#18 魔女様は着いて行きたい。

「——カエデ。今日は早起きですね?」


蛇口から流れる水を掬い上げ、顔に浴びせる。

一日崩れたサイクルを元に戻すのも大変なもので、普段と同じ六時半起床のはずなのに、やたらと眠気は残っていた。

汗ばんだ肌を冷ますのに冷水はもってこいだけれど、目に滲みるのは清涼感だけじゃ済まされない。

幾度か瞬きをしつつ、多少ぼやけた像の中で、ソフィーに向き直る。


「……学校に、呼び出し食らったからな」

「呼び出し——補講に近いもの、ですか?」

「いや、違うけど……。そういえば、そっちにも学校ってあったのか?」

「……ええ。一応は」


そこで、多少彼女は言葉を濁した。

声の調子から察するに、顔も顰めていそうだ。まだ視界が滲んでいるせいで、表情はよく捉えられなかったけれど。


「ところで……いつ帰ってくるのですか?」

「うーん、結構長引きそうだし……夕方とか、かな」


映画鑑賞からのレポート作成。はなっから活動時間は無視、終了は最終下校時刻スレスレ。

スパルタ——と言うか、妙なベクトルに突っ走った同好会だ。

そして、いつもの活動だけならまだしも、梨久が俺を呼び出した理由はおそらく夏休みに撮りたいと言っていた映画撮影に関することだろう。

であれば、相当に覚悟はしておいた方がいい。

少しばかり短めに見積りつつも、そう答えた時だった。


「……随分と、遅いのですね?」


かなり不機嫌そうな声音が、鼓膜を突いた。

そして、すっかり視界も晴れた以上、ソフィーの膨れっ面までしっかりと捉えることはできていて。

感覚的に、次に来る言葉を俺は察した。


「私一人じゃ、昼ごはんもままなりませんし……カエデ、私も学校に連れて行ってください」

「……それ、どこまでが建前だ……?」

「建前なんてあるわけないでしょう? 違わず本心です。それに——この世界の学校というものにも、少しばかり興味はありましたから」


普段よりは少し大人しめだけれど、確かに興味を孕んだ声音。

そして、次第に下がっていく声のトーン。


「……魔法で何とかなるのか?」

「大概のことには対応できますから。それに——カエデの親戚、という設定であれば、ある程度は立ち回れるでしょう?」


正直、かなり不安はあった。

何せ、彼女は感情を隠すのが苦手な部類だ。それも、人混みなら特に。

夏休みの学校である以上、多少は人も少ないだろうが、それでも部活動やら何やらで結構な数の生徒が出入りしている。

けれど、それ以上に一昨日の図書館での一件もあった以上、これ以上、彼女に膨れっ面を続けさせるのもいけない気がした。

ともすれば、結論は出てしまった。


「……上手く、立ち回ってくれよ?」

「当然です。今回こそは上手にやります」


先ほどまでとは一転、自信に満ちた声。

案外、大丈夫なのかもしれない。きっと、そうに決まってる。

何とか自分を納得させて。俺は彼女を外に連れ出した。


◇ ◇ ◇


◇ ◇



「何を……してるんだ……?」


確かな納得と共に、ソフィーを連れ出したはずだったのだけど。

先ほどから、彼女は校門の影から中を伺っては、すぐに戻る、といったことを繰り返していた。


「だって……人、多いじゃないですかっ」


少し丈の長いジャージの袖を握りしめ、ふるふると体を震わせながらも、彼女は今にも消え入りそうな声でそう口にする。

確かに、校門周りは部活動で来たらしい生徒、グラウンドからは既にランニングの掛け声らしきものまで聞こえていた。どうやら読みは当たったようだった。


「……大丈夫だって。貸したジャージがあるから、一見、他校の生徒には——」

「それでもです——っ!」


少しだけ裾のあたりを調整したとはいえ、かなり——というか、相当に今の彼女が来ているジャージはブカブカだ。

それでも、まだ誤魔化しは効いただろう。少なくとも、本人が挙動不審にさえなってなければ。


「……取り敢えず、一旦落ち着こう。このままじゃ校内にすら入れないぞ?」

「んぅ……そう、ですけど……」


よっぽど彼女にとっては悩ましい問題なのだ。

震えは止まないまま、声のトーンも安定しない。今度は小さく、そう呟く。

そして、それはよっぽど目立つもの——だったのだろう。


「……こんなところで何やってんだ、楓」


軽く、肩を叩かれて。振り向くと、そこには梨久がいた。

腕時計を確認すると、多少集合時間を過ぎていた。

重役出勤というよりかは、単に遅刻しただけなのか。

土曜日に人を呼びつけておいて遅刻——実に彼らしい、のかもしれない。

それに関していくつか問いただしたいことがあるのは、慣れがあるから伏せておくとして。

俺は、素直に事情を説明した。


「……いや、ちょっとソフィーが日本の学校を知りたいって言ってたから、連れてきた」

「……部外者連れ込みか……大胆なことを。ま、それは置いておいて……親戚ちゃんは緊張している——ってところか」


梨久の観察力を持ってすれば、事細かに説明するでもなくソフィーの状況というのは把握できるものだったらしい。

一瞬、彼が顔を近づけたことによって更に顔を引き攣らせたソフィーから一度距離をとって。

それから、彼は不意に俺の手を掴むと、駆け出した。


「ちょっ、何を!?」


慌てて崩れたバランスを修正しながらも、彼に伴って仕方なく俺も駆け出す。


「後ろ、見てみろって」


そこには俺たちを追いかけて、なのか。相変わらず表情を引き攣らせたままでも、とてとて、と。何とか校門を通り抜けたソフィーがいた。


「考えるだけ、長引くからな。それに、彼女みたいなタイプだとそれが顕著だ。俺の持論だけど」


校舎まであと半分ほど——ということまで来てから、ようやく梨久は俺の手を離した。

間も無くして、ソフィーは追い付いた。


「……急、すぎます——っ」


少々息を切らしながらも、少し細めた目を梨久の方に向ける。おそらく、睨みつけているつもりなのだろう。

当の睨みつけられた本人は、何も気づいていなさそうな表情をしていたが。


「……まあ、とにかく入れたんだから、結果オーライってことで……」

「それはそれ、です……けど」


最初は、少しばかりの膨れっ面。機嫌の悪そうな声音。


「ここがカエデの学校、ですか……」


けれど、次第に興味が膨れ上がって来たのだろうか。

いつの間にか、表情は緩んできていた。


「ああ。だけどな、ここだけじゃないぜ? 着いてこいよ。とびっきりを見せてやる」


少々キザな文言を口にしながらも、梨久は俺たちに背を向け、先を行く。

そして、不覚にも——といった具合ではあったのだろうけれど。


「……とびっきり——ですか……っ!?」


どうやら、彼女は見事にその言葉に食いついてしまったようで。


ソフィーは一層輝かせた瞳を、こちらに向けた。

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