#14 あなたの背に揺られて。
「……ししょー、なるべく急ぐから、少し我慢しててくれ」
その単語を耳にしたのは、一体、いつぶりだったのでしょうか。
少しごつごつとした、背中の感触。それは、私が知っているものよりも、ずっと大きくて。
声も、言語も、あの時とは全く違うものです。
それなのに——その少しだけ舌足らずな響きは、記憶の中に留まっていたものと、全く同じものでした。
けれど、今のが何か、なんて聞いたら、きっとカエデは慌てて否定するはずです。
口振りから察するに、本人も気がついていないようでしたから。
その響きは、胸の中に留めるだけにしておきます。
「歩道橋渡るから、ちゃんと掴まれよ」
少しだけ、揺れが大きくなります。
それに応じるようにぶらぶらと足が揺れ、カエデが足に巻いてくれたリボンが、僅かに風に靡きます。
これくらいの傷だったら、魔法で治すことだってできたはずなのに。
——結局、私はその選択肢を取りませんでした。
非合理的なのは、確かに理解しています。
怪我を治すべきなのはそもそも当然で。そうすれば、カエデを疲れさせてしまうことだってありません。
けれど、合理性すらも無視してしまうくらいに強く、胸で燻るものがありました。
本当に、不思議なことばかりです。
なぜ、カエデが他の女性と話していただけで、胸がちくちくとして、焦ってしまったのでしょうか。
なぜ、カエデのちょっとした一言で、ここまで心臓の鼓動が早まるのでしょうか。
ここに来る前——彼と暮らしていた頃、初めて気づくことのできた鼓動は、以前よりもずっと鮮明に感じられるようになっていました。
——ああ、今、強く拍を刻んでいるんだ——なんて。
それに気づくと、途端、頬は紅潮します。
一人でいた時には感じなかったものを感じて、勝手に頬が紅潮して、胸の鼓動がさらに強まって——未だ確証は持てませんが、これが、こい、なのでしょうか。
しかし、だとしたら、なぜ人がそれを欲するのか——それが、まだわかりません。
どきどきしている時も、焦れている時も、どんな時だって、いつもよりずっと疲れます。
感情の起伏の激しさも、それが行動に現れてしまうところも、全てにおいて非合理的です。
けれど、それを知りたい、と。
私は請うてしまったのです。
本を前にしても、いくら文字列で脳を満たしても、理解できなかったこいを。
「……カエデ、ありがとうございます」
「……どういたしまして。もう少しで着くからな」
ここに来た目的は明瞭です。
こいのためだけじゃないということは理解しています。
それでも、もし知ることができるのなら、知りたいのです。
この胸の鼓動が、頬の紅潮が、彼に向いていた感情が、行き着く先を。
前提の前提、最初の条件は整いました。
一度は消えた温もりと——たとえ今の間だけであろうとも——また、私は一緒です。
一方的であろうとも、歪であろうとも、どんな形であっても構いません。
——こいを、知りたいのです。
その欲求は、未知を求め、既知に変える直前と似ているようで。
また、非なるものでもあるような気がしてなりませんでした。
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