陛下と少女
内にある欲は渇愛から始まる。人はどうしてか自分の手にない物を奪わずにはいられない。
ならば全てを持つ人間は、どうか。
「貴方は全てを手にしている」と、長く自分に仕える高齢の執事がそう言った。くだらぬ言葉につい陛下は笑う。
「全て? いいや、まだ足りないじゃないか。この世には、俺が知らない神秘が多すぎる。全て暴くその日まで、飽くなき探究心を満たすことは決して出来ない」
クラトシウスは雪に覆われた北の国の皇族として生まれた。小さい頃から宮殿の裏にある白い森へ散策に出かけては、傷や泥汚れを沢山作るような高貴な者らしからぬ性格の持ち主だ。
皇族であるから、クラトシウスは長寿である。森で小動物と出会い、戯れたとしても彼にとって数年の時間で生き物は歳衰えて死んでしまう。また人間もそうだった。幼い頃から側にいた乳母も、見守った侍女たちも。熱意を持って教鞭を振う教師たちも。あっという間に歳を取り、辞職し、周囲から消えて行く。それが当然だ。クラトシウスは幼くも少しだって傷つきはしない。
「クラトシウス、いいわね。貴方は必ず皇帝になるのよ。そして母の夢を叶えてちょうだい。いいでしょう? ここまで育ててあげたんだもの。邪魔者も殺してあげたんだもの。こんなに大切な息子に尽くした私なんだから、報われるべきよ。幸せになるべきだわ」
数少ない同じ時を生きる親族でさえクラトシウスの周囲には残らなかった。実母が皇帝の座を息子に継がせるため、他の子供を殺して回ったせいだ。
「可愛い子、可愛い子。貴方が綺麗に生まれたのは私のおかげなのよ。貴方は人の上に立つ才能がある。だから、そんな汚らわしい生き物は捨てて来て。貴方も薄汚れた負け犬になってしまうわ」
乾燥した木の実を手ずから食わせてやった小鳥が弱々しく鳴く。羽を汚して飛べない小鳥を、母は枝のような人差し指で示す。
命令をされるのが気に食わない。女の言葉一つ一つが不愉快だ。誰が聞いてやるものかと首を背けて小鳥を部屋の籠に入れたのに、次の日起きたら小鳥は死んでいた。首の骨を折られて絶命していた。どうせあの女の差金だろうと思い込み、その死体を母の寝具に置いてやる。
「誰がこんなことを! 私を誰だと思っているの! 皇妃なの、私は一番偉いのよ!」
クラトシウスは母が嫌いなのだ。兄弟を殺されたからでもなく、過剰に構うからでもない。ただ行動を、選択を制限されることに心底嫌気が差したのである。
自由を何よりも優先するクラトシウスにとって、皇帝の冠を戴いた後、まず最初にすべき政務が母を殺すことであった。
人が死ぬ奇妙な断末魔は心地良い。特に、嫌いな人間が無様に死に絶えるのは滑稽だ。
クラトシウスは骨粉になり果て宮殿の花壇に撒かれる母を見て、腹を抱えて笑う。
「ざまあみろ、魔女め。俺を縛りつける者は何もない。自由を邪魔するならば殺してやろう。あぁ、俺は皇帝なのだから」
皇帝となったクラトシウスはすぐにとある趣味を見つける。それは、国中から、他国から、大陸の外から珍しい品を寄せ集めることだ。そのために城の下に輸送路を掘らせた。そこには毎日あらゆる場所から珍しい品を乗せた馬車や魔術師がやって来る。
「見ろ、これは邪教の仮面らしい。けど、神を模して作ったにしては不細工だな。お前もそう思うだろう」
「……また、略奪品ですね。クラトシウス様」
横に立つのは歳を取った執事だ。クラトシウスに人生を捧げた男である。実年齢を言うと彼の方がずっと若いが、見た目はすっかり皺を刻んでいる。
「そうとも。俺が身を飾るのは全て略奪品だ。清純など必要ない」
だが思ったよりも皇帝の任は詰まらなかった。執事が老衰死した後、新しく用意された血族は真新しい執事服を身に着けている。
「父の後を継ぎ、陛下に心からお仕えいたします」
その息子はまだ歳若かった。青年とも思える程。だがそれも束の間だ。クラトシウスが欠伸をしている内に、立派な大人になるのは分かりきったことである。
長く仕えた執事がいなくなり、自分を拘束する、または制限する人員が減った。自由を謳歌するには丁度良い。クラトシウスはその日も執事と数人の兵を連れて城を抜け出した。
皇帝には許されない行為だった。間違いなく、あの老齢の執事がいれば血相を変えて引き止めただろう。だが歳若い執事はそうしない。困ったように笑って、ご意志に従いますと言う。従順な家具は構い甲斐なく退屈だが、反論の言葉を一切口にしないのは心地が良い。
「陛下。魔術師によりますと村はこの先です」
「ただの森にしか見えないけどな。石でも投げつけるか?」
「幻術でしょう。余所者が入らないよう、村を防壁が覆っているらしい」
なるほど。秘宝を辺境村ごときが抱えるだけあり警備は固いか。
帝国の監視下から逃れた森の奥に隠れた村。村人たちは決して外に出ることなく、独自の文化を築き生活をしているらしい。地図にも載らない場所だ。消えても問題はない。
「壊せ。防壁を突破する」
「……承知いたしました」
クラトシウスの一声で、容易く壁は破られる。すると今までは木々が満ち溢れていた森の先には村の入り口が突然現れた。質素な塀で覆われ、木の門がある。丁寧にノッカーを揺らしてやっても構わないがあいにくこちらに礼節はない。
固く閉ざされた門を容易く手で押し破り、クラトシウスは足を踏み入れた。
すぐに異変を察知した村人たちが悲鳴を上げる。槍や農具を手にした男衆が奥から駆け出るのが見えた。少ないながらも弓を持つ者もいる。それなりに非常事態に備える知識を持ってはいるようだが、その安価な対抗心は逆効果だ。虐殺の言い訳にしかならない。
「戦うつもりなら応じてやるが、先に貴様らの長を呼べ」
帝国軍の旗こそないが、こちらの兵たちが身に纏う高価な装備と、先頭に立つ男が発する威圧する声色に村人たちは萎縮した。みんなが顔を青ざめさせ、互いに伺い合って判断を決めかねる。その僅かな猶予さえクラトシウスには不愉快だった。
「一人殺さねば聞けないのか? だから、土臭い小民族共は役立たずなんだ」
クラトシウスの顔に見惚れて逃げ出すのが遅れた手近な女を一人掴み上げる。それでも手足をバタバタとさせもがくので、魔術によって体を縛り上げた。骨さえ砕こうとする強い締め付けにより痙攣した体を地面に転がし、腰元から剣を引き抜く。突き刺したのは脇腹だ。痛みは酷いが即死はしない。不衛生な土の上にドロドロと血が流れ始め、辺り一面に悲鳴が響いた。これで、嫌でも長が現れる。現れないなら老人一人を捕まえて、それ以外を殺してしまおう。
「や、やめてください! 村長を呼びます。呼びますから。妻を助けてください!」
槍を投げ捨てた村人が声を上げる。上擦った涙声だ。
「早くしろ。遅ければ首を落として貴様の家に飾り付ける」
もだもだと、戦うでもなく従うでもない。迷う時間がいかに無駄で腹正しいものなのかこいつらは理解していない。男が恐怖でもつれる足を引きずって村の奥へ駆け出すのを見送ると、クラトシウスは剣を引き抜いた。そして女を村人たちに投げ渡し、解放する。
治癒でも手当てでも好きにしろ。そう口外に伝えたつもりだったが、村人たちは倒れ込む出血した女をじっと見るばかりで、誰も手を加えない。まさか魔術が使えないわけではあるまい。村には夥しい数の妖精がいた。その全てが、クラトシウスに恨みつらみを吐きつける。
「なぁ、何故村人は治癒をしないと思う?」
「……私には分かりかねます。ですがこのままだと、彼女は失血死してしまうでしょう」
「無様な死に際も見てみたいが、約束を違えるのは好きじゃないな」
村長を呼べば殺さないと先程の村人と約束した。反故にしてしまうのは信条に反する。クラトシウスは足元に転がる女に治癒の魔術をかけた。痛み止めせず、傷を塞ぐ。呻き声を聴きながら村の奥を見ていると、年老いた男が血相を変えてやって来た。その横には先程の村人がおり、倒れ込んではいるものの命までは落としていない妻の姿を確認して側に駆け寄る。
「貴様が村長だな」
「貴方は一体……。大樹の怒りを買う前にこの村から出て行きなさい」
「信仰は神でなく大樹か。これは、立証の期待が出来そうだ」
口角は自然と上がっていた。
「この村に神の怒りを宥める楽器があるらしいな。それを貰う」
「そんなこと、許されません」
「許可など求めてはいないが。後腐れは少ない方がよいな。では、報酬に好きな物をやろう。どんな物でも俺は用意する」
村長はほんの一瞬だけ躊躇い、欲に傾く酷い顔をする。これなら早く話が済みそうだ。だが、あっさりと手渡されても奪い甲斐がない。最後まで抵抗し、頑なに拒み。最終的に頷かざるを得ない状況になって品を手渡す表情が好きなのだ。
「それでも……我々の存続に関わります。あの楽器は貢物です。もし、大樹から取り上げでもしたら……この村が……」
「差し出さないならば俺が貴様や、村人全員を殺す。このような村は見逃す価値もない」
選択の余地は残そう。いくら蛆虫であろうと世界に生きる者。死際を選ぶ権利はある。
村長は逡巡し、狼狽える。だが村人たち全員の顔を見渡してから渋々頷いた。楽器の元へと案内すると、足を進める。クラトシウスは疑うことなく後に続いた。兵が止めようが、執事が声をかけようが。
「このボロ屋は?」
「祭祀場です。楽器の祭壇とも言えます」
「村に防壁を張るのに肝心の保管庫は手薄じゃないか。密閉でもするべきだろう」
「そうしますと死んでしまうので」
死ぬ? 妙な言い方にクラトシウスは片眉を上げた。
扉の南京錠を開き、村長は重い鉄の扉を押した。埃臭いと思い込んでいた家屋の中は案外と清潔な様子で、それどころか淡い花の匂いがする。余計に怪しむ心を強くした。これでは、楽器を仕舞い込むというよりも……まるで誰か人を閉じ込めるための部屋のようだ。
「あの女が、聖なる楽器でございます」
「女、だと」
「お気をつけください。強力な魅了の魔術を使う魔女だ。目を見てはなりません。心を奪われて屍になってしまう」
通された部屋の奥、唯一家屋にある窓枠にもたれかかるように女がしなだれている。
音に反応して、女はゆっくり顔を上げ扉へと振り向いた。目元は布で覆い隠されている。
流れるような癖のある金髪は床へと届き、日を浴びない病的なまでに白い肌は陶器のように美しい。影の中でも光を放つようなその女に、クラトシウスは驚愕のまま目を見開いていた。
「これが楽器だと?」
「大樹に捧げる楽器です。殺して、根元へと送り歌を歌わせる。そうして大樹を宥めさせ、国を厄災から守るのが我々の使命」
あくまで神にではなく大樹に人間を捧げるというのだ。大樹は魔術師ならば誰もが持つ魔術への概念。魔術の始まりだ。見えずともそこにあり、大樹の導きによって魔術師は魔術の進化を感受出来る。
その樹が国に厄を振り撒くのも、女一人の歌で宥められる姿も想像は出来ない。だが村長は真剣だった。心から、この女を殺して捧げれば自分たちは安泰だと信じている。
「五年に一度女を殺します。これは、酷い厄災を払う為の最終手段です。問題のない周期ならば他の村人を捧げるのです」
「五年に、一度……」
「今年がその年でした。なので、この村から女を一人選ばねばなりません」
通りで。先程クラトシウスが傷つけた女を思い出す。周りの村人は誰一人として彼女を助けようとはしなかった。衰弱し、回復の目処を失えば彼女が今年の生贄に選ばれたことだろう。だからこそ無視したのだ。自分や自分の家族が選ばれないように。
そのように欲深い選出の結果差し出された生贄を受け取り、大樹は満足するのだろうか。
「くだらない。生贄だとか大樹だとかに興味はないが、これでは持ち帰れないではないか。人間をコレクションルームに詰め込めと言うのか?」
心を癒す楽器は好きだ。音楽は聞く価値があり、奏者にも相応の生かす価値や讃えるべき技術がある。それでも歌を歌う女が楽器だと言われ差し出されたとして、秘宝だと受け取るわけにはいかなかった。
特に深窓の女は苦手だ。自分が世界の中心と思い込み笑う女は、母を連想させる。
クラトシウスの妻のように何も喋らない暗い女が丁度良い。
「その声は、村長様ですね。ついに、私の番が来たのですか?」
「いいや、違うよアモリア。今年も違う子が選ばれる」
「まあ、そうですか。時が来たら言ってくださいね。もう二回も先送りにされてしまっていますもの」
それは十年もの間彼女がここに閉じ込められ縛り付けられているという意味だ。みのけもよだつ鎖の束にクラトシウスは顔を顰める。己たちの都合で生贄の予備として閉じ込めて、美しさを誘惑の魔術だと貶めるなど。
魔女と呼ばれる彼女の周囲には一人たりとも妖精はいなかった。それは、彼女が魔術を使えない証拠である。
村人にもそれは見えているはずだ。なのに魔女とし糾弾するのは、美しさへの嫉妬なのか、恐れか。どちらにせよクラトシウスには分からぬ。分からないが、自由を奪う村人たちが不愉快であることは決まりきっていた。
「この女を解放しろ。出来ないならば今年、生贄にしろ。殺さず活かさず縛り付けるなど不愉快だ」
「出来ません。大樹が怒り狂うその年のために、取っておかなければ」
「その時は俺が責任を持ちこの村全員の魂を送ってやるよ。生贄を欲するような血生臭い樹ならば、それで満足することだろう」
村長の首を捻り切る勢いで掴み、選ばせる。殺すか、逃すか。早く選べと力を込めた。その時に待って、と鈴の音が聞こえてくる。
「何をしていらっしゃるの? 村長様を、苦しめないで」
「……」クラトシウスは押し黙った。
呻き声の方へ懸命に手を伸ばし、這いずるように近寄ってくる。女の足は筋肉が落ち棒切れのように細く、既に立ち上がることさえ精一杯で走ることなど出来ないほどに退化していた。なんて痛々しい磔の蝶だろう。
「村長様は他所から来た私たちを受け入れてくださったのよ。お優しい方なの。行き場のない私たち兄弟を救ってくださった恩人だわ」
「その恩人は、貴様を生贄にすると言っているぞ。それが優しい人間のすることか」
「仕方がないのです。崩壊のためには、必要な犠牲なの。私は救われたから、その恩を命で返したいの。弟のためですから」
ならばその弟も酷いものだ。自分の姉が閉じ込められ、あまつさえ弟の生存を願い犠牲になると申し出ているというのによくも無視できたものだな。人の不幸で成り立ち自分だけ陽の下に立つ日々はなんて爽快だろうかとクラトシウスは苛立ちのまま笑う。
「その弟は大切な姉を見て見ぬ振りするらしいな。自分の幸せばかり優先して、他は全て捨て去る覚悟があるのだろう」
「弟はもうこの村にはいないの。大きくなって、大きな街で仕事を探しに行ったのですって。村長様が教えてくださったわ」
姉に挨拶せず村を立つ弟がどこにいるだろうか。睨み付けるように村長を伺う。冷や汗をかき何とか誤魔化すための言葉を模索する男の醜い姿を、視界にこれ以上入れるのが苦痛だった。言及するのはやめにした。するだけ無駄だ。その代わりに女を睨み付ける。
「喜べ、なら貴様は今年の生贄だ。それを見届けたのち、村を焼こう」
「どうしてそんな酷いこと!」
「閉鎖された土地は悪循環を繰り返す。思想が固まり血が濃くなり、欠陥品を生み出す故障した装置に成り果てる。流れのない川の淀みと同じだ。それなら汚れは流してやるのが一番だろう」
「……貴方のお言葉は、難しいわ。よく分からない。ねえどうしたらみんな、幸せになれますか?」
なんて無知な願い事だろう。つい口を閉ざした。
人を多く殺し大切な物を奪い取るこのクラトシウスに幸せを尋ねるなんて、おかしい。そろそろ村長の首を掴む手が疲れてきたので、体を放り投げた。脂肪によって良い感じに跳ねる男は荒く息をしている。それを視界にも映さずに、クラトシウスは部屋の奥へと歩き進む。
そして座り込む女の側まで寄ると、美しい軽薄な笑顔を作った。例え相手の目が塞がれていようと、それでも見せつけるように。
「貴様が死ねば幸せになるさ」
女の息を飲む音が近くからした。破壊を迎える人間は見ていて愉快だ。風に乗る白い粉をクラトシウスは思い出した。自分が殺し、自分が焼き捨て、砕ききり。庭師に撒かせた母だったもの。あのような終わり方をするこの女の姿が見たいという強い衝動が駆け巡る。
「ならば、私の答えは決まっていますね。この村のために身を捧げます」
薔薇の花弁を溶かしたような唇が弧を描き美しく吊り上がる。他人事のように犠牲を選ぶ無垢な少女は眩しく、クラトシウスは目を細めた。まるで自分が諦め捨て去った理想の光を放つように彼女は輝く。
見えもしない大樹のために命を捨て去ることを厭わない。それは欲しい返答ではない。もっと涙し否定して、絶望を受け入れてくれなければ。
「おい、儀礼の日はいつだ? あと何日ある」
「……つ、月が三度満ちて、三度欠ける漆黒の夜。大樹に魂は導かれます」
「三ヶ月後か。そう簡単に言えよ。何故格好付けるのだろうな、こんな最低な場面で」
床に倒れ込む女の手を掴み、その細すぎる体を支えた。そして目隠しの布を解いてやる。しばらくの間女は視界を覆う眩しい光を痛がって、何度も何度も瞬きをした。涙を流し、真っ赤になった目を濡らす。
その間辛抱強くクラトシウスは待っていた。彼女の目が開かれる時まで。
「あ、あなた、は」
ようやく朧げながらも視界が姿を捉えると、女は涙で潤む視界を擦り、目を見開く。
そこに現れたのは美しい男性だった。自分と同じ金色の髪だ。深く差し込む緑色の瞳が優しく自分を見ている。まさに神に祝福されたような綺麗な人。
「喜べアモリア。貴様が死ぬ三ヶ月後まで、俺が世界を見せてやる」
彼女は紫色の瞳を歓喜に輝かせた。
恐れ顔色を変える村人たちは顔を伏せて、家屋から連れ出された少女とそれを連れる男の二人をチラリチラリと伺い見る。童話の世界から抜け出したような二人の姿は誰が入り込むことさえ拒むかのように輝いているようだった。
村の入り口で待っていたクラトシウスの執事は、自分の主人と、連れ添う女性の姿を見て瞠目する。
「……陛下、その女性は?」
「これが楽器だそうだ」
「つまり、持ち去るのですか」
「いや、借りる。人間に興味はない。三ヶ月後の夜までにこの村へとまた戻り、彼女を渡す。その夜、生贄となるように」
「なんですって……」
あまりの禁忌に執事は言葉を失った。北の国に生贄の制度はない。倫理に反すると禁止されている。それでも消えないのは貧富の差が酷いからだ。貧民ならば、人間ではない。人間でないのなら殺したって構わない。そう平気で宣う人間がいるのを執事は知っていた。
そして主人が、それを止めないことも。
帰った帝城では皇帝の失踪が軽い騒動になっていた。多くの部下たちが慌て、少ない臣下がなんとか秘匿を守り政務をこなす。だが変わらず妻は静かに、帰ったクラトシウスの姿を見て取るとお辞儀をする。
「お帰りなさいませ、クラトシウス陛下」
「変わりないな」
「はい。息子たちにも挨拶なさいますか」
「必要ない」
そうですか。諦めたように妻は引き下がる。だが後ろに連れたアモリアの姿を見ると、初めて表情を変えた。
「まあ、クラトシウス様。ここがあなたの家なんですね。大きいわ」
「あまりはしゃいで倒れるなよ。お前の体力は蟻ほどしかないのだからな」
「わかりました。それで、何を見せてくださるの?」
「俺の話を聞いていたか。お前は先に体力をつけなくてはどこへも連れて行けない。歩く練習から始めろ。走れるようになって、その薄い皮に肉が付いたら連れて行く」
案の定もつれた足が絡まって座り込むアモリアの手を引き、立たせてやった。これではまるで生まれたての幼児だ。
だが二人の仲睦まじい様子に困惑した妻は一歩身を引き、震える声で陛下に問いかける。
「その女性は?」
「三ヶ月の間世話をする。お前も面倒を見てやれ」
見た目はまだ年若い。十五か、十六歳だろうか。それでもキラキラと輝く姿は宝石のようだ。見ているだけで心が潰れてしまいそうなほど、酷い劣等感に襲われる。皇妃の彼女でさえそうなのだから、普通の女性が彼女を見た日には心身消失してしまうだろう。
それに一番心を削ること。それは彼女がクラトシウス陛下の隣が似合っていることである。凄まじい美男美女。誰も付け入る隙を持たせない程の輝きが襲った。
「わ、分かりました。陛下」
そうして宮殿に迎え入れられたアモリアは二ヶ月の間地道な散歩と食事を続けて、健康体へと戻っていった。軽くウェーブする癖のついた長い髪は綺麗に結われて、歩きやすい生地の柔らかいドレスを纏っている。
「皇妃様、沢山の教えをありがとございました。私のような村娘にも親切にしてくださって……。貴方のように優しい方、私は他に知りません」
「いいえ。アモリア。私もなのよ。私も、そう思っていたわ。貴方ほどに純粋で無垢な人はいない。私は人よりも長く生きているだけなの。だから貴方の美しい心には敵わないわ」
陛下のお気に入り。美しき寵愛を受ける君。噂話は宮殿から広がり帝都全体に広がった。いつしか陛下は側室に彼女を迎えるだろうと誰もが信じている。皇妃は、胸を痛めるものの。受け入れるつもりだった。誰もが血筋を忘れてしまうほど、彼女は身も心も美しく輝く人なのだ。
これが、見るも醜い性格の悪女ならばどれだけ救われただろう。責められる点が一つでもアモリアにあれば。
「どうでしょうクラトシウス様。すっかり体力もついて、走れるようになりました!」
「そうだな。それより支度は終わったのか。グズグズするなら旅は無しにする。時間を優先しろ」
「荷物は纏めてあります。すぐ行けますわ」
暗く顔を伏せた皇妃に、クラトシウスは話しかけた。
「しばらく城を空ける。その間は普段通りにやれ。何かあればすぐに連絡を飛ばせ」
「分かりました」
そうして通り過ぎて行こうとする陛下に、最後の最後、皇妃は待ってと声をかけた。
「陛下、お願いします。彼女を気に入り過ぎないようにしてください」
「……何故俺に指示をする。お前は俺の腹心にでもなったつもりか?」
「いいえ、いいえ……だけど。貴方を愛する女の一人です。彼女に心を渡さないでほしい」
「それを願う権利はお前にない」
何故ですか、やはり彼女が綺麗だから。私よりも綺麗だからですか。
そう涙声で続ける女の声に鳥肌が立つ。見た目など、クラトシウスにとっては何でも良いことだ。醜くても、美しくても。欲しいと思ったものこそ自分の求めるものだ。
「すぐに別れが来るのに。彼女は皇族の血がないのですよ。私とは違う。すぐに……」
「黙れ。もう良い。何も喋るな」
最後に妻の頬を撫でると、それきり二度と振り返ることなくクラトシウスは歩み続けた。それが彼女なりの優しさであり、敢えて傷付こうとするクラトシウスを引き止めようとした下手くそな演技だとしても。
最初に訪れたのは東の国だった。四つの国で一番観光客に寛容で、商売を中心に活気に満ち溢れている国だ。強い日差しで体調を崩さないよう買ってやったリボンが付いた白い帽子のつばをぎゅっと掴み、アモリアは後ろからゆっくり着いて行くクラトシウスへと振り返った。
「海ってとても綺麗なのね!」
「そうだな。だがあの水の中にも生き物はいる。何にも縛られず気ままに生きているんだ」
「まあ、水の中でも生きていられるの? 息はどうしているのかしら。潜っている間ずっと止めているのかも」
飛び去るドラゴンの羽ばたきを近くで見ているとアモリアはくすくすと笑う。大きな鳥だわ。人よりも大きいのね。と無邪気に笑って。
次は西の国だ。恵まれた気候や土壌によって豊富な農作物が国民の全てに行き渡り、料理の技術も高くどの国よりも食にうるさいと聞く。
「あれは何を食べているの?」
「鳥だな。騎士団が狩ったその年一番の大物がああやって捌かれる。それを領民に振る舞って豊作を祝うんだ」
「まあ……残酷なのね。だけど、みんな幸せそう。祝祭ってこんなに人の喜びで溢れるものなのだわ」
村人たちはそれぞれが持ち寄った野菜やフルーツを綺麗に切り、料理を素晴らしい手際で進めて行く。スープもあり、肉があり、デザートがある。それを美味しそうに食べる村人たちの笑顔はキラキラと輝いていた。
最後は南の国である。王ではなく教皇が国を纏める法国であるここは、国中に咲き誇る花々と大きな大聖堂がよく目立つ。
「こんな綺麗なお花を貰っても良いのかしら」
「花屋がやると言って差し出したんだ。受け取るべきだろう」
荷馬車に沢山積まれた花々に顔を近付けて匂いを楽しんでいたアモリアに、親切な店主が一輪だけ花を渡してくれた。綺麗なサザンカは優しい匂いを漂わせる。
「おい、そろそろ冷える頃だ。体を冷やすな」
「ありがとうクラトシウス様。暖かいわ」
毛皮のストールを巻いてやる。皇帝であるクラトシウスにここまで世話を焼かせるのはきっと世界中を探しても彼女だけだ。
「これくらい言われずともやってくれないか。俺は人の世話は苦手だぞ」
「何故?」
「やったことがないからだ。洗濯も、料理も、支度も。やり方さえ知らない」
「そこは私の方が上ですね。衣服の洗い方くらいならば知っているもの」
む、と口を曲げる。このような無力の女に負けたという事実が到底受け入れられなかった。城に帰ったら侍女に聞いてやろうと決意する。
「だけどとっても上手ですよ。いつも優しいもの」
「それは相手が、お前だからだ」
うふふ。彼女が前よりは日に焼けた肌をほんのりと桃色に染めているのが後ろから見えた。それから何故か、クラトシウスもふと顔を逸らして道じゃない遠くを眺める。
次はどこに行こうか。
クラトシウスは馬の手綱を引き胴を蹴り上げる。だがそれと同時に、後ろから馬を並走させる執事が陛下、と声をかけた。
「そろそろお戻りになられる頃です。城が雪で埋もれる前に荷解きをした方がよろしいかと」
「……そうだな。これ以上旅は無理だろう。南でさえ肌寒い季節になった」
「それじゃあ、これで終わりですか?」
「そうなるな。どうだ、満足したか」
少しの間アモリアは口を閉ざし、手の中にある花を見つめた後にゆっくりと頷いた。そのまま握っていてはすぐに萎れてしまうだろうとクラトシウスはその花に保護の魔術をかけてやる。
「ありがとう、クラトシウス様。私なんかのためにここまでしていただいて」
大聖堂に辿り着き、馬を休ませながら人の少ない身郎の座席に腰をかけた。奥の内陣からは聖歌隊が歌を練習する声がする。
アモリアはその歌に耳を傾けて、口ずさむように重ねて歌を歌った。
「この歌を知っているのか」
「ええ、何故でしょう。あの村に来るよりも前に聞いたことがあるような……」
そういえば、アモリアは聖なる楽器と呼ばれ幽閉されていたのだったか。この歌を村人の誰かが聞いたからだ。北の国では聖歌を歌う者も聞く機会もない。しかし確かに神聖な音色をしているから、知識なく聞く者が勘違いしてもおかしくはない。
「あと少しで、私はあの村に帰るのですね」
「そうだ。どれ、怖くなったか?」
十年もの間閉じ込められて自由を奪われていたアモリア。あの時こそ自分の犠牲を受け入れてはいたが、こうして広い世界と自由な生き方を知った後では恐れるはずだ。クラトシウスはそれが狙いだった。死にたくないと喚いてほしいのだ。何故死ななくてはならないのか、と。他の者を差し出してほしいと懇願する姿を望んでいる。
「いいえ。私の命が役に立つその日が待ち遠しいですわ」
「……訳が分からん」
これだけ幸せを知った後でもあの狭苦しく陰鬱とした村に帰りたいというのか。あの村で死にたいというのか。クラトシウスは怒りのままに立ち上がると、大聖堂を後にしようとアモリアの手を引いた。
「きゃっ、」
だがその途中、急に立ち上がったがために彼女が通行人と肩をぶつける。
「俺とした事が申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか」
「ありがとう、大丈夫です」
すぐに詫びた男は白い隊服を着ていた。大聖堂に仕える騎士の一人だろう。クラトシウスは自分の顔を隠すストールを口元まで引き上げると、その横を通り過ぎる。だが騎士の視線を感じて足を止めた。騎士、変わった耳の形をした男はアモリアをじっと見ている。彼女がどうかしたかと間に入ろうとした時に、騎士の手が彼女へ伸びた。
「良い花ですね」
「あ、ありがとう」
「それでは失礼します」
身構えたこちらが虚しいほどに、騎士は花の花弁に触れた後はあっさりと聖堂の奥へと進んで行く。その反対にアモリアは、花を褒められました。と嬉しそうに笑っていた。
北の国へと帰ると、予想していた以上に雪が多く積もり馬の足を取る。城門を超えたあたりで御者に手綱を渡して、二人は暖かい室内へと入った。
全ての使用人たちがようやく帰った国の主人に頭を下げて、お帰りなさいませと迎え入れる。
荷物を全て預けさせると、すぐに着替えを済ませて謁見室へと向かう。久しぶりの玉座はひんやりと冷たかった。その横に執事が立つ。十分な時間はなかったというのに、完璧に支度を済ませた執事服には皺一つなかった。
「今回は良くやった。お前を褒めよう」
「ありがたきお言葉、感謝いたします」
実に優秀に、忠実に。この執事はクラトシウスの旅路を助けた。その褒美に何がほしいかと聞くと、執事は少しの間悩み、おずおずと口を開ける。
「私に子供が出来て、もしその子が男児ならば、第四王子に支えさせてもよろしいでしょうか」
「四人目で良いのか」
「はい」
「……そうか。お前の目には、あれが相応しく見えたのだな」
まだ十二歳程度の息子だが、確かに他の兄弟に比べて穏やかな性格と優れた思考を持つ。ただ幾分か体が弱く体調を崩しがちだ。その点さえなければ、確かに継承者にも適しているかもしれない。
「ならば好きにして良い」
「ありがとうございます」
クラトシウスに兵が呼びかける。
「アモリア様が到着なされました」
そうして謁見室に通された彼女は、初めてクラトシウスという男ではなく、この国の皇帝である彼の姿を目にした。重たそうなロープや調度品を身に纏い、綺麗な冠を金色の髪に乗せる彼。絵画から抜け出したような彼に、息を吐く。
「アモリア。覚悟は出来ているか。明日村へとお前を送る。今日がお前の最後の日だ」
「はい、陛下。この三ヶ月の間ありがとうございました。大変楽しく、使命を忘れてしまうくらいに充実した日々を送れましたわ」
「それは良かった。お前の未練が増えてくれたようで安心した」
それでも拒まない彼女を足元まで呼ぶと、初めて会ったあの日よりも、ずっと太く柔らかくなった手を取る。垂れる前髪が触れてしまうほど顔を近付けるとクラトシウスは微笑む。
「俺も楽しかったよ」
「……そう、ですか。良かった」
それが男と、少女の最後の言葉であった。
三ヶ月ぶりに村へ招き入れられたアモリアは儀礼用だというさっぱりした白い服を着せられ、手を縄で縛られていた。真っ直ぐに、大きくて美しい紫色の瞳がここまで送り届けたクラトシウスを見つめている。最後にかけるべき言葉を迷っているうちに彼女の瞳は白い布で縛られて、あの時と同じ出立ちへと戻ってしまう。
「クラトシウス様、今までありがとう」
例え姿が二度と見えなくても良かった。そこにまだいてくれると信じてアモリアは声を上げる。連れて行かれ、どんどん二人の距離が離れても。それでもずっと叫んでいた。
「さようなら。もうあなたのお姿が見れないと思うと、少し寂しいです。これが、未練でしょうか?」
湖の奥にある祭壇へ運ぶため、木の舟が用意された。古くてところどころ黒ずみカビが生えた舟にアモリアは放り込まれる。なんとか揺れる舟の上でバランスを取り、安定する位置に座る。
クラトシウスはその舟が、彼女と執行人を乗せた舟が湖を進んで行く光景をじっと見ていた。横ですっかり情が湧いてしまった執事が涙を浮かべて名を呼んでいる。
「お救いしてはあげられませんか。彼女は、あんなに直向きで健気でいらっしゃるのに」
「助けろと一言も言わなかった女だぞ。勝手な情けはあれを侮辱する行為だ」
「それでも、殺されてしまうなんて。おいたわしい。こんなことを大樹も神も望んでいるとは思えません」
ハンカチを涙でひた濡らし、それでも止まらぬ想いを溢し続ける執事にため息を吐いた。そんな様子では、こちらまで陰気くさくなる。
「陛下、お願いいたします。私を解雇なさっても構いません。せめて彼女の最期まで、陛下が覚えていてはいただけませんか?」
「そう、だな。結末を見届ける事もまた運命か」
クラトシウスは祭壇の近くまで様子を伺ってみることにした。
すると舟から降ろされた彼女は薄暗い木の根本で執行人に襲われそうになっているではないか。乱暴に服を乱され、足首を掴まれて。必死に抵抗するものの、手が縄で縛られて目も塞がれていては、何も意味をなさない。
そういうことか。人目がないこの場所で、生贄に選ばれた女性はこれから死ぬ身だ。執行人が駄賃の代わりに何をしようとバレないわけだ。今までもそれを繰り返してきたのかもしれない。
「助けて、助けて……!」
仕様もなさ過ぎてクラトシウスは音もなく顔に笑顔を滲ませた。湧き上がる笑いを押し殺すのが難しい。これほど感情を発露したのは子供の頃、森の中を自由に一人で駆け巡っていた日々以来だ。それ程に愉快だった。死さえ恐れなかった女が初めて悲鳴を上げて、助けを乞うたのだから。
「クラトシウス様、助けて、いや、」
彼女の目隠しを乱暴にずらしている男の首根っこを背後から掴み上げると、容赦もなく魔術で体をバラバラに砕く。飛び散る血は壁を隔てたようにクラトシウスの間近で静止し、ザバっと足元に降り注ぐ。残る小さな肉塊は湖へと放り投げた。あとは雑食の魚たちが証拠を消すことだろう。
「クラトシウス、様」
彼女の怯える瞳の先には男が映っている。肩を揺らし憤慨する男の姿が。名を呼ばれて振り返り、自分が肩にかけていた緑色の外套を手渡した。
「死にたくはなくなったか?」
「わ、私……」
目隠しも取り、手の拘束も解いてしまってからクラトシウスは彼女の側に座り込む。今しがた一人を殺したとは思えないほどに穏やかな笑顔を浮かべながら。
その温もりを思い出して、アモリアの紫色の瞳に涙が浮かぶ。
「私、死にたくありません。怖かった。あの人、力が強くて。死んでしまうんだと思ったら、私は……息が苦しくなりました。魚のようにはいかないのね」
「三ヶ月前にそう言ったならすぐに逃してやれたのに」
「いいえ、あの頃なら思わなかった。きっとどんな辱めを受けてもここまで後悔はしなかった。クラトシウス様、あなたのせいです」
目に手を当てて、うわん、うわん。と子供のようにアモリアは泣き喚く。
「あなたを愛してしまいました。側で生きていたいと、願ってしまったのです。私なんかが、そんな、願いを」
クラトシウスは人を愛したことがない。恋を知らなかった。大切に思う人間ならばいる。妻も、息子も。話が上がれば耳を傾ける程度には関心がある。それでも分からなかった。それは子供の頃、教えられるべきだった愛情を何も知らなかったからだろうか。
「そうか」
それでももし恋という感情が。今のように、泣く彼女の背中に手を回して抱き締めてあげたいと願う心であったり、その目を擦って泣き止ませてやらなければと思う焦りだというのならば。クラトシウスは初めて人を愛せたのだろう。彼女を、愛しているのだろう。
「ならお前を死なせるわけにはいかない。あんなやつらに殺させてたまるか。大樹にも、渡さない。生贄が木のものだというなら、奪おう。略奪には慣れているさ」
「私を助けてください、クラトシウス様。どこへでも連れて行って。遠くへ」
震える小さな彼女をクラトシウスは抱き締めた。胸元に仕舞って、大切に抱えるように。
「陛下、私は忠告いたしましたよ」
「分かっている。別れは済ませた」
棺桶には沢山の花が供えられて、彼女の体を安らかに支えている。
クラトシウスは皇族だ。平均とは少しだけ寿命が違う。それでも生まれた頃に比べれば皺が増え体も重くなったのだが、それでもまた大切な人を見送る日が来た。
彼女と過ごした日々はまるで春のようで、光を見ているうちにあっという間に移り変わってまた、終わらない冬が来てしまった。
それでも遺体を眺めるクラトシウスの瞳は悲痛に溢れており、側で見守った皇妃もしばらくして、部屋を出て行った。明日彼女は蝶の導きと共に天へと昇る。
二人きりの部屋にコンコンと特徴的な三つ並ぶ足音がした。一つは杖をつく音、もう一つは靴音、そして靴の履けない足を補う金属の音。
「陛下、ご機嫌よう。この天才魔術師をお呼びと聞きましたが。要件をお聞きしても?」
義足の魔術師をわざわざ呼び出したのは確かにクラトシウスである。目線さえくれず、口を開く。
「お前は死人の蘇生が得意か尋ねたい」
「まさか。触れてはならない禁忌ですよ。それはね」
「天才も程度が知れているな」
「嫌な言い方してくれるな。ならそうだな……あと三百、五百年くらい頂けるならその領域に踏み込んでも良いと思いますが」
それでは遅過ぎる。クラトシウスの寿命もあと僅かだ。制限のない人外とは違う。
「ならば三十年前に聞くべきだったな。俺を、普通の人間と同じ寿命にする方法を」
「まあ、その方が簡単ではある。皇帝の死期を早める魔術はなるべく避けたいね」
魔術師は変わらずニヒルに笑う。暗闇でも輝きを失わない橙色の瞳は愉快そうに萎れた皇帝の姿を眺めていた。好きな女一人失っただけでここまで勢いを無くした、かの有名な『略奪王』の姿を、目に焼き留めている。
「子供がいるだろう。妻を追ってさっさと死ぬのはやめた方が良い。それに、丁度良いじゃないか。その大切な妻の忘れ形見がいる。まだ十歳にもならない小さい子。しかも男児だ」
いやあ、星の全てを集めて形作ったような女性と皇帝から生まれただけある。幼いながらも完成された美を讃えるあの子供は、すぐに周りが平伏する美丈夫になるだろう。
「そうだな。あれが、どんな人生を送るのか。道半ばまでは見届けてみようか。もし優秀なら他の息子を退かして、この冠をくれてやってもいい」
「それはそれは。酷い肩入れだな。他の子供だって大切にするべきだぜ? 抗争を生まないためにはな」
遠方から呼びつけて悪かった。あとは城内で自由にしてくれて良い。そう告げると嬉しそうに肩を伸ばして男は去っていく。
それから、アモリアがいた離宮へと足を運んだ。そこにはまだ幼い男児が一人きりでいる。退屈そうに本を読んでいた。
用意させた教師に、クラトシウスはとある小さな絵姿を手渡す。縁に入れて大切に保管していたもの。この世で一つの、彼女の絵だ。それも顔は半分だけ色が塗られて、残りは拙い線画のみで終わっている。あまりに完成には程遠い、未完成の絵。
母の肖像画を息子に渡すようにと言い伝える。
当時の記憶が蘇るようだった。
美しい花園の前に椅子を持って来させ、日傘を差して。アモリアは少し斜めに座り顎を引き、視線を画家に向けている。だがその後ろでキャンパスの進行をじっと眺めていたクラトシウスが所々で口を挟むせいで、まったく絵画は進まないのだ。
「もう、クラトシウス様。少し向こうに行っていてください! これでは日が沈んでしまいます」
「お前に似ていない絵を残しても意味がないだろう! 貴様。どうしてもっと正確に描けないんだ。これでは子供の落書きと同等ではないか」
目の形が違う。輪郭が違う。髪の色が違う。画家の足元にはもう既に何枚もの没になって塗り潰されたキャンパスが転がっていた。いつか額や首に汗をかいて、口をへの字に曲げてしまった画家が口を挟む。
「御言葉ですが陛下……彼女の美しさを描ける画家はいませんよ。貴方様でさえ精一杯、私の曽祖父の時代に数人の画家たちが合作をして描き上げたんですから」
「ならば画家を増やせば描けるのか?」
「いやぁ……体格と勇ましい表情に気を付ければ良い男性と違って、繊細な色使いや曲線を要求される女性だと、苦手にする画家も多いですからね」
この後夫婦二人の絵も頼もうとしていたのに、クラトシウスはすっかり出鼻を挫かれた。そうしてキャンパスサイズでもなく、小さな落書きの紙と同等の絵姿しか彼女は残っていない。
それでもいいんです。とアモリアは微笑む。
「あなたが覚えていてくれるなら、私はそれで幸せです」
皇帝と寵妃は二人顔を向き合わせ、そうして子どものように笑った。
程なくして忘れ形見はすくすくと育ち大きくなった。あれはアモリアに良く似ている。色彩も、微笑む顔も。それを側には置けなかった。酷く心が痛むので、クラトシウスは忘れ形見を遠ざけて視界に入れないように努めてきたのだ。側にいると自分は皇帝ではなくなってしまう。愛する人を亡くした情けない男になってしまうのだ。
そのうち騎士団に飛び込んで、その素性を隠して騎士王なんて立派な肩書きまで身に付けたあれを、数十年ぶりにクラトシウスは真っ直ぐに見つめた。紫色の瞳は何故か片方しかなく、体も鎧で覆っている。
周囲には友人や信頼のおける部下がいた。クラトシウスに長く仕えている執事の息子までもが側にいた。
それが哀れでならないのだ。クラトシウスは今までに沢山失った。忘れ形見はまだ何も失っていない。得るばかりで、失う呆然とした恐ろしさを知らない。それが可哀想だ。
目を瞑ると彼女の声がした。蝶に導かれた彼女。愛する人。会えない日々ばかり増えていく。
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