#15 魔女様とパートナー
「……けっこう、練習した方だと思うんだけどな……」
自分より頭二つ分くらい低い場所で結わえられた髪。それを纏め上げているリボンから手を離す。
かれこれ練習して二週間。急なお願いに応えるために、かなり頑張ったつもりだ。
遂にやって来た当日に際して、かなり気を張りつつも髪を編んで——。結果として、ハーフアップとしての形は確かにできた、けれど。
思っていたよりも、編んだところの綻びは大きくなってしまった。
「……なあ、これでほんとに大丈夫、なのか? 七五三、大事だぞ?」
「……ん? わたしはこれでじゅーぶん、だと思うけど。むしろ、いいカンジじゃない?」
しかし、俺の抱えていた不安の大きさに対して、目の前の表情は、実にきょとんとしていた。
口調も案外あっけらかんとしたもので。何だか、こちらまで気が抜けるのを感じる。
「……意外と、適当なんだな」
「テキトウじゃないよ。でも、ママのお願いだよ? それにそれに、ゼッタイいいっていうとおもうしっ!」
「……それじゃ、一回見てもらうか……?」
「うんっ!」
自分より二、三回りは小さいだろう手が俺を引っ張っていく。
力こそまだ弱くても、勢いだけは十分だ。あまり距離のない廊下を進んでいって——二人、ドアの前に立つ。
「ママ、この髪型ねっ!」
それが開く直前だった。
突如として、繋がっていた手の感覚も、肌に触れていた暖かい空気も——何もかもが消え失せて。
「——なっ」
視界が、黒く塗りつぶされた。
慌てて何かに触れようと手を伸ばす。けれど、どれだけ動かしても、指先が何かに触れることはなかった。
肌には何も感じない。空気ですら、そこにあるのかもわからない。
床なんてものは、とっくに消え失せていた。
それでも、失せた平衡感覚じゃ、浮いているのか、落ちているのか——なんて、ちっともわからなくて。
いや、むしろ、その場に自分が溶け込んでいくような感覚だ。
なぜ、こんなところにいるのだろう。
どういう経緯を辿って? そもそも、今まで知覚していたものはなんだった?
——俺は、一体……?
問いかければ問いかけるほど、更に思考が薄まっていくのを感じる。
不明瞭になった境目。空間に浸った全身。
そのまま、身を任せようとした時だった。
四方八方が黒く塗りつぶされていた中、不意に体がただ一点に引き寄せられたのを感じた。
そこにあったのは、一つの手だった。
迷わずそれを掴む。
温くて、柔らかくて、確かに鼓動を刻んでいて。一つ一つ、認識できるものが増えて——。
「——カエデっ!」
一瞬にして、膨大な情報量が俺を襲った。
クーラーが送り出す冷気、横たわっていたらしいソファーの反発力、少し身動きをとってみれば、ささやかな衣擦れを耳が拾って。
広がった視界に映るのは天井と、視界の端にチラリと映るガラス戸とソファ。そして、俺を見つめる青い瞳——ソフィーが、すぐ目の前にいた。
「……俺、どうなってたんだ……?」
俺の手をぎゅっと包む、真っ白なソフィーの手。
それは、小刻みに震えていた。
「——うなされてた、みたいで……。何度も呼びかけましたが、全然、起きなくて」
「……そっか。ありがとな、起こしてくれて」
確かに、記憶を手繰ってみればソフィーをおぶって家に帰ってきて、手当てをした直後、どっと疲労感が襲ってきて、そのまま寝てしまったような気がする。
空は、既にオレンジに色づきだしていて。どうやら、相当な時間寝ていたらしい。
しかし、うなされていたとはいえども、どんな夢を見ていたのかなんていうのはちっとも思い出せない。
度々あることだ。それならきっと問題ないだろうと、身を起こす。
「——っ」
直後、強い脱力感が俺を襲った。
そのまま倒れ込んだ体を、再びソファーが受け止める。
「カエデっ!? どうしたのですか!?」
すぐにソフィーの不安げな声が聞こえてくる。
しかし、脱力感は一瞬だけのものだったようで。
ソファーの端を掴みながら、ではあったけれど、次は身を起こすのに成功する。
まるで、緊張から解放された時に訪れるような、一抹の安心感。
さっきの脱力感はそれに近いものだった。
相も変わらず内容は思い出せないが……そこまで、夢の中じゃ気を張っていたのだろうか。
ただ、今はその内容について考えるよりも先にソフィーを安心させた方がいいはずだ。
彼女に向き直り、口を開く。
「多分、怖い夢を見て腰が抜けただけだ。安心してくれ」
「……であれば、よかった……です」
どうやら、うなされていたことも含めて、想像以上に心配させていたらしい。
ソフィーまで、気が抜けたようだった。
すっかり安心したような間伸びした声で彼女は答える。
「……そういえば、怪我は?」
「ええ。カエデが治療してくれたおかげで、今は痛くありません」
膝のガーゼを撫ぜながらそこまで言い切った後だった。彼女は僅かに俯いて。
「……ただ、その——」
そののち、神妙な面持ちで言葉を顔を上げると言葉を継いだ。
「——さっきは、ごめんなさいっ! カエデっ!」
彼女の頬を伝った水滴が、繋がったままでいる手に落ちて僅かなシミを作る。
ソフィーは、泣いていた。
「ちょっ、ソフィ——っ!?」
宥めつつも、理由を少しばかり考えて——はた、と。転ぶ直前に彼女が口にしていた言葉が脳裏をよぎる。
『——でも、知らないのですっ!』
“知らない”と。彼女にしては珍しい言葉。
「……別に、気にしてないよ。危ないから気をつけては欲しいけど」
それから走り出したということは、きっと何か関係しているのだろう。
ただ、どういう意味で発した言葉なのか。それがイマイチわからない。
「ところで——さっきの“知らない”って、あれは何に対して、だったんだ?」
そう聞くと、僅かに顔を上げて。
少し考えるように首を傾げながらも、彼女は答えた。
「……私も、わかりません。ただ、妙に胸がちくちくして……焦れて……初めて、でした。……こういうの」
彼女自身、当惑しているようだった。
その声音は、いつものように断定するような節は感じられず、むしろ、消え入りそうなもので。
彼女自身にもわからないなら、困ったな——と。少しばかり、俺も頭を抱えそうになった時だった。
『——あの、ヒトは……?』
不意に、彼女が口にしていた言葉とあの時の彼女には不釣り合いなくらい速い歩調が脳裏をよぎった。
確か、三浦と話していたところをソフィーに見つかった直後だ。
そういえば、彼女の唐突な行動や言動は、あの時だけじゃなかった気がする。
服を着せた時も、映画を見終わった時も——すぐ、こいに結びつけようとしていた。まるで焦っているかのように。
「……なあ、ソフィー。こいは、未知か?」
「……未知……です、けど……」
この三日間で、ソフィーの未知に対する姿勢は、十分、理解していたつもりだった。
すぐに飛びついて、知識を入れて、既知へと変えようとして。それを、一刻を争うように実行しようとする——。
こいに対する姿勢もまた、似たようなものだ。
一つ一つ状態を照らし合わせ、しつこいほどにこいかと聞いてくる。
「だったらさ、こいに対して、ソフィーが急ぎたいのもわかる。未知、放っておけないもんな」
「……ええ」
どこか、思い当たる節はあったのだろう。
淡々と、彼女は頷くばかりだった。
「……でもさ、焦らずに行こう」
その時、瞳が真っ直ぐこちらに向けられた。
ぱちり、と。物珍しいものでも見たかのように一度瞬きをして。けれど、視線だけは変えることなく、ずっとこちらに向け続ける。
「……焦らず、ですか?」
「ああ。こいが何か、なんて。時間がかかって当然だよ。実際、定義なんて何にも書いてないんだから。自分たちで探さなきゃいけない分、大変に決まってる」
「……時間は、かかって当然……」
一言一言、飲み込むように彼女は口元で言葉を反芻する。
「……言ったろ? 手伝うって。一人じゃフォローしきれないんだったら、頼ってくれて良いって」
「……でも、それは背丈のことだけでは」
「まあ、あの時はそうだったけど——これはこれ、だ」
「では……本当に、こいの究明に、付き合ってくれるのですか?」
また大きく目を見開いて彼女は聞いてくる。
頼み事一つや手伝い一つ。今までのものは大したことがなかったが、今回の——恋することの重みは、俺にだってわかる。
けれど、彼女に惹かれた。
彼女のことが、強く気にかかった。
誰かに対して、初めてそんな気持ちを抱いたのもまた事実だ。
それが本当に彼女の言うこいなのか、未だ確証は持てない。
でも、それはきっと言葉で表せるほど理性的なものではなくて。
半ば、奥の奥に根付いているもの——それこそ、魂だとか。最初に彼女が魔法と一緒に見せてくれたいくつもの光のように、捉えどころのないものなのかもしれない。
とにかく、その手を取れ、と。
強く、何かが訴えかけてきていた。
「——付き合うよ」
言葉が口を突いて出て。
俺は、彼女の手を取った。
「カ、カエデ——っ!?」
当惑しているかのような声を漏らしつつ、彼女は何度も瞳を瞬かせる。
けれど、何度かの深呼吸ののち、やっと落ち着いたのか。十数秒してから、もう一度こちらを見据えて。
「……そう、ですね。そうです。……パートナーとして——よろしくお願いします。カエデ」
幾分か綻んだ表情で、彼女は頷いた。
それは、図書館の時のかしこまったものではなく、もっと親しげで。
それでいて、彼女らしい、はっきりとした態度だった。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
「……もう、こんな時間ですか。晩ごはん、そろそろですね」
「確かに。あっという間だったな」
もう、日はほとんど沈みきっていて、空はオレンジを通り越し、夜が近づいてきていた。
そんな時間帯になれば、どんなに色々と詰まった一日だったとしても、腹の虫は鳴るもので。
「……ありあわせしかないけど、今日はどんなのがいい?」
「……いえ。カエデは疲れてるでしょう? それに、パートナーとして、互いに分担はしなければ。今日の料理は、私がやりますっ」
そう胸を張って宣言すると、ソフィーは小走り気味にキッチンの方へ向かってしまった。
それじゃあ、全部任せるか——とも行かず、どこか一抹の不安に駆られて、俺も立ち上がり、キッチンに向かおうとした時——。
テーブルの上に、折り畳まれた状態で、リボンが置いてあった。
反射的にそれを取ってすぐ、ポケットに捩じ込む。
「カエデ? どうかしましたか?」
「……い、いや……なんでもないよ」
気取られぬよう、幾分か高いトーンでそう答えると、俺は先ほどポケットにしまったものを忘れるために、首を振って。
ソフィーが待つ、キッチンへと向かった。
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