濡れの男は振り返ると、顔色一つ変えないままに白い手袋の覆われた手を差し伸べてくる。その意図が理解できない。


「え?」

「武器。お前ら支援班じゃねえのか? 替えの武器が欲しい。今ので槍が壊れちまった」


確かにさっきの槍はヒビが入っていたんだった。だがそうは言われたって勿論俺も、恐怖で萎びる同期も武器なんて持ち合わせていない。あんな重いものを背負って戦地を走り回るなんて俺たちには無理だ。


「お、俺たちは医療班!あんたを救護しに来たんだってば!」


 見せつけるように腕章を前に引っ張ってそう強く主張する。乾燥した空気に痛んだ喉が悲鳴をあげてげほ、と小さくむせた。俺の言葉を聞いた血濡れの男は興味をなくしたように腕を下げる。


「救護? 俺にか。ははは、これのどこが負傷兵だっていうんだ! 俺はまだ戦える」

「いやいやだってどこから見ても、怪我してるよ。治療しないと悪化する」

「黙ってろ。戦力にならないなら帰ればいい。死体を増やすだけじゃ意味がないんだ」


 力強く、だけど覚束ない様相で踏み出された足を見て慌てて男の腕を掴む。行かせられない。見過ごせない。心からそう思った。


「さ、さっきの投げ槍の時に腕から血が吹き出るの見たんだからね。ばっちり、しっかり! 軍医なんだよ俺たち。仕事は絶対する。あんたはテントまで撤退して」

「お前の仕事を奪うようで、悪いが。俺は前線に復帰するんだ」


 そんな事を言って。既に会話もギリギリじゃないか。


「ここにはいられない。テントなんてもっての外、だ。俺より、もっと他の重傷兵を……運べ」

「……無理。それは出来ない。助けられる命をふるいに掛ける必要が、ある。から」

「何だと」


 騎士は相当に体が痛むのか、歩くことすら億劫そうに、だが気丈に振る舞い俺を真っ直ぐに見つめた。その真剣な視線はまさに死を知った者の目だ。恐ろしい殺気を含む。身体中が竦みあがるようだ。戦地に身を置いていながら、俺はまだ自分が死ぬ未来を認められていない。だけどこの男は違うらしかった。


「命に優劣をつけるってのか?」

「……物資を無駄遣いしないためなんだ。二人、危急状態の騎士を見殺しにしても、助かる見込みのあるあんた一人を助ける」

「それが軍医か?」

「うん、うん。そう」


 俺が頷いたのを見て、男は不敵ににっと笑う。こんな場面なのに息を呑むようだ。なんて美しい笑顔だろう。瞬時にそれまであった足の疲労や指の痺れが消え失せる。だが騎士はふらりと体を揺らしその場に倒れ込んだ。うわっ、と俺と同期、二人分の嗄れ声が重なり響く。


「お、俺が手当てするから、あんたは器具運んで来て! この距離ならこのガタイ運ぶよりそのが楽!」


 分かったと承諾し走り出す同期の後ろ姿を見送って、まず男の身体中の傷を確認した。

ただの切り傷だけじゃない。刺し傷に細かな火傷、指の皮は破けて足の筋肉は貧血によって引きつりを起こしていた。この体でよくもまあ、あの一瞬だけでも一人で立ち上がったものだ。無理して俺たちを守ったのだろうか。それともたまたま?

小さな鞄に無理矢理詰め込んだ大量の治療器具を順に取り出す。切り傷は全体を綺麗に拭って覆って、熱を持つ鉄針で刺し傷の表面を焼き焦がした。これでほんの少しはましになる。


 鉄針を押し付けるとびくりと体が揺れ、痛みからか体を捻り這い逃げようとするような姿勢を男は取る。するとその拍子に口からごぼりと血が垂れ落ちた。あまりにぎょっとして自分の髪の毛を噛んでしまう。吐血した。もしかして内臓にも損傷があるのか?


「ああ、もう! 残念だけど騎士様のかっこいい隊服切り刻んじゃうからね!」


 腹部から肩の部分まで、医療用の小さな刃のハサミで根気よく切り取る。こんな時に小さい頃から母に教えられていた裁縫を思い出した。


「うっわ、やっぱり。最悪」


 背部に大きな鬱血の後。馬に踏まれたのか、殴られたのか。とにかく肋骨は折れているはず。その表紙に内臓も骨が当たって傷付いたのだ。だとするととんでもない重傷兵。早速さっきの言葉を裏切ることになる。これでは、今この場にある器具では手当てが間に合わない。


「わわ、どうしたのヴァルハザク」


テントに待機をさせていたはずである時雨のドラゴン、ヴァルハザクがいつの間にか側に寄り添うようにそこにいた。白い鱗が眩く輝く。戦場でなければ触れたくなるような清廉な色だ。爬虫類特有の瞳孔を浮かべる赤い瞳がギョロリと周りを見回す。

そうだ。こんなに立派なのだから、遠くからでもすぐに敵に見つかってしまう。白色は保護色なんかにはならない。


「ここにいちゃ駄目だよ。移動してヴァルハザク。君にこの人を乗っけて運ぶのは無理だよ、これ以上動かすと余計命に関わる」


 違うとでもいうようにヴァルハザクは仰々しく唸り足で土を蹴る。


「じゃ何するっていうのさー!」


 ベロン。と、真っ赤な舌で顔の全体を舐められる。生暖かい唾液塗れになった素肌が気持ちの悪い感触を伝えてくる。背筋が震えてうげっと声が漏れた。何をするんだと抗議する俺に、ヴァルハザクが俺の下にある男の体に涙を一つだけ零した。ぽたん、と。月を抽出したように輝く宝石の涙。これにはどうしてか傷を癒す力がある。だがとっても希少なことだ。彼は出来るくせに、人を選り好みする。自分が気に入った人間しか癒そうとしない。


 そこでようやく戻って来た同期の声が聞こえた。情けないくらいに途切れ途切れの息をどうにか少し整え視線で訴えかける。


「おいおい、なんでドラゴン連れてんだよ! 俺ら軍医は悪目立ちするから待機させろって隊長に言われてんでしょ」

「なんか着いてきちゃったみたい。でもこいつは……」


 ヴァルハザクは俺と契約した魂の相棒。見た目も白竜で目立つこともあるが、希少なのは見た目じゃない。彼は治癒の力を体に宿す。涙は痛み止めになり、唾液は解毒薬。他にも気が付いていないだけでいろんな効能を持つのかもしれない。この子がいれば多くの人が救える。だが、強要は出来ない。ドラゴンの能力は彼らの寿命を削るだろう。癒す数を増やせばこの場で命に関わる。だから誰にも言えない。この事実は時雨のみ知っていればよい。


「まあいいよ、茂みにでも隠しといて。騎士の容態は?」

「もう大丈夫。最悪は防げたかな」

「そりゃ幸い。そんな大した怪我じゃなかった? 血だらけだけど、どっからが返り血かわかったもんじゃないもんな、これ」


同期が自分の持ってきた布で血を丁寧に拭っていく。他人の血なら尚更、放っておくと感染症になる確率が上がるから清潔を保つ必要があった。怪我と病気の同時攻撃は人体にとんでもない効果を及ぼすから危険だ。貴重な布だが人命には代えられない。


「でもまさか、あの彼方を救護することになるなんてなあ」

「彼方って、この人の名前?」

「そう。縦横無尽の強さを持つ騎士さ。一日だって命の保証がないこの戦地でずっと戦い続けてるヤバいやつ。他とは一線を越えてるよ、ほんと」

「へえ」


 まじまじと意識のない「彼方」を見つめる。険しい表情にはいくつも切り傷が散らばるし、髪には血肉が絡まってドロドロで惨憺な姿。だけどその先の鋭利な素顔を思い出す。俺が出会ってきた人間、もの、全てのどれよりも美しかった。あの一瞬が忘れられないくらい。


「あんたって彼方のこと知らなかったんだな。さっきも、思いっきり睨まれてたのに物怖じしなかったでしょ。俺なんて意識飛ばすかと思ったくらいで……」

「俺だって怖かったし。でも夢中すぎて鈍ってたっていうか」

「まあ何でもいいよ。助けられたならそれだけで……」


 言葉を言い終わるよりも前に、遠くの方から何度目かの爆音がした。火薬の臭いに鼻を歪めてしまいそうになる。ここまで突風が吹き荒れて息が止まりかけてしまう。それでも息を整えていた俺たちは瞬時に緊張を張り直して足を叩いて立ち上がる。そうだ、ここは戦場。これ以上ゆっくりなんてしてる暇ない。

 音に驚いたのかヴァルハザクが飛び退くように草をかき分けていった。ああ、こら待て! 勝手に現れて勝手に逃げ出す相棒がいるか! と悪態を吐きたくなるが、彼が進んでいった草むらは葉や枝が折れた獣道が出来上がっているらしい。その道に好機を見出す。


「俺が騎士を森伝いに行ってテントまで運ぶよ。きっとこの後ろの密林地帯なら敵に出会す確率も低い」

「おっけー。じゃ僕はもっと奥に行く。はあ、死にたくないのに……!」

「俺だってそうだっつの!」


 去ろうとする同期の背中に時雨は精一杯大きくて覇気のある声で叫ぶ。


「健闘を祈る!」

「こちらこそ。健闘を祈りますよー!」


 右腕同士をぶつけて同期と反対方向に分かれ進んで行った。腕を肩に引っ掛け持ち上げた彼方の体は確かに想像以上に重くて息が止まる。背丈もとびきり大きいし、折角背中の全てを使って担いでいるのに足はずるずると地面を滑っているし。どうなってんの。この際靴が泥だらけになって、革が痛むのは許してほしい。


「重い、重くない…! 重い、重い……」


 ヴァルハザクが道を作ったからと言って雑木林。木を避けるため迂回して、飛び出す枝に服を引っ掛け足を取られ、思った以上に体力が奪われる。いつか食べ物が喉に引っかかったような呼吸音がしていた。

だけど俺がよろよろと体制を崩すたびに彼方の苦しげな息が溢れるのだ。こうとなっては責任を持ってこの男を助けてやらなくてはいけない。足の筋が千切れようとも、水分不足で発作を起こそうとも。


「あと少しだから……!」

「俺を、戦場に」


 子供のようにあどけなく悲しい声色。


「黙って! 舌を噛み切って死にたいの」

「頼む。俺を、戦場で殺して。くれ」

「死なせないもん! 絶対、俺が死なせない、助けるー!」


 がさがさと他の足音が草をかき分ける。味方の増援だ。仮拠点にたどり着いたんだ。


「誰か」


 だが現れたのは赤い服じゃなかった。ああ、しまったと唇を噛み嗚咽を漏らす。敵兵だ。すぐに背中を庇うように木の影に隠れ込もうとするのに二人分の体重で足がもつれた。敵が剣を構える動きが緩く緩く目の端に映る。剣先を目で追ってつい体が動いていたのだ。彼方に覆い被さる俺が、最後に感じたのは凄まじい熱だった。

生きて、助けてあげて。支えになってあげて。




 ベロン。

 また何かに舐められる感触が顔いっぱいに広がる。あまりに不快な水音にうぐ、と唸り頭をひねった。その何かから逃げ出したい気持ちのままに寝返りを打つ、が。途端にビキリと線に伝って走るように痛みが腹部から身体中に移動していき浅い息をコホリと吐き出す。


「っい、ったい。え、う。何」

「動くな、傷が開く」


 目を開いてみても上手く景色が映らない。水の中を覗いているようだった。ぼんやりとして揺れ動く中、赤色だけは鮮明に捉えられる。


「あんた、誰」

「名前か? 出雲彼方。昏睡から起きたすぐがそれなんて。なかなか肝の据わったやつだなあ」


 彼方。彼方。名前を脳で転がすとようやくだがちょっと前の記憶が蘇る。


「凄い強さの人……」

「うん? 無理して頭働かせなくていいぜ。混濁状態とかってやつだろうし。まあ、自分の状況くらいは思い出してほしいが」


 確か……と、独り言を数度にわたり繰り返す。


「えっと、俺。あんたを運ぼうとして」

「ああ」

「あともうちょっとで仮拠点ってところで俺……もしかして死んだ?」

「はは、生きてるよ。お前も俺も」


 薄青の月明かりに照らされる彼方はそれでも相変わらず真っ赤だ。血に濡れている。だが様子は人が変わったように落ち着いていた。荒れ狂う殺気が今はない。嵐の過ぎた海原に似ている。


「俺の心配より、あんたの衛生を確認させて」

「俺の心配よりだって? 駄目だ、お前の方が重傷だろう。腹を刺されたんだ」

「え、え?」


 起き上がろうと腹部に力を入れようとすると身を割かれるような痛みに悶絶しもう一度地面に倒れ込む。は、は、と喉で繰り返す息がとても苦しい。そうか、この痛みは刺し傷だ。


「貫通してる。普通なら死んでたぞ」

「でも俺……そこまで重症って感じじゃなくない?」

「ああ。そうだな」


 何だその言い回し、と彼方が笑う。思ったよりあどけない笑い声だった。


「お前のドラゴンに感謝しとけよ。さっきまでお前の体温を維持するためにずっと寄り添ってた。今は俺のドラゴンと自軍を探しに行ってる」


 確かに負傷時の低体温症は死に直結する危険を孕む。ヴァルハザクが恒温動物の生体を理解してるとは思えないけど、生物の本能でも働いてくれたのかな。


「そっちは回復したみたいだね。よかった」

「最初からそんな酷くはなかったよ、死んでねぇしな。ただ目が覚めたらお前が、庇うように倒れてて。驚いた」

「そっかあ」


 真っ暗な森の中で、二人分の呼吸音のみ聞こえていた。気まずい沈黙のようでもあるし心地よい静音のようでもある。不思議な感覚だ。貧血時の患者は酸素の不足でこのような体験をするものなのだろうか。


「なあ、お前。俺を庇ったのか」

「んん……ううん。軍医だから。患者を優先しちゃったの。それだけ」

「そうか」


 あれがよい判断だったか自信がない。医師が一人死ぬのと騎士が一人死ぬこと。どちらが重大かと言われてはすぐ答えられないからだ。褒められたことではなかったのかも。またあの冷徹隊長に怒られる。


「ねえ、質問してもいい?」

「駄目だ。さっさと寝ろ。周囲の安全が確保でき次第俺が担いでテントまで戻るからな」

「意識を失ったら今度はいつ目覚めるかわからないよ。意識を保つ為だと思ってさ、会話を続けようってば」


 そこまで言えばようやく観念したように、彼方は自分の首裏を擦って頷いた。ただし一つだけ。秘密主義だかららしい。


「あのさ……何で死にたがってたの」

「何の事だよ」

「呟いてるのを聞いたよ。戦場で殺してくれって。悲しそうだった。騎士の本懐とは違うでしょ」


 忠誠を誓う王の為、国の為ならば喜んで死ぬのが騎士の望み。死ぬならば美しく清いままで死のうとするのが騎士道だ。ならば、あんなに悲しくあるはずがない。


「だけど答えたくなさそうだから違うのにしてあげるね。俺は優しいからさ」

「…‥早くしてくれ」

「じゃー、年は?」

「はあ? くだらないこと聞いてんじゃねえ。やっぱりまだ意識が混濁してるのか?」


 彼方は餌を探す熊みたいにのっそりと時雨の顔色を覗き込む。気恥ずかしさとその仕草の面白さで時雨は努めて小さくふふふと笑った。


「違うよ。聞いてみただけ」

「じゃ、自軍に合流してから教えてやる」

「王都に帰還してから教えてよ」

「それは無理だ」


 意固地なやつ。切り刻まれた上着を脱いでいる彼方の体はやはり傷だらけだ。シャツには血が滲んでいるし、どこもかしこもほつれている。彼の姿が見えてきたのなら俺の意識も安定しかけてると判断してもよいかも。どれにしたって状況は確実に改善されつつある。


「じゃあ俺が回復してからね。あんたを担いでたから刺されちゃったんだよ? 責任とってよね」

「取れるなら取ってやりたいもんだがな。俺には名誉も地位も財産もない」

「じゃあ顔だけかあ。いや、うーん。悪くない商談だけど。さすがにそれじゃ味気ないよね」

「おう。冗談言えるくらいにはマシになったらしいな。俺もここにいる甲斐がある」


 顔だけを横にして彼方を見つめる。木にもたれるように座り込む男はやはりあの時のように微笑んでいた。だけど瞳は緩やかに瞬いている。濁りは見当たらなかった。


「約束だよ彼方。傷が塞がったら、美味しいお菓子と紅茶を飲みながら教えてね」

「…ああ、ハイハイ。騎士道に誓って善処してやる。だから今は休め」


 ようやく気が付いたよ。そっか、血濡れじゃなかったんだ。彼方の髪は炎のように、太陽のように誰かを照らす赤色なのだ。




「お帰り、時雨殿。初めての戦争はどうだった?」

「心底最悪でしたね。最初で最後にならなくてよかったです」

「そうだろうとも」

「俺の同期は?」

「仮拠点は貴殿が負傷した時点で瓦解しつつあった。本線からあの獣がいなくなったらしい。そこからはあっという間に押されたという旨の報告を聞いたがね」


 だからあの森の中に敵兵がいたのだ。そうでもなかったら反対側からやってきた敵と遭遇する場面なんてあり得ないだろう。


「貴殿の仲間は多くが死んだ。死体の見送りは早めに済ませておくとよいよ」


 何を、物悲しそうにいうのだろうこの男。この椅子に座って報告書を読むだけのくせに。ふんと鼻を鳴らし、俺は威張る子供のように胸を反って相手を見下ろす。


「……ところで軍務卿、この通り俺は死にませんでしたよう。軍務卿なんて凄ーく豪華な椅子に座っておきながら戦力と実力を見誤ったなんて、ちょっと間抜けですよね」

「運だろうが」

「運は実力に含むの!」


 何にしろ、と時雨は口元をふにゃりと緩ませる。

「これで貴君の顔も見納めなんて残念です。ね、お払い箱の“元“軍務卿殿!」

「……それはどうも」


 そう皮肉たっぷりに言い放つと殴られる前にそそくさ退室をした。部屋の中から追って来るような足音がしたので慌てて俺は廊下を走って逃げ出す。まだ完治しない腹がやんわり疼くようだがその不快感さえ楽しいと感じる。この廊下を見たのは初日から二回目のこと。あの時とは真逆の心境に心は踊る。ざまあみろ小太りおっさん!


 俺は名誉ある負傷のために最戦線から離脱した。回復の兆しが見えるまで絶対安静を約束され、拠点の中で懇々と眠る中でも、戦況は止めどなく動いていたのだ。


一人の男が蛮族の主力を壊滅させた。たった一人と一匹のドラゴンの力だけで。撤退を余儀なくされた敵兵は海を渡り逃亡。事実的な敗戦と帰す。ただ俺の心残りは彼方の安否を確認できなかったこと。死にたがっていた理由がわからなかったこと。なの、だが。

 胸が空くことに、不戦を女王が宣告したことで不要となった軍務は解体、騎士団への吸収を余儀なくされたってわけ。だからさっきの軍務卿は失業に近い境遇を言い渡されたのだった。騎士団の中でもそれなりに出世するだろうけど、軍務と王立の騎士団は仲が悪い。きっとろくな待遇が待っていないだろう。それだけが救いである。本当精々した。



「ああ、戦争が終結したんだ」


 当然の事実をもう一度受け止める。ぼろぼろの状態で帰還した騎士団を祝う声が街中に響きわたり、色とりどりの風船が空を登って行った。きっとこの数日は凱旋の宴で夜がなくなるのだろう。時雨はそれを建物の三階から眺めていた。


「なあ、そこのお医者さん」


風が吹き込む大きな窓から声が届く。男の澄んだ声だ。


「あんた……!」

「そういえばな。あの時名前を聞いてなかったなってさ。今頃思い出したんだ。だから死ねなくなった」

「約束は守らないと騎士じゃないもんね」


 何故か柄にもなく視界が潤む。次々空へ、自由に飛んでいく風船たちを背景に赤髪の騎士が笑っていた。つられて情けない目元を隠すように俺も笑う。


「俺はね、時雨だよ」

「そっか、時雨。ちょっと商店街で美味しい菓子と紅茶を飲みに行くんだが、時間を貸していただけるか」

「あはは、ヘッタクソな誘い文句。そんなんじゃどんな女の子も乗ってくれないよ彼方!」



 全てが始まり、終わる。これはそのちょっと前のお話。

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