短編集

四枚葉っぱ

傷つく少女

『貴方に傷をつけてやりたいの』


 刹那が捲るページの中で少女が叫ぶ。物語を進める指先が、文字を追う目がその場に立つ少女の悲痛さを頭に思い浮かばせた。


 この本は幼い頃父親から誕生日に贈られた山程ある道徳書の中の一冊だった。悪を挫き善を成す他と違い、何故かこれだけ妙にリアルな心情模様を描いていたのだ。恋人に裏切られ、敵対する人となってしまった男へナイフを手にした少女が放つ台詞が冒頭である。刹那に恋の心を理解するのは難儀であったが、親の意向に逆らってクドイ嫌がらせばかりしていた幼少の身を落ち着かせる、良い時間稼ぎ。もとい暇潰しになったのだ。


 刹那の兄は優秀な執事だった。言われた通りに働き、完璧に家を守る使用人の鑑のような男。だからこそ、主人の犯した罪を被って死罪になった。父はそんな長男を見て、よく天寿を全うした。などと曰うのだ。

また、姉も優秀なメイドだった。物静かで仕える御令嬢を立てるのが上手い。だからこそ自分より美しい女が嫌いだと言う主人の為に、自ら顔を潰した。また長女を見て父は褒める。良い心がけだと言う。刹那にはそれが悍ましく、この世で一番惨たらしい悪意に思えた。

そして刹那も執事である。皇族に仕えることを許された、優秀な執事だ。だって刹那は執事という生き方しか知らない。それ以外何も分からない。だからこそ、父に教わった人生に嫌気が差しても逃げられはしなかった。


 そして、今。壁に寄り添うように立つ刹那は胡乱な瞳で主を見つめる。いつも刹那の目線先にいる主は物語の主人公のような人なのだ。気高く、美しく、勇ましい。絵に描いたような。求めるまま書き殴った設定のような。美しい金髪は髪の先まで艶やかに輝く。よく世界を見渡せそうな大きな瞳、ツンと尖った鼻先、赤色の唇。だが彼は、最近になって変な道具と遊ぶようになったのだ。よく喋る、よく動く変な道具。刹那のように賢くもない。求められるものに応えるだけの素養もない。だけど側に置かれる道具。不思議だった。


「お前は何を考えているのか分からなくて不安になる」


 主はそう言って刹那から離れる。別に刹那は、くまなく常に奸計を楽しむ人間ではない。暇な時は欠伸をしてぼんやり庭を眺めるし、昼寝する猫を見て羨ましくもなる。好き嫌いだってあるのだ。けれど主は刹那の何かを買いかぶっていた。刹那が、まるで操作を簡単に失う化学兵器のように語る。


「刹那は嘘を決して吐きません。ただお聞きしてくだされば、すべからく全てお答えいたしましょう」

「そういうところが、不気味」


 主は笑う。さすがの刹那だって、不気味と呼ばれて良い気はしなかった。思い通りにいかない会話に口をつぐむ。片方だけ晒された緑色の瞳をシパシパ開閉を繰り返していると「冗談だよ」と彼から言葉が続いた。


「不気味は褒め言葉だ。常にそうやって俺の予想外でいてほしい。世界にそうあれといつも思う。だけど、思い通りにはいかないものな」

「何をしたらお喜びになられますか? 私が、貴方の周辺で常に非現実を引き寄せれば、満たされるのでしょうか」


 何もしなくて良いと主は言う。刹那は彼にとっての特別な『非現実』にはなれなかった。だって、刹那は決して逆らわない。どれだけ彼にとって予想外の、最低最悪な害を引き摺ってきたとして、主が一言「やめろ」と言えば手を離してしまう。頷いて、計画の全てを排水溝に流してしまうから。刹那の物足りない部分はそこだった。

その分、例の気に入り道具は違う。どこまでも反骨で生意気。それでいてわんぱくで、放って置けないトラブル装置。主の遊び心をくすぐるのに持って来いだったのだろう。


 一度だけ、刹那は主の気に入り道具を壊そうとしたことがある。まだ拾われて来て日が浅い頃だ。泥だらけで、捨て猫だってもっとマシであろう仕草でご飯を食べる姿を見た時に自分の中の何かが、限界に迫った。あぁ、駄目だ。ただそう思ったのだ。

 だけどそうはしなかった。その道具はどうやら特別性であるらしいので。壊せなくなってしまった。


 刹那の父は常に厳しく息子を律し、完璧な執事の後継者を作り上げようとした。お前は道具だと言われ続けて来た。貴い方々の側にいられるのは道具だけだ。

 父は嫌いだ。心底憎たらしい。もし過去に行けたのなら、例え自分が消えようとも刹那は父を殺してしまうだろう。だがそんな男に渡された本を今の今までずっと大切に、棚に仕舞って生きている。


『貴方に傷をつけてやりたいの』


「私を裏切った、酷いあなたを」


 一人しかいない薄暗い部屋の中、灯を一つだけ着けてページを捲る。暗記出来るほど、暗唱出来るほど目を滑らせたボロボロの本。またあの台詞を少女が言う。少女は化粧が涙で崩れ、着飾ったドレスも皺だらけになっている。それでもナイフを握る生白い指や、憎たらしい愛する人を見つめるその、真っ直ぐな瞳は色褪せない。それを刹那は横で見ている。傍観者のように。


「傷つけたいのは体ではなくて、心」


 その意図に気がついたのは刹那が大きくなってからだった。少女は結局男を刺し殺すことなく反撃にあってあっさり命を落とす。最後の最後で、愛する人の命を奪うという行為を躊躇ったのだ。刹那ならそんなヘマしない。自分なら、例え愛する人だとしても真っ直ぐ心臓にナイフを突き立ててあげられる。だけど少女は、はなから男を殺すつもりなんてなかった。傷つけるつもりさえなかったのだ。本当は自分を殺してほしかった。自分を手にかけた罪悪感を男に一生背負わせて、後悔して生きてほしいと願っていた。

 傷つけたい。傷をつけたい。傷になりたい。刹那は今なら少しだけ、少女の気持ちが分かる気がした。


 そうしてパタンと本を閉じる。もう何度目かの、幕を見送る夜のことだった。

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